〈別視点〉 ベルハイトの知覚と感情
―――落ちた。
そう認識した時には、すでにその入り口は何事もなかったかのように、元の変哲の無い床石へと戻っていた。
二人は大丈夫なのか?深さは?出口はあるのか?そもそも、ただの落とし穴なのか?下に何か危険は――。
最悪のケースを想像しかけた時、
「お嬢ちゃんが一緒だし、大丈夫でしょ」
ローガンさんのあっけらかんとした声に、脳内を目まぐるしく駆け回っていた言葉がピタリと静止し、
………………。ああ、そうだった……。
ルカさんの姿を思い浮かべた瞬間、不安は霧散した。
ルカさんが何の策もなく飛び下りたとは考えにくい。だってあの人は普通の斜め上を素でいく、そんな人だ。
分かっていた。分かっていたはずなのに。
俺のほうがルカさんと一緒にいる期間は長いというのに、俺の彼女に対する理解はこんなに薄っぺらかったのだろうか。
「今は自分達の心配をしたほうがいいかもね。こっちのメンズチームは、落ちちゃったらどうしようもなくない?」
そう言ってからからと笑うローガンさん。
……確かに。
精霊魔法の中には浮遊系があるにはある。しかし、俺は全詠唱が必須で、そんな時間的猶予があるとは思えない。
「神殿って、罠が仕掛けてあるもんだっけ?ここが特殊なのかな?」
「バライザの神殿はここだけだから比較のしようがないが…。ここに限って言うなら、罠の話は聞いたことがない。父上や兄上は知っていただろうが……」
ユリウス殿下はローガンさんの疑問に答え、
「ここにあるもののことを考えたら、罠があると想定しておくべきだった。……すまない」
申し訳なさそうに俯いた。
「貴方が責任を感じる必要はないですよ。罠に関しては、俺達も留意するべきでした」
「だよねぇ…。面目ない」
ローガンさんがバツが悪そうに頭を掻いた。
こういうことに関しては本来、冒険者である俺やローガンさんが真っ先に気づかなければならないことだ。
「ソニアさんは大丈夫です。ルカさんが一緒なんですから」
自分にも言い聞かせるように言うと、ローガンさんが音もなく近づいてきた。
「さっきは焦ってたくせにぃ」
「ほっといてください……」
ニヤニヤしながら肩をつついてくるローガンの手を距離をとって避けながら、
「まずはルカさん達と合流するべきですけど……」
そう言うと、ローガンさんは胸を張った。
「安心しなさい、若人達よ。おじさんの魔法を忘れたのかい?」
その芝居がかった口調は、今回ばかりは何よりも力強く感じた。
「そうか!あれでソニアとルカの居場所を探れば…!」
「今までで初めて頼もしいですよ、ローガンさん」
ユリウス殿下と俺が手放しで喜ぶと、
「はっはっはっ!もっと褒めて……、ちょっとベルくん、初めてって何さ。おじさんいつも頼もしいでしょ?」
ぶーぶー言いながらもローガンさんは魔法を展開した。前回と同様に光の粒子が浮かび、溶けるように消える。
「……う〜ん…?」
しばらくして、ローガンは眉を寄せて首を傾げた。
「なんだろ、これ。……なんか上手く居場所が掴めない」
「魔力干渉ですか?」
「と言うより、この神殿への干渉が阻害されてる感じかな。[記憶の標]は場所を特定する魔法だから、その場所自体に魔力が干渉するんだ。現にほら」
ローガンさんは神聖魔法の初級治癒魔法を、自分の手のかすり傷かけ、傷は一瞬で消えた。
「こっちは難なく使える。たぶん、お嬢ちゃんの[空間転移]も難しいかもしれない」
ルカさんがつい先日使えるようになった魔法のことを、すっかり忘れていた。あれもその場所に直接魔力が干渉する魔法だ。
「はっきりした位置は特定できないけど、だいたいなら分かるよ。移動してるみたいだから、こっちも移動しますか」
幸い、おおまかな場所は分かるようだし、しらみつぶしに道を選ぶ必要はない。ルカさん達に合流するため、俺達は先を急いだ。
「ベルくんってさ、Cランクだっけ?」
ルカさんとソニアさんの位置を探りながら奥へ進むんでしばらく経った頃。ふいにローガンさんが尋ねてきた。
「そうですけど……」
「ふぅん……」
ローガンさんは俺をじっと見て、何か思案しているようだった。
「もしかして、実力不足に見えます……?」
この人の前で剣を振るったことは何度かある。ドラナトやノスティアの道中で魔物が出た時だ。
「いやまさか。腕は充分すぎると思うよ」
即答され、内心ほっとした。
ローガンさんはBランク冒険者だ。その彼から見て、俺はランクに見合ってはいるらしい。
では、なにが引っかかっているのだろう。
訊くに訊けずにいると、ふいに話が変わった。
「お嬢ちゃんと手合わせしたことある?」
「?いえ、無いです…」
機会があればとは思っていたが、申し出るきっかけというか、タイミングが無かった。
「一度やってみるといいよ。なんだかんだで体感するのが一番分かるんだよねぇ」
「……ローガンさんはあるんでしたっけ」
「そ。ロブエでね。手合わせというか、おじさんは伸すつもりだったし、お嬢ちゃんも場合によってはそうしただろうね。その結果、おじさんの歯が一本無くなったわけだけど…」
思い出して、ローガンさんは寂しそうに右頬にそっと手を添えた。引き摺っているようだ。
「だからおじさんは、それを事実と知ってるだけ。“知る”っていうのはね、一回じゃ終わらないのよ」
「?」
ローガンさんが言わんとしていることが分からず、ただ言葉の続きを待った。
「ある一つの事象を“知った”として、それが全てとは限らない。周囲の状況なんかによって、微妙に変化したり、時にはガラリと姿を変えたりする」
歩く速度は変えないまま、ローガンさんはさらに続ける。
「人間なら特にね。人を“知る”っているのは、果てしないことだと、おじさんは思うよ。そりゃあいろんな人がいるから、程度はそれこそ千差万別だろうけど。……だからと言って、今“知って”いることが間違いだとか嘘ってことはない。それもその人の一部で、君が“知って”いる真実なんだよ」
そこでようやく、俺はローガンさんが何について話しているのか理解した。
“知って”いると思っていたことに対して、自分よりも理解している人がいたとしても。その“知って”いたことは錯覚でもなんでもない。
「それに、“知って”いることと心配することは全く別物。おじさんだって、信じてはいるけど心配はしてるのよ?ベルくん達より歳くってるから、そう見えないだけでね」
理解が浅いとか深いとかではなく、そもそも知覚と感情という別の問題。
ルカさんなら大丈夫。そう考える頭と、ルカさんは大丈夫だろうか、と想う心。それら二つは同時に存在して然るべきであると、この時ようやく腑に落ちた。
これが年の功なのか、それともローガンさん自身の経験から得た思慮なのか。どちらにせよ、もやもやとしていた俺の胸の内は、彼の言葉で随分と軽くなった。
俺は小さな声で感謝を示そうとして、
「……あの、ありが」
「だからね、そんなに落ち込まないの。いいじゃない、そのほうが。気分も盛り上がるってもんでしょ!」
……ん?
きゅっ、と口を引き結んだ。
「最初から全部分かるなんて味気ない!あの子の秘められた一面を知るたび!知ってると思っていた面をさらに深く理解するたび燃え上がる!それが若者!それこそが恋!」
…………。
「そうやってお互いを知るうちに深まる絆!相手が話してくれるのを待つのだって、男の甲斐性だよ!きっとそのうち、スリーサイズだって教えてくれる!大丈夫!おじさんはベルくんの味方だぶっふぉ!!」
いつか張り倒そうとは思っていたが、ついに手が出てしまった。無意識だったので止めようがなかった。
俺は悪びれなく、
「すみません、虫が留まってました」
「ぜったい嘘じゃん……。余裕のない男は嫌われるよ?」
ローガンさんは涙目で頬を押さえながら口を尖らせた。それに対し、俺はローガンさんの左頬を張った右手を、もう一度構え直す。
「とりあえずもう一度、ルカさん達のおおまかな位置を割り出してもらえます?――また虫が留まる前に」
「あ、ハイ。ゴメンナサイ、了解デス」
半眼で促すと、ローガンさんはいそいそと魔法の詠唱を始めた。
「いろいろ台無しだな……」
その様子を黙って見ていたユリウス殿下が、呆れたように呟いた。




