一頁目:絶筆を蔵する店
「――白河くん。君の原稿は、綺麗だね」
装幀市から電車で一時間。都心にある中堅出版社の一室で、僕――白河 朔は、その言葉を喉の奥に突き立てられた。
差し向かいに座る編集者は、僕の持ち込んだ原稿から視線を上げようともしない。
「整っている。文章作法も、構成も、新人離れしていると言ってもいい。……けれど、それだけだ。君の作品は、どうにも誰かに似ているね。ええと、そうだ、誰だったかな……」
編集者が中空を仰ぎ、記憶の棚を指先で叩く。
僕は膝の上で拳を握りしめた。その答えを、僕は誰よりもよく知っている。
「白河 執……です。僕の、叔父でして」
「ああ、そうだ。白河先生だ。あの流麗でいて、どこか冷徹な文体。君の書くものは、あまりに彼に似すぎている。……でも、確かあの人は……」
「亡くなりました。一週間くらい前に」
僕が淡々と告げると、編集者は「おっと」と短く声を漏らし、ようやく僕の顔を見た。そこには、追悼の念よりも"惜しい才能を失った"という、業界人特有の計算高い落胆が透けて見えた。
「そうか、それは気の毒に。……けれどね、白河くん。君はまだ大学生だろう?」
「はい、今年の春で、二回生に……」
「若いうちにはありがちなことでね。憧れるのは勝手だが、このままでは君の"顔"がどこにも見当たらない。この物語を、なぜ君が書かなければならなかったのか。その血の通った理由が、一行も書かれていないんだよ」
没個性。或いは、叔父の模造品。
直接言われずとも、その言葉が部屋の中に充満していた。
僕は失礼しました、とだけ言って席を立った。背中に浴びせられる同情混じりの視線から逃げるように、僕は出版社を後にした。
鞄の中には、二つの原稿が入っている。
一つは、今さっき突き返された、僕の空っぽな処女作。
もう一つは、叔父の葬儀の際、担当編集だった日下という男から手渡された、叔父の――白河執の"最後の手記"の写しだ。
駅前の寂れた公園のベンチに腰を下ろし、僕は吸い寄せられるようにその紙を取り出す。
叔父は一週間前、心不全で急逝した。執筆中の最新作を残したまま。
彼の遺した"遺書"とも呼べないそれは、数十枚にも及ぶ原稿用紙を埋め尽くしていたという、狂気的な文字列だった。
『あの子の指が、足りない。あの子の指が、足りない。あの子の指が、足りない。あの子の指が、足りない。あの子の指が、足りない。あの子の指が、足りない。あの子の指が、足りない。あの子の指が、足りない。あの子の指が、足りない……』
一万字。
ただひたすらに、その一文だけが、リピートされている。
叔父は生涯、論理を愛した男だった。その彼が、死の淵でこんな支離滅裂な"絶筆"を残すはずがない。
何かを、僕に伝えようとしているのではないか。
僕は何度も、その文字の羅列を指でなぞった。叔父のデビュー作『銀鏡の裏地』の一節を思い出しながら。
「……『真実を知りたければ、物語を裏返せ"』、か」
けれど、どう裏返しても、この文字の壁からは何の意味も抽出できなかった。
叔父さんは、本当に病死だったのだろうか。
警察はそう断定した。けれど、この文字の熱量は、ただの病死のそれではない。まるで、死神の鎌が喉元に触れている中で、必死に振り絞った悲鳴のような――。
考え続けているうちに、いつの間にか意識が遠のいていた。
冬の入り口の冷たい夜気が、容赦なく体温を奪っていく。
「……っ、は、くしゅん!」
自分のくしゃみの音で、僕は飛び起きた。
意識が混濁している。腕時計に目をやると、長針と短針がちょうど真上で重なっていた。
午前二時。丑三ツ時。
公園の街灯はとうに消え、周囲は濃密な闇に包まれている。電車も、バスも、もう動いていない。
「……帰らなきゃ」
体の芯まで冷え切っていた。僕は凍える指先で鞄を抱え、重い足取りで歩き出す。
装幀市。かつて"本の街"として全国に名を馳せたこの場所は、今やその名の通り、古びた"装幀"だけを纏った骸骨のような街だ。
かつて百軒近くあったという古書店街は、今ではその大半がシャッターを下ろしていた。
街灯の代わりに、錆びついた鉄の扉が月明かりを跳ね返している。通りは、夜に見るとまるで巨大な墓標の列のようだった。
印刷工場の機械の音も、製紙工場の薬品の匂いも、今はもうない。ただ、湿った紙の腐るような匂いだけが、夜風に混じって鼻腔を突く。
コツ、コツ、と僕の靴音だけが、シャッター街に虚しく響く。
死んだ街だ、と僕は思った。
電子書籍や、娯楽のファスト化。それに追いついていけなかった、この街は、緩やかに息の根を止められているのではないかと、そう思えてしまう。
(……それなら、僕だって同じだ)
僕は、このまま、顔のない何者かの影として、この静かな絶望の中に埋もれていくのだろうか――。
――なんて、考えていた、その時だった。
視界の端に、場違いな"光"が飛び込んできた。
シャッター街の最果て。道が細く折れ曲がり、街灯の光さえ届かない路地の奥底に、一軒だけ、不自然に明かりの灯っている店があった。
「……あんなところに、店なんてあったっけ」
導かれるように、僕は足を向けた。
漆黒の闇の中に、そこだけがぼんやりと琥珀色の光に浮かび上がっている。
古びた木の扉。その脇に立てかけられた看板には、掠れた墨文字でこう記されていた。
「"丑三ツ……書店"? なんだ、それ……」
聞いたこともない。けれど、その名前を口にした瞬間、妙な胸騒ぎがした。
深夜二時に開いている本屋。そんなものが、このまともな世の中に存在するのだろうか。
僕は震える手で、その重厚な木の扉を押し開けた。
カラン、という鈴の音が、ひどく遠くで鳴ったような気がした。
店内に入った瞬間、濃密な"墨"の香りが僕を包み込む。
壁一面を埋め尽くす書棚。けれど、そこに並んでいるのは、普通の書店にあるような色鮮やかな背表紙ではなかった。
装丁も、大きさも、年代もバラバラな、無数の古い手記やノート。それらが、まるで生き物の剥製のように、静かに息を潜めて棚に収まっている。
店の奥、カウンターに一人の少女が座っていた。
いや、少女と呼ぶには、その存在感はあまりに重い。
膝まで届く艶やかな黒髪。緩く着崩された大きな和服。
彼女は、古い万年筆を手に、何かの原稿をじっと見つめていた。
僕が足を踏み入れたことに気づいているはずなのに、彼女は視線すら上げない。
ただ、その琥珀色の瞳だけが、古書のページを冷徹に走っている。
「……あの、すみません。こんな時間に、開いているんですか」
僕の声が、静寂に波紋を作る。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
心臓が止まるかと思った。
その顔立ちは、この世のものとは思えないほど整い、同時に、気が遠くなるほど長い時間を生きてきたような、底知れない深みを湛えていた。
「珍しい客だね。迷い込んだのかい、それとも、呼ばれたのかい」
その声は、少年のような中性的な響きを持ちながら、真冬の湖面のように冷たく、透き通っていた。
「あ、ええと……その、たまたま歩いてたら、開いているのが見えて……」
僕の言葉に、彼女は眉を顰めた。
「……ここが、どんな店か分かって入ってきたのかい? ここは普通の書店じゃない。並んでいるのは、夢や希望を綴った物語ではないよ」
「普通の書店じゃ、ない……?」
彼女はカウンターに肘をつき、細い指先で棚の一冊を指し示した。
「ここは丑三ツ書店。この世に未練を残し、死に際に綴られた最期の言葉――。完成することのなかった真実、"絶筆"だけを扱う店さ。……私は店主の、墨千夜」
墨千夜。
その名を名乗った彼女の唇が、わずかに吊り上がった。
「……絶筆、だけを……?」
僕は息を呑んだ。鞄の中にある、あの叔父の一万行のテキストが、急に熱を帯びたような錯覚に陥る。
彼女の琥珀色の瞳が、僕の鞄を貫くように射抜いた。
「君、名前は?」
「……白河、朔です」
「白河、か。……ふふ。君、抱えているでしょう。美しくも悍ましい"死者の声"を」
彼女は僕の名字を聞いて、何かを知っているような笑みを深めた。
暗い店内に、墨の匂いと、誰かの死の気配が満ちていく。
叔父の死の真相を知るため。
そして、僕という"白紙"の人生に、僕自身の言葉を刻むため。
僕と、この美しき死の蒐集家との奇妙な日々が、ここから動き始めた。




