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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
第一部「指切り原稿」
11/19

十頁目:一万字の遺言


「……他殺って、どういうこと? さっくー、叔父さんは心不全って……」


 朱音の困惑した声が、四畳半の静域に波紋を広げる。彼女は手に持っていたジンバルを危なっかしく揺らしながら、僕の顔を覗き込んできた。


 一方で、墨千夜は表情一つ変えない。ただ、面白そうな玩具を見つけた子供のように、琥珀色の瞳を細めるだけだ。


「さぁ、語ってごらん。君という白紙に、どんな血のインクが滲み出したのか」


 僕は、清書し終えたばかりの和紙を文机の上に置いた。


 指先はまだ微かに痺れている。けれど、頭の中は冬の朝の空気のように澄み渡っていた。


「おかしいと思ったことは、主に三つあります。……一つ目は、あのやけに整った筆致の"絶筆"です」


「整ってた? あれが?」


 朱音が信じられないという風に眉を寄せる。


「一万字も同じ言葉が並んでるんだよ? 狂気以外の何物でもないじゃん」


「確かに内容は異常です。でも、見てください。筆跡が、乱れていない。インクの濃淡さえ一定です」


 僕は、叔父の遺した原稿用紙を指差した。


「本当に死の間際、心臓が止まりかけるほどの錯乱状態にあったのなら、筆圧はもっと乱れ、一画一画に迷いや震えが出るはずです。でも、この原稿にはそれがない。……つまり、叔父さんはあの一万字を書いている時、驚くほど冷静だったんです」


「冷静に、あんな繰り返しを……? 余計に意味が分からないよ」


「逆なんです。冷静だからこそ、叔父さんは、自分が知った"真実"を直接書き残すわけにはいかなかった。なぜなら、そのすぐ近くに、叔父さんの"敵"となり得る人物がいたからです。だから、あの一万行は真実を覆い隠すための、文字通りの"杭"だった。……犯人に中身を理解させないための、偽装なんです」


 墨千夜が、和服の袖で口元を隠してクスクスと笑う。


「ふふ、いい視点だね。敵の目を欺くための狂気か。……では、二つ目は?」


「二つ目は、なぜ叔父さんが、手書きを選んだのか、です」


 僕は、鞄から取り出した叔父の著書をポン、と叩いた。


「叔父さんは完全なデジタル派でした。原稿、プロット、コラムや著者近影のコメントまで。すべて、パソコンで作業していました。なぜ最期だけ、あんなに手間のかかるアナログな手段をとったのか」


「それは……日下さんが言ってたみたいに、なんかこう、作家の魂が燃え尽きる前の一閃、みたいな……?」


「朱音さん、小説家っていうのは、どれだけ魂が燃えていても人間です。心臓が弱っている自覚があったのなら、なおさら、習慣に従ってパソコンを立ち上げるでしょう。……それをしなかったのは、できなかったからです」


「できなかった?」


 朱音が首を傾げる。


「デジタルに頼れない理由があった。……それが、三つ目の理由とも繋がってきます」


 僕は、空っぽになったポケット――正確には、そこに収められていた携帯端末を思い浮かべながら、続ける。


「三つ目は、なぜ僕の部屋に襲撃者がやってきたのか、です」


 朱音が息を呑む。あのアパートの鉄扉を叩く、あの歪な足音が、この静かな部屋に蘇ってくる。


「特定班にバレたって、朱音さんは言いました。でも、タイミングがおかしすぎる。僕は叔父さんの部屋に行き、帰ってきて調べ物をしようとした。……その瞬間に、彼らは来た。まるで、僕が"指切り心中"について調べようとしたことが、トリガーになったみたいに」


「……まさか、ウイルス?」


「その通りです。叔父さんのパソコンには、何者かによってマルウェアが仕込まれていた。……叔父さんが何を調べ、何を書き、誰にメールを送ろうとしているのか。すべてが犯人の元に筒抜けだったんです」


「じゃあ、白河執が、がパソコンで"真実"を打てば……」


「ええ、その瞬間に消去されるか、あるいは……」


 僕は、今日体験したスマホの異常動作を思い返す。


「たぶん、僕が原稿をダウンロードしたとき、僕のスマホにもその"病気(マルウェア)"が感染したんです。だから僕が"指切り心中"について調べようとした瞬間、連中がやってきた。……犯人は、僕が叔父さんの遺志を継ぐことを、何よりも恐れていたんです」


「それなら、ネット経由で誰でも仕込めるじゃん。犯人、わかんなくない?」


 朱音の問いかけに、僕は首を振る。


「……ネット経由なら、叔父さんがあんな手書きの原稿を残す必要はありません。パソコンを買い替えるなり、ネットを切るなりすればいいだけですから。……でも、叔父さんはそれをしなかった。できなかった。……つまり、この"手書きの絶筆"を目の前で手に取ることができる距離――物理的な世界に、犯人がいたんです」


 僕は一度言葉を切った。


 墨千夜が、ゆっくりと僕に近づき、その氷のような指で僕の顎を持ち上げた。


「……誰がやったか(フーダニット)は、今のロジックで十分に導き出せる。けれど、朔。お話を完成させるには、まだ足りないピースがあるね」


 彼女の琥珀色の瞳が、僕の脳裏を暴くように輝く。


どうやって殺したのか(ハウダニット)だ――白河執は自然死とされた。検視官の目も、警察の疑念も潜り抜けた、その見えない凶器はどこにある?」


「……それも、ここにあります」


 僕は、朱音と一緒に叔父の家から回収してきた"包み"を解いた。


 中から現れたのは、色褪せた古い一冊の手記だった。背表紙には何も書かれていない。けれど、その装丁はひどく歪で、ところどころ不自然な光沢を放っている。


「叔父さんの部屋、ジュブナイル小説の棚に、一冊だけ場違いに突っ込んであった資料です。……たぶん、"指切り心中"に関するものだと思います」


「それが、凶器だって言うの?」


 朱音が首を傾げ、無警戒にその表紙に触れようと手を伸ばした。


「死にたくなかったら、触らない方がいいよ、朱音」


 墨千夜が、鋭い声で朱音の手を叩き落とした。


「えっ、痛い! なにするの、すみちー!」


「この本……恐らく、何かが塗ってあるね。経皮吸収されるアコニチンか、あるいはそれに類するアルカロイド系の毒だ」


 墨千夜は、和服の袖で鼻を覆いながら、本を凝視した。


「微量……それこそ、一度触れただけでは影響も軽微だろう。けれど、これを読み、ページを捲り、指先に触れ続ければ……毒は確実に身を蝕む。そうして徐々に負荷をかけ続ければ、いずれ心臓は止まる。……心筋梗塞や心不全と区別がつかない形でね」


 僕は、自分の指先を弄んだ。


 清書をしていた時に感じた、あの僅かな痺れ。


 最初、それは死者の魂との共鳴だと思っていた。けれど、違った。


 僕もまた、叔父を殺したのと同じ毒を、その指に受けていたのだ。


「毒? そんなの使ってたら、警察にバレるでしょ? 血液検査とかするじゃん!」


 朱音が叫ぶが、墨千夜は冷ややかに首を振る。


「……朱音、現実を見なさい。白河執は、あの"絶筆"を遺して死んでいた。誰が見ても、執筆にのめり込み過ぎたがゆえの過労、あるいは発狂によるショック死だ。……現場に荒らされた形跡もなく、遺体にも外傷がない。そうなれば、警察はそこまで詳しく検死は行わないよ。ましてや、毒物反応を調べるための司法解剖なんて。……この装幀市の解剖率は決して高くない。県警だって、事件性が低いと判断した遺体を解剖してまで手間をかけたくはないのさ」


「……その通りです」


 僕は続けた。


「そして、この本がちぐはぐな本棚に押し込まれていた理由も、これで説明がつきます。……犯人は叔父さんの死を確認した後、警察が来るまでの僅かな間に、現場からこの凶器を隠さなければならなかった。けれど、持ち出す時間はない。だから、適当な棚に無理やり押し込んだんです」


 警察は、あの数千冊という本に埋め尽くされた部屋の、すべての一冊一冊を確認したりはしない。


 それが可能だったのは――第一発見者であり、叔父さんの執筆状況を誰よりも把握し、そして叔父さんの信頼を盾にして部屋を自由に行き来できた人物。



「……犯人は、たぶん、日下さん。叔父さんの担当編集だった人です」



 部屋の中に、重い沈黙が落ちた。


 朱音は、もう何も言えずに立ち尽くしていた。


 墨千夜は、満足げに目を細め、文机の上に残された叔父の絶筆を愛おしそうに見つめた。


「……いい"清書"だったよ、朔。君は今、叔父様の遺した一万行の杭を抜いた。……さて、その下に隠された真実を、どう料理するつもりだい?」


 僕は、少し考えた。


 これだけ思いを馳せても、わからないことはまだある。叔父からの信頼も厚く、僕にも良くしてくれたあの日下さんが、どうして殺したのか(ホワイダニット)だ。


 しかし、こればかりは考えていても答えが出ない。知りたければ、僕にできることは一つしかない。


 夜明けの光が、書店の暖簾を白く染め始めていた――。



「――日下さんに、会いに行きます。……僕の文字で、叔父さんの続きを書くために」



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