十一頁目:あとがきに代えて
夜明けの光というのは、時に残酷なほどに全てを白日の下に晒してしまう。
人気のない駅前のロータリー。昨夜の死闘と、墨千夜の店で過ごした濃密な沈黙が嘘のように、街は平然とした顔をして目覚め始めていた。
僕は眠ることもせず、始発の電車に揺られて都心の出版社へと向かった。
鞄の中には、叔父の一万字の写しと、日下が隠蔽しようとした毒入りの手記、そして僕が"清書"によって導き出した他殺の確信が詰まっている。
日下に会わなければならない。
彼を糾弾するためではない。正義を振りかざすためでもない。
ただ、叔父の物語を終わらせるために、彼が語らなかった行間を聞き出す必要がある。そう思っていた。
午前九時。都内の某所にある老舗出版社、光文館の受付を通る。
編集部は、徹夜明けの熱気とコーヒーの匂い、そして電話の呼び出し音が混ざり合う、いつもの殺伐とした活気に満ちていた。
「あ、白河先生の……朔くんだよね? どうしたんだい、こんな朝早くに」
顔見知りの副編集長が、怪訝そうな顔で僕を呼び止めた。僕は努めて冷静を装い、その名前を出した。
「日下さんに、少しお聞きしたいことがあって。……いらっしゃいますか?」
「日下くん? ……ああ、それがさ。弱ったよ」
副編集長は、困り果てたように自分の頭を掻いた。
「彼、今朝から連絡が取れなくてね。無断欠勤なんて今まで一度もなかったんだけど。……自宅にもいないみたいだし、スマホも電源が切れたままだ。どこいっちゃったんだろうね……?」
その瞬間、僕の足元から体温がスッと抜けていくような感覚があった。
「……いなくなった?」
「ああ。白河先生の件で相当参っていたみたいだから、少し心配でね。警察には一応届けを出したけど。……君、何か心当たりはあるかい?」
「……いいえ。何も」
僕は嘘を吐いた。
心当たりなら、山ほどある。昨日の日下さんのあの不自然な沈黙。僕の家を襲撃した無言の男たち。叔父を死に追いやった"指切り心中"の呪い。
日下は逃げたのか。あるいは、彼もまた――"清算"されたのか。
僕はフラフラとした足取りで編集部を後にした。
日下のデスクは、まるで昨日から主を失っていたかのように、あまりに綺麗に整頓されていた。そこには叔父の新作のゲラも、読みかけの資料も、何も残っていなかった。
まるで、最初からそこに日下という人間など存在しなかったかのように。
――翌日。
街が再び深い藍色のインクに染まるのを待って、僕は装幀市の路地の奥へと足を向けた。
シャッター通りの突き当たり。琥珀色の光を灯す"丑三ツ書店"の暖簾をくぐると、そこには既に先客がいた。
「あ、さっくー! 今日も来たんだ! その後どうなったのか、聞かせてよ!」
カウンターにどっかりと腰掛け、コンビニの菓子パンを齧っている朱音が、僕を見るなり騒ぎ立てた。隣には、昨日と全く変わらぬ超然とした佇まいの墨千夜が、静かに茶を啜っている。
「……日下さんは、いなくなっていました。会社にも、家にも、どこにも」
僕が絞り出すようにそう告げると、朱音はパンを咀嚼する手を止め、真剣な目で僕を見た。
「……マジか。それ、完全にクロじゃん。警察に行こう、さっくー。あの毒入りの本を持ってさ。警察も日下を指名手配するなり何なりしてくれるでしょ。再捜査さえ始まれば、叔父さんの無念も晴らせるって」
朱音の言葉は、一般的で、そして正しい。
法に委ね、彼を罪人として裁くこと。それが他殺という事実を掴んだ人間が取るべき、最短で最良の道だ。
けれど。
僕はゆっくりと、首を横に振った。
「……それじゃ、駄目なんです」
「なんで!? あいつ、人殺しだよ!? さっくーだって殺されかけたんだよ!?」
「……僕の件は、まだあの人のせいとは決まっていないでしょう」
「そうだけどさ、少なくとも叔父さんの方は確実にクロなんでしょ、じゃあ、やっぱケーサツだよ」
「……日下さんは、僕に言いました。『君は、君の物語を書くべきだ』と。……あの人は、叔父さんを殺した犯人かもしれないけれど、僕にとっては叔父さんと共に歩んでいた、唯一の理解者でもあったんです」
僕は自分の指先を見つめた。清書によって得た、あの冷たい痺れがまだ残っている。
「どうして、あの日下さんが、叔父さんを殺さなければならなかったのか。……"指切り心中"、あの事件に眠る真実とは何だったのか。……それを、警察の調書や、裁判の判決文なんかで知りたくないんです。僕は、僕の言葉で、あの人の口から直接、真実を聞き出したい。……じゃないと、叔父さんの絶筆は、永遠に完成しない」
僕が語ったのは、傲慢で、ひどく個人的な"作家のエゴ"に似た何かだった。
「さっくー……。あんた、意外と頑固だね。っていうか、変人だよ。そんなの危なすぎるって」
朱音は呆れたように吐き捨てたが、その瞳にはどこか納得したような光があった。
その時。
それまで沈黙を守っていた墨千夜が、ふっと薄く笑った。
「……くふふ。いい覚悟だ、朔。君はもう、ただの読者ではいられないようだね」
彼女は音もなく立ち上がり、僕の目の前まで歩み寄った。
琥珀色の瞳が、僕の魂の輪郭をなぞるように、至近距離で見つめてくる。
「それなら、朔。君に一つ提案がある。……うちの店で、"清書係"をやってみないかい?」
「……"清書係"、ですか?」
「そう。この店には、日々多くの絶筆が持ち込まれる。後悔、怨嗟、あるいは誰にも届かなかった愛……。それらは皆、濁り、震え、判読不能なノイズとなって漂っている。……君のその、透明で空っぽな文字で、それらをこの世の言葉に繋ぎ止めるんだ」
墨千夜は、和服の袖を揺らして店内の棚を指し示した。
「人の末期の言葉には、思いがけぬ情報の断片が紛れているものさ。叔父様を殺した"ナニカ"の影。この街の裏で蠢くモノの正体。……清書を続けていれば、いつか必ず、君が知りたい真実の頁に辿り着けるだろう」
「……僕が、この店の一員に?」
「嫌? 楽しいよー、さっくー! 私が現場のネタを拾ってきて、さっくーがそれを清書して、すみちーがニヤニヤ眺める! 最強のチームじゃん!」
朱音がいつもの調子で僕の背中をバシバシと叩いた。その痛みと熱が、冷え切っていた僕の身体に意味を与えてくれるような気がした。
自分はまだ、空っぽだ。
顔がないと一蹴された、何者でもない僕。
けれど、誰かの絶筆をなぞることでしか真実に触れられないのなら、僕は喜んでその器になろう。
叔父さんの死の裏側を暴くため。
日下という男を見つけ出し、彼の中に眠る"あとがき"を剥ぎ取るため。
「……やらせてください。僕に、清書を」
僕の答えを聞くと、墨千夜は満足げに目を細めた。
「決まりだね。……ようこそ、丑三ツ書店へ。新しい清書係の誕生を祝して、今夜はとっておきの"死者の物語"を用意しようか」
夜明けを待つのは、もう終わりだ。
これからは、夜の深淵へと潜り、文字の杭を打っていく。
叔父さんが遺した未完の物語は、今、僕の指先から、新たな一頁を捲り始めていた。
装幀市の闇はまだ深い。
行方知れずとなった日下の影も、二十年前の"指切り心中"の呪いも、すべてはまだ、解決していない。
けれど、僕の右手の震えは、もう止まっていた。
僕の、白河朔の物語は、この場所から、本当の意味で始まろうとしていたのだから。




