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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
第二部 「神隠し集落の記帳本」
13/18

十二頁目:新たな頁


 世界から色彩が抜け落ち、モノクロの活字だけが躍るようなあの日々から一週間。


 僕の日常は、劇的な変化と、それ以上に奇妙な停滞の中にあった。


 現在、僕の住民票上の住所は装幀市の端にある古アパートの一〇三号室のままだが、物理的な居場所はそこにはない。


 襲撃を受けたあの場所は、"清書"が終わった後も"何者か"に監視されている気配が消えず、結局僕は朱音の仕事場兼住居であるマンションの、一角にある撮影用スタジオに身を寄せている。


 防音材が敷き詰められた壁、高性能なPC、ジンバル、LEDライト、そして山のようなガジェット類。


 叔父の家のような古びた紙の匂いとは対極にある、シリコンと熱を持った機械の匂いに満ちた部屋。それが今の僕の寝床だ。


「さっくー、今の画角最高! そのまま、ちょっと困った感じの顔してて。もうちょっと、ちょっとだけだから!」


「……いいですけど、本当にそのカメラ、顔は映ってないんですよね?」


 そう牽制しつつ、朱音に貸与されたスマートフォンに目を落とす。


 僕の以前の端末(スマホ)は、叔父のPCから感染したマルウェアによって"犯人"への発信機と化してしまった。


 そのため、回収は断念している。もしかすると、今もあのアパートの一室に転がっているのかもしれないが、確かめに行く勇気はない。


 昼間は大学へ通い、空き時間は"あかねチャンネル"の撮影補助。時に"謎の清書係・さっくー"としての顔出し無し出演。そして夜になれば、装幀市の陰にあるバイト先――"丑三ツ書店"へと向かう。


 それが、僕の新しい日常だった。


 カラン、と深夜二時の静寂を裂いて鈴の音が響く。


 装幀市の夜は、今日も深い藍色のインクに浸されている。


「……おはよ、墨千夜さん」


「……ん、朔か。……おはよ……」


 カウンターの奥で、大きな和服に埋もれるようにして丸まっている店主は、今日もまた、微睡みから抜け出し切れていないようだった。


 店が開くまでの時間帯、彼女の生命活動は最低限の糖分摂取と微睡みに支配されているらしい。


 あの時の、凛とした、死者の声を代弁するような超然とした雰囲気はどこへやら、今の彼女は放っておけばそのまま溶けて消えてしまいそうなほど頼りない。けれどそれも、店が開けば、しゃんとするはずだ。


 僕はため息をつきながら、コンビニで買ってきた三個パックのプリンの一つを彼女の前に置いた。


 彼女は目も開けずに、指先だけでそれを手繰り寄せると、スプーンを器用に動かして口に運ぶ。その様子を確認してから、僕は店番の仕事に取り掛かった。


 とはいえ、この店ですることはそう多くない。


 扱うのは"絶筆"のみ。棚に並ぶのは、死の淵で書かれた、あるいは死後に見つかった遺書や、未完の原稿、解読不能な殴り書きのコピーばかり。


 冷やかしで入ってくる客などまずいないし、そもそもこの店に辿り着ける人間自体が限られている。


 僕は棚の整理をしながら、心の中に折り重なっていく退屈感を自覚していた。

 

(……清書の仕事、来ないな)


 あの日、叔父の絶筆をなぞった時に感じた、あの指先を焼くような熱。


 他人の人生が自分の中に逆流してくる、悍ましくも陶酔的な感覚。


 一度それを知ってしまった僕の指先は、日常の平穏に、どこか物足りなさを感じていた。自分という白紙を埋めてくれる、誰かの鮮烈なインクを求めている。

 

 だが、墨千夜が言うには矢鱈に清書することは良くないらしい。


 ただの遺書をなぞるだけでは意味がない。そこに込められた"声"が、清書係という器を呼ぶ時にしか、仕事は発生しないのだという。


 時計の針が三時を回った。


 いつもなら、この時間には朱音が「今日も噂の丑三ツ書店に潜入ー!」と、ジンバルを振り回しながら店に飛び込んでくるはずだった。


 彼女はこの店での僕の労働環境に興味があるらしく、深夜二時から閉店(よあけ)までの間に一度は必ず顔を出し、店の隅で勝手にカメラを回し始めるのだ。


 けれど、今日は来ない。


 昼間にスタジオで撮影を手伝った時には、いつも通りのハイテンションで「今夜は心霊スポットの過去ログ整理するから、ちょっと遅れるかも!」と言っていた。


 けれど、流石に遅すぎる。


(……何か、トラブルでもあったのか?)


 僕がスマホを取り出し、朱音にメッセージを送ろうとした、その時。


 ガチャン! と。


 静かな店に、場違いに乱暴な扉の開く音が響いた。


「ハァッ、ハァッ……! ごめん、遅くなった! ちょっと、調整に手間取っちゃって!」


 飛び込んできたのは、肩を上下に揺らす朱音だった。


 いつものボブヘアは少し乱れ、パーカーの裾には泥のようなものが跳ねている。けれど、その瞳には焦りよりも、新しい"獲物"を見つけた配信者特有のギラついた熱が宿っていた。


「朱音さん、どうしたんですか。その格好……」


「私のことはいいの! それより、さっくー、紹介するね」


 朱音が扉を半開きのままにして、背後に向かって手招きをする。


 そこに、もう一つの影がゆっくりと現れた。


 入ってきたのは、一人の女性だった。


 春物のトレンチコートを着崩し、控えめなメイクを施した彼女は、おそらく僕とそう年齢は変わらないだろう。大学生、あるいは新社会人といった佇まいだ。


 けれど、その瞳の下には濃い(くま)が浮き、表情には拭いきれない疲労と、何かに怯えるような影が張り付いていた。


「……ご友人、ですか? こんな深夜に、こんな店に連れてくるなんて……」


 僕が訝しげに尋ねると、朱音は首を横に振り、カメラを向ける代わりに真剣なトーンで言った。


「違うよ、さっくー。この子は、あかねチャンネルのリスナー。……そして、今回の"依頼人"」


「依頼人……?」


 聞き慣れない単語に、僕は墨千夜の方を振り返った。目ぼけ眼だった彼女も、いつの間にかプリンのスプーンを置き、琥珀色の瞳を薄く開けてこちらを見ていた。


 女性は、僕の目を真っ直ぐに見つめ返すと、震える声で名乗った。


「……台東(たいとう)と、申します」


「台東さん、ね。……朱音さんのチャンネルのリスナーが、僕に何の用ですか?」


 台東さんは、コートのポケットから一通の封筒を取り出した。


 そこには、どこか地方の消印が押されており、中からは古びた写真が一枚滑り落ちた。

 

 写真に写っていたのは、深い霧に包まれた、山あいの集落。


 その入り口にある、古びた公民館のような建物だった。


「白河朔さん……。あかねさんの配信で、あなたが"死者の言葉をなぞる人"だと聞きました。……お願いです。助けてください」


 彼女は、祈るように両手を組み、絞り出すような声で続けた。


「……"神隠し"が日常的に起きると言われている、ある村に……一枚の、いえ、一冊の"絶筆"があるんです。……それを、清書していただきたい。そうしないと、また、誰かが消えてしまうから」 


 指先が、待っていたと言わんばかりに、微かな熱を帯び始める。


 僕の退屈は、その瞬間に霧散したのだった。


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