九頁目:無垢なる静域
漆黒のランドクルーザーは、装幀市の眠る路地の入り口で静かにエンジンを止めた。
車外に一歩踏み出すと、真夜中の冷気が肺の奥まで侵入してくる。アパートでの襲撃の余韻が、まだ指先の震えとなって残っていた。
朱音はスマホのライトを消し、珍しく無言で僕の後に続いた。
シャッター通りの最果て。街灯の光さえ届かない場所で、そこだけが、店主の目と同じ琥珀色の光を湛えて佇んでいる。
"丑三ツ書店"。
昨日よりも、その存在が"現世"から切り離されているように感じられた。
カラン、と鈴の音が響き、濃密な墨の香りが僕たちを迎え入れる。
カウンターの奥では、墨千夜が昨日と全く同じ姿勢で座っていた。膝まで届く艶やかな黒髪を流し、大きな和服の袖から白い指先を覗かせている。
彼女は顔を上げると、僕の憔悴した顔と、その腕に抱えられた"包み"に、底知れぬ琥珀色の瞳を向けた。
「……こんばんは、朔。随分と派手な"読了感"を纏ってきたね。筆を置く寸前――といったところかい?」
「……墨千夜さん。僕は、真実を知りたいんです」
僕はカウンターに手をつき、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「どうして叔父が死ななければならなかったのか。あの一万行に何が隠されているのか。……それを確かめるための手がかりを、掴んできました」
僕は、ここに来る前に立ち寄った叔父の家で回収してきた"それ"を、カウンターの上に置いた。
それを見た瞬間、墨千夜の唇が、三日月のように美しく吊り上がった。
「くふふ……。いい、とてもいいよ、朔。君という、まっさらな白紙に、ようやく消えないインクが染み込み始めたようだ」
彼女は音もなく立ち上がり、和服の裾を翻した。
「わかった。なら、始めようか。今夜も死人の声に触れる、"清書"の時間を――」
彼女が歩き出す。店先で清書を始めるのかと思った僕を、彼女は店のさらに奥へと誘った。
本棚の迷宮を抜け、重い引き戸を開けた先にあったのは、四畳ほどの小さな畳の部屋だった。
そこには、ただ一つ、古びた文机が置かれているだけだった。
壁には掛け軸も、飾りもない。ただ、凛とした空気と、外部の音を一切遮断した"無"の空間が広がっている。
「ここは清書のための部屋。情報のノイズを削ぎ落とし、ただ死者の筆跡とだけ向き合うための、無垢なる静域さ。さぁ、座りなさい」
僕は言われるがままに畳に座り、文机に向かった。
机の上には、昨日と同じ、あの冷たい万年筆と上質な和紙が用意されている。
深呼吸を一つ。
僕は、叔父の一万行のテキスト――その写しを横に置き、真っ白な和紙に最初の一文字を刻み込んだ。
『あの子の指が、足りない』
一画、また一画。
なぞるほどに、昨日の詩人の時とは違う感触が、腕を通じて流れ込んでくる。
昨日感じたのは、凍えるような孤独と絶望だった。
けれど、叔父のこの文字は違う。
ペン先が紙を削る音が、真空のような静寂の中に響き渡る。一文字、また一文字と、叔父の筆跡を自分の指先に憑依させていく。
(……筆跡が、崩れていない)
清書を進めるうちに、まずは、その違和感を無視できなくなる。
心不全を起こし、死の間際に狂ったように書き殴ったのであれば、文字はもっと乱れ、線は飛び、筆圧は不安定になるはずだ。
けれど、叔父の文字は、一万行の最後まで、冷徹なまでに一定のリズムを保っている。
これは、錯乱した人間の書き方ではない。
それは、昨日、墨千代も言っていたことだ。
(叔父さんは、混乱の中でこれを書いたんじゃない……。何かを、正確に伝えるために、この"形"を選んだんだ)
なぞる指先が熱を帯びていく。
意識の深淵で、叔父の書斎の風景が明滅する。
(――叔父さんは死の間際に資料を取り寄せていた。それは間違いなく、あの"指切り心中"に関係するものだ)
市内の学校で、過去にあったという、凄惨な事件。その資料を掻き集めながら、叔父は執筆に没頭していった。
それこそ、体調を崩してしまうほどに。
(……そして、担当編集の日下さんは、その資料を血眼になって回収しようとしていた)
そこに関係があるのかはわからない。しかし、彼が何かを隠しているのも事実だ。
ペンが紙を走る音が、いつしか叔父の心音のように聞こえ始めた。
弱り、揺らめきながらも、何かを成そうとする人間の音。
僅かな猶予しかなくとも――叔父さんほどの書き手であれば、何かを遺すことはできるだろう。
(――どうして襲撃者は、あんなに早く僕の部屋まで来られた? 向こうの"特定班"にバレた? ……いや、それなら、家に入る前に外で攫ってしまったほうが、目的を達成するには手っ取り早いはずだ。わざわざ僕が部屋に入るのを待って、扉を叩き続ける必要なんてない)
にも関わらず、連中が現れたのは、僕が家に帰ってきてからだった。現に、扉を破るまでのタイムラグのせいで、朱音が来るのが間に合ってしまっている。
(……あるいは、僕が部屋の中で"何かした"から、彼らは現れたのか?)
とはいえ、帰ってきてから僕がしたことは、スマホで少し調べ物をしたくらい。叔父さんの家から持ってきた、書きかけの原稿だって手つかずだ――。
――と、そこまで考えたところで、違和感が頭を擡げてきた。
(そもそも、叔父さんは生涯デジタル派だった。原稿は全部パソコンで仕上げていた)
現に、叔父の部屋に残されていた書きかけの原稿は、パソコンの中に収納されていた。
となると、明らかにおかしなことがある。
(……なのに、どうして、これだけは手書きにしたんだ?)
叔父さんは、睡眠時間や休養時間を削ってまで原稿に打ち込んでいたと、日下さんは言っていた。
であれば、心臓に負担がかかっていたことは間違いないのだろう。
ならば、なおさらだ。同じ文字を書き連ねるのなら、パソコンに一万字分、コピーアンドぺーストする方が、ずっと楽なはず。心臓に疾患を持っているのなら、そんな無理をする理由がない――。
そこで、僕はハッとした。
家で調べ物をしていた時の、スマートフォンの、あの不自然な発熱とフリーズ。家に帰ってきて唯一異変を感じたのは、あの時だった。
(……そうか、逆なんだ)
叔父さんは、自分の絶筆に手書きを選んだんじゃない。
手書きを選ばざるを得なかったんだ。
(さらに、直接それを書き記すのではなく、こんな奇妙な絶筆を遺さなければいけなかった、そんな理由があるとしたら――)
気付いた僕は、数行を書き連ねたところで筆を置いた。
指先が、激しく痺れている。
けれどそれは死の恐怖によるものではない。
叔父が、僕の中に遺したロジックが繋がった、歓喜の痺れだった。
彼が末期の際に遺した、一万字の文字列。それが僕の背を、真相に向かって押していく。
「……届いたみたいね、死者の声」
部屋の入り口に寄りかかっていた墨千夜が、小さく、けれど確信を持って呟いた。
僕はゆっくりと立ち上がり、清書を終えたばかりの和紙を手に、部屋の外で待っていた二人の下へと歩み寄った。
朱音は、心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。
「さっくー、大丈夫? 顔色、あんまり良くないけど……」
僕は、清書された和紙をぎゅっと握りしめた。そして、ともすれば萎れてしまいそうな自信に喝を入れて、口を開く。
「大丈夫です。それよりも、お二人に少し、聞いてほしい話があるんです」
「……ほう?」
墨千代の眉が、楽しげに上がる。
それもそうだろう。彼女が求める、"死者の声"――今から僕が話すのは、まさにそれなのだから。
「……叔父さんは、白河執は、誰かに殺されました。あの人の死は――他殺です」
夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。




