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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
第一部「指切り原稿」
12/19

十一頁目:あとがきに代えて


 夜明けの光というのは、時に残酷なほどに全てを白日の下に晒してしまう。


 人気のない駅前のロータリー。昨夜の死闘と、墨千夜の店で過ごした濃密な沈黙が嘘のように、街は平然とした顔をして目覚め始めていた。

 

 僕は眠ることもせず、始発の電車に揺られて都心の出版社へと向かった。


 鞄の中には、叔父の一万字の写しと、日下が隠蔽しようとした毒入りの手記、そして僕が"清書"によって導き出した他殺の確信が詰まっている。

 

 日下に会わなければならない。


 彼を糾弾するためではない。正義を振りかざすためでもない。


 ただ、叔父の物語を終わらせるために、彼が語らなかった行間を聞き出す必要がある。そう思っていた。


 午前九時。都内の某所にある老舗出版社、光文館(こうぶんかん)の受付を通る。


 編集部は、徹夜明けの熱気とコーヒーの匂い、そして電話の呼び出し音が混ざり合う、いつもの殺伐とした活気に満ちていた。

 

「あ、白河先生の……朔くんだよね? どうしたんだい、こんな朝早くに」

 

 顔見知りの副編集長が、怪訝そうな顔で僕を呼び止めた。僕は努めて冷静を装い、その名前を出した。

 

「日下さんに、少しお聞きしたいことがあって。……いらっしゃいますか?」

 

「日下くん? ……ああ、それがさ。弱ったよ」

 

 副編集長は、困り果てたように自分の頭を掻いた。


 

「彼、今朝から連絡が取れなくてね。無断欠勤なんて今まで一度もなかったんだけど。……自宅にもいないみたいだし、スマホも電源が切れたままだ。どこいっちゃったんだろうね……?」

 


 その瞬間、僕の足元から体温がスッと抜けていくような感覚があった。

 

「……いなくなった?」

 

「ああ。白河先生の件で相当参っていたみたいだから、少し心配でね。警察には一応届けを出したけど。……君、何か心当たりはあるかい?」

 

「……いいえ。何も」

 

 僕は嘘を吐いた。


 心当たりなら、山ほどある。昨日の日下さんのあの不自然な沈黙。僕の家を襲撃した無言の男たち。叔父を死に追いやった"指切り心中"の呪い。

 

 日下は逃げたのか。あるいは、彼もまた――"清算"されたのか。

 

 僕はフラフラとした足取りで編集部を後にした。


 日下のデスクは、まるで昨日から主を失っていたかのように、あまりに綺麗に整頓されていた。そこには叔父の新作のゲラも、読みかけの資料も、何も残っていなかった。


 まるで、最初からそこに日下という人間など存在しなかったかのように。



 ――翌日。



 街が再び深い藍色のインクに染まるのを待って、僕は装幀市の路地の奥へと足を向けた。

 

 シャッター通りの突き当たり。琥珀色の光を灯す"丑三ツ書店"の暖簾をくぐると、そこには既に先客がいた。

 

「あ、さっくー! 今日も来たんだ! その後どうなったのか、聞かせてよ!」

 

 カウンターにどっかりと腰掛け、コンビニの菓子パンを齧っている朱音あかねが、僕を見るなり騒ぎ立てた。隣には、昨日と全く変わらぬ超然とした佇まいの墨千夜が、静かに茶を(すす)っている。

 

「……日下さんは、いなくなっていました。会社にも、家にも、どこにも」

 

 僕が絞り出すようにそう告げると、朱音はパンを咀嚼する手を止め、真剣な目で僕を見た。

 

「……マジか。それ、完全にクロじゃん。警察に行こう、さっくー。あの毒入りの本を持ってさ。警察も日下を指名手配するなり何なりしてくれるでしょ。再捜査さえ始まれば、叔父さんの無念も晴らせるって」

 

 朱音の言葉は、一般的で、そして正しい。


 法に委ね、彼を罪人として裁くこと。それが他殺という事実を掴んだ人間が取るべき、最短で最良の道だ。

 


 けれど。

 僕はゆっくりと、首を横に振った。


 

「……それじゃ、駄目なんです」

 

「なんで!? あいつ、人殺しだよ!? さっくーだって殺されかけたんだよ!?」

 

「……僕の件は、まだあの人のせいとは決まっていないでしょう」


「そうだけどさ、少なくとも叔父さんの方は確実にクロなんでしょ、じゃあ、やっぱケーサツだよ」


「……日下さんは、僕に言いました。『君は、君の物語を書くべきだ』と。……あの人は、叔父さんを殺した犯人かもしれないけれど、僕にとっては叔父さんと共に歩んでいた、唯一の理解者でもあったんです」

 

 僕は自分の指先を見つめた。清書によって得た、あの冷たい痺れがまだ残っている。

 

「どうして、あの日下さんが、叔父さんを殺さなければならなかったのか。……"指切り心中"、あの事件に眠る真実とは何だったのか。……それを、警察の調書や、裁判の判決文なんかで知りたくないんです。僕は、僕の言葉で、あの人の口から直接、真実を聞き出したい。……じゃないと、叔父さんの絶筆は、永遠に完成しない」

 

 僕が語ったのは、傲慢で、ひどく個人的な"作家のエゴ"に似た何かだった。

 

「さっくー……。あんた、意外と頑固だね。っていうか、変人だよ。そんなの危なすぎるって」

 

 朱音は呆れたように吐き捨てたが、その瞳にはどこか納得したような光があった。

 

 その時。

 それまで沈黙を守っていた墨千夜が、ふっと薄く笑った。

 

「……くふふ。いい覚悟だ、朔。君はもう、ただの読者ではいられないようだね」

 

 彼女は音もなく立ち上がり、僕の目の前まで歩み寄った。


 琥珀色の瞳が、僕の魂の輪郭をなぞるように、至近距離で見つめてくる。

 


「それなら、朔。君に一つ提案がある。……うちの店で、"清書係"をやってみないかい?」

 


「……"清書係"、ですか?」

 

「そう。この店には、日々多くの絶筆が持ち込まれる。後悔、怨嗟、あるいは誰にも届かなかった愛……。それらは皆、濁り、震え、判読不能なノイズとなって漂っている。……君のその、透明で空っぽな文字で、それらをこの世の言葉に繋ぎ止めるんだ」


 

 墨千夜は、和服の袖を揺らして店内の棚を指し示した。

 

「人の末期の言葉には、思いがけぬ情報の断片が紛れているものさ。叔父様を殺した"ナニカ"の影。この街の裏で蠢くモノの正体。……清書を続けていれば、いつか必ず、君が知りたい真実の(ページ)に辿り着けるだろう」

 

「……僕が、この店の一員に?」

 

「嫌? 楽しいよー、さっくー! 私が現場のネタを拾ってきて、さっくーがそれを清書して、すみちーがニヤニヤ眺める! 最強のチームじゃん!」

 

 朱音がいつもの調子で僕の背中をバシバシと叩いた。その痛みと熱が、冷え切っていた僕の身体に意味を与えてくれるような気がした。

 

 自分はまだ、空っぽだ。


 顔がないと一蹴された、何者でもない僕。


 けれど、誰かの絶筆をなぞることでしか真実に触れられないのなら、僕は喜んでその器になろう。

 

 叔父さんの死の裏側を暴くため。


 日下という男を見つけ出し、彼の中に眠る"あとがき"を剥ぎ取るため。

 

「……やらせてください。僕に、清書を」

 

 僕の答えを聞くと、墨千夜は満足げに目を細めた。

 

「決まりだね。……ようこそ、丑三ツ書店へ。新しい清書係の誕生を祝して、今夜はとっておきの"死者の物語"を用意しようか」

 

 夜明けを待つのは、もう終わりだ。

 これからは、夜の深淵へと潜り、文字の杭を打っていく。

 

 叔父さんが遺した未完の物語は、今、僕の指先から、新たな一頁を捲り始めていた。

 

 装幀市の闇はまだ深い。

 行方知れずとなった日下の影も、二十年前の"指切り心中"の呪いも、すべてはまだ、解決していない。

 

 けれど、僕の右手の震えは、もう止まっていた。

 

 僕の、白河朔の物語は、この場所から、本当の意味で始まろうとしていたのだから。


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