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丑三ツ書店の清書係 〜指切り心中〜   作者: 入江 鋭利
第一部「指切り原稿」
10/20

九頁目:無垢なる静域


 漆黒のランドクルーザーは、装幀市の眠る路地の入り口で静かにエンジンを止めた。


 車外に一歩踏み出すと、真夜中の冷気が肺の奥まで侵入してくる。アパートでの襲撃の余韻が、まだ指先の震えとなって残っていた。

 

 朱音はスマホのライトを消し、珍しく無言で僕の後に続いた。


 シャッター通りの最果て。街灯の光さえ届かない場所で、そこだけが、店主の目と同じ琥珀色の光を湛えて佇んでいる。


 "丑三ツ書店"。


 昨日よりも、その存在が"現世(うつしよ)"から切り離されているように感じられた。


 カラン、と鈴の音が響き、濃密な墨の香りが僕たちを迎え入れる。


 カウンターの奥では、墨千夜すみちよが昨日と全く同じ姿勢で座っていた。膝まで届く艶やかな黒髪を流し、大きな和服の袖から白い指先を覗かせている。


 彼女は顔を上げると、僕の憔悴(しょうすい)した顔と、その腕に抱えられた"包み"に、底知れぬ琥珀色の瞳を向けた。


「……こんばんは、朔。随分と派手な"読了感"を纏ってきたね。筆を置く寸前――といったところかい?」


「……墨千夜さん。僕は、真実を知りたいんです」


 僕はカウンターに手をつき、彼女を真っ直ぐに見据えた。

 

「どうして叔父が死ななければならなかったのか。あの一万行に何が隠されているのか。……それを確かめるための手がかりを、掴んできました」


 僕は、ここに来る前に立ち寄った叔父の家で回収してきた"それ"を、カウンターの上に置いた。


 それを見た瞬間、墨千夜の唇が、三日月のように美しく吊り上がった。


「くふふ……。いい、とてもいいよ、朔。君という、まっさらな白紙に、ようやく消えないインクが染み込み始めたようだ」


 彼女は音もなく立ち上がり、和服の裾を(ひるがえ)した。


「わかった。なら、始めようか。今夜も死人の声に触れる、"清書"の時間を――」


 彼女が歩き出す。店先で清書を始めるのかと思った僕を、彼女は店のさらに奥へと誘った。


 本棚の迷宮を抜け、重い引き戸を開けた先にあったのは、四畳ほどの小さな畳の部屋だった。

 

 そこには、ただ一つ、古びた文机が置かれているだけだった。


 壁には掛け軸も、飾りもない。ただ、凛とした空気と、外部の音を一切遮断した"無"の空間が広がっている。


「ここは清書のための部屋。情報のノイズを削ぎ落とし、ただ死者の筆跡とだけ向き合うための、無垢なる静域(せいいき)さ。さぁ、座りなさい」


 僕は言われるがままに畳に座り、文机に向かった。


 机の上には、昨日と同じ、あの冷たい万年筆と上質な和紙が用意されている。

 

 深呼吸を一つ。


 僕は、叔父の一万行のテキスト――その写しを横に置き、真っ白な和紙に最初の一文字を刻み込んだ。



『あの子の指が、足りない』



 一画、また一画。


 なぞるほどに、昨日の詩人の時とは違う感触が、腕を通じて流れ込んでくる。


 昨日感じたのは、凍えるような孤独と絶望だった。


 けれど、叔父のこの文字は違う。


 ペン先が紙を削る音が、真空のような静寂の中に響き渡る。一文字、また一文字と、叔父の筆跡を自分の指先に憑依させていく。

 

(……筆跡が、崩れていない)


 清書を進めるうちに、まずは、その違和感を無視できなくなる。


 心不全を起こし、死の間際に狂ったように書き殴ったのであれば、文字はもっと乱れ、線は飛び、筆圧は不安定になるはずだ。


 けれど、叔父の文字は、一万行の最後まで、冷徹なまでに一定のリズムを保っている。


 これは、錯乱した人間の書き方ではない。

 それは、昨日、墨千代も言っていたことだ。

 

(叔父さんは、混乱の中でこれを書いたんじゃない……。何かを、正確に伝えるために、この"形"を選んだんだ)


 なぞる指先が熱を帯びていく。

 意識の深淵で、叔父の書斎の風景が明滅する。

 

(――叔父さんは死の間際に資料を取り寄せていた。それは間違いなく、あの"指切り心中"に関係するものだ)


 市内の学校で、過去にあったという、凄惨な事件。その資料を掻き集めながら、叔父は執筆に没頭していった。


 それこそ、体調を崩してしまうほどに。

 

(……そして、担当編集の日下さんは、その資料を血眼になって回収しようとしていた)


 そこに関係があるのかはわからない。しかし、彼が何かを隠しているのも事実だ。

 

 ペンが紙を走る音が、いつしか叔父の心音のように聞こえ始めた。


 弱り、揺らめきながらも、何かを成そうとする人間の音。


 僅かな猶予しかなくとも――叔父さんほどの書き手であれば、何かを遺すことはできるだろう。

 

(――どうして襲撃者は、あんなに早く僕の部屋まで来られた? 向こうの"特定班"にバレた? ……いや、それなら、家に入る前に外で攫ってしまったほうが、目的を達成するには手っ取り早いはずだ。わざわざ僕が部屋に入るのを待って、扉を叩き続ける必要なんてない)


 にも関わらず、連中が現れたのは、僕が家に帰ってきてからだった。現に、扉を破るまでのタイムラグのせいで、朱音が来るのが間に合ってしまっている。


(……あるいは、()()()()()()()"()()()()"()()()()()()()()のか?)


 とはいえ、帰ってきてから僕がしたことは、スマホで少し調べ物をしたくらい。叔父さんの家から持ってきた、書きかけの原稿だって手つかずだ――。


 ――と、そこまで考えたところで、違和感が頭を擡げてきた。


(そもそも、叔父さんは生涯デジタル派だった。原稿は全部パソコンで仕上げていた)


 現に、叔父の部屋に残されていた書きかけの原稿は、パソコンの中に収納されていた。


 となると、明らかにおかしなことがある。


(……なのに、どうして、これだけは手書きにしたんだ?)


 叔父さんは、睡眠時間や休養時間を削ってまで原稿に打ち込んでいたと、日下さんは言っていた。


 であれば、心臓に負担がかかっていたことは間違いないのだろう。


 ならば、なおさらだ。同じ文字を書き連ねるのなら、パソコンに一万字分、コピーアンドぺーストする方が、ずっと楽なはず。心臓に疾患を持っているのなら、そんな無理をする理由がない――。


 そこで、僕はハッとした。


 家で調べ物をしていた時の、スマートフォンの、あの不自然な発熱とフリーズ。家に帰ってきて唯一異変を感じたのは、あの時だった。


(……そうか、逆なんだ)

 


 叔父さんは、自分の絶筆に手書きを選んだんじゃない。


 手書きを()()()()()()()()()()んだ。



(さらに、直接それを書き記すのではなく、こんな奇妙な絶筆を遺さなければいけなかった、そんな理由があるとしたら――) 


 気付いた僕は、数行を書き連ねたところで筆を置いた。

 

 指先が、激しく痺れている。

 けれどそれは死の恐怖によるものではない。


 叔父が、僕の中に遺したロジックが繋がった、歓喜の痺れだった。


 彼が末期の際に遺した、一万字の文字列。それが僕の背を、真相に向かって押していく。


「……届いたみたいね、死者の声」


 部屋の入り口に寄りかかっていた墨千夜が、小さく、けれど確信を持って呟いた。


 僕はゆっくりと立ち上がり、清書を終えたばかりの和紙を手に、部屋の外で待っていた二人の下へと歩み寄った。


 朱音は、心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。


「さっくー、大丈夫? 顔色、あんまり良くないけど……」


 僕は、清書された和紙をぎゅっと握りしめた。そして、ともすれば(しお)れてしまいそうな自信に喝を入れて、口を開く。


「大丈夫です。それよりも、お二人に少し、聞いてほしい話があるんです」


「……ほう?」


 墨千代の眉が、楽しげに上がる。


 それもそうだろう。彼女が求める、"死者の声"――今から僕が話すのは、まさにそれなのだから。




「……叔父さんは、白河執は、誰かに殺されました。あの人の死は――他殺です」



 

 夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。

 

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