捕まえてしまったから、もう手放せない
カーテンの隙間から差し込む太陽光が瞼に当たって、眠りから覚めたイラーリアはお腹に回る腕をそっと退かし、ベッドから出ると大きく伸びをした。靴を履き、部屋を出て向かったのは厨房。
壁に掛けてあるフライパンを焜炉に置き、テーブルに振り向いた。布を掛けてある皿にはベーコンがあり、バスケットには沢山の卵。昨日養鶏場でまとめ買いをする代わりに割引をしてもらったのだ。
指を鳴らすと炎が点きフライパンを熱する。その間昨日の残りであるバゲットを六枚スライスし、棚から取り出した二枚の皿に三枚ずつ乗せた。
熱したフライパンに油を引き、ベーコンを四枚入れた。肉の焼ける音に頬を緩ませつつ、裏に焦げ目がついたのを確認して裏返し、そこへ卵を五個入れた。彼は卵が好きなので一個多く焼く。片手で器用に卵を割っていき、焼き上がるのを待つ間に次の準備に取り掛かった。
食材の保管庫からオレンジを三個取り、包丁で皮を剥いて六等分に切った。大きな皿に盛り付けるとベーコンエッグは完成しており、黄身が少々固くなっているのに気付きしょんぼりとする。彼は固目が好きだがイラーリアは半熟が好きなのだ。ならば別々で調理すれば良いのだが時間の無駄で食べる際に差が生じる。
ベーコンエッグを二等分(イラーリアの卵は二個)にし、バゲットを置いていた皿にそれぞれ移していく。二皿を持って食事用のテーブルに運ぶとオレンジの皿も置き、ナイフとフォークを二人分置いてイラーリアは寝室に戻った。
ベッドの上にはデューベイを頭の天辺まで掛けて寝ている膨らみがいて、起きて、とデューベイを剥ぎ取った。
「何時まで寝ているんですか、先生。朝ご飯出来ましたよ」
「う、~ん……先生は止めてってば」
「じゃあ、起きてください」
「はいはい……」
眠そうにしながらも言われた通り起き上がった男性は夕焼け色の髪を乱雑に掻き、大きな欠伸をしながらベッドから降りた。先生と呼ばれるのを嫌がって起きるので、起きない場合は絶対に最初に使う。
「イラーリア、おはよう」
「おはよう、クレシェンツィオ」
「前から思ってるんだけど俺の名前長くない?」
「そう?」
「うん」等と言う会話をしながらクレシェンツィオから朝の抱擁をされ、満足するとダイニングへ行き朝食を頂いた。
会話をしながらでも朝食はすぐに終わり、食後の珈琲を飲みながらクレシェンツィオは今日の予定を語った。
「この後、西の王国に行って知り合いに頼まれている貴族の治療に行ってくる。夕刻にはならないと思うけど昼はいない」
「気を付けてね」
「うん。イラーリア、買い物に行くならエッグを連れて行ってね」
「買い物は昨日したから、必要な物はないと思うわよ」
クレシェンツィオの言ったエッグとは、二メートル近い巨大なアヒルの事。三年前、クレシェンツィオが拾ってきた巨大な卵を二人で孵化させると誕生したのがエッグだった。雛時代は真っ白でふわふわ羽毛だったのに成鳥になると全身黄色の巨大なアヒルになった。
「逆だろ」と当時のクレシェンツィオの突っ込みにイラーリアは苦笑するしかなかった。
エッグはイラーリアが街へ降りて買い物に行く際に乗る大事な相棒。普段は家の外に作られたエッグ専用の小屋で寝ている。
クレシェンツィオがくいっと左人差し指を曲げると何処からともなく新聞が現れた。両手で新聞を開き、記事に目を通す。イラーリアは今日の昼は適当に済ませ、夕飯はクレシェンツィオの好きなチキンのトマト煮込みを作ろうかと考え中。そうなるとトマトが必要となるがストックはあっただろうかと保管庫に足を向き掛けた時、新聞を読んでいたクレシェンツィオの青い瞳が自分を見ていた。
「どうしたの?」
「イラーリアのいた帝国が記事にあった。読む?」
「ううん、読まない。帝国にいたと言われても記憶がないんだもの」
「そうだったな」
「今の私はクレシェンツィオの奥さん。それ以外必要ある?」
「いいや?」
ふふ、と微笑んで見せてイラーリアは厨房の保管庫を覗き、トマトのストックがあるのを見て更に笑んだ。チキンはクレシェンツィオに帰りに買ってきてもらおう。西の王国のチキンは大きくて柔らかい。何よりクレシェンツィオの好物を作るのだから料理名を言うだけで買ってきてくれる。
テーブルに戻って夕食はチキンのトマト煮込みと言うと間髪を容れずに買ってくると言われて笑ってしまった。
エッグが描かれた自家製マグカップを持ち、熱い珈琲を飲み「帝国か……」と呟いた。
「どうしたの」
「帝国と言われても何も気持ちが湧かないの」
イラーリアは五年前、死にかけていた所をクレシェンツィオに助けられた。クレシェンツィオは世界でも名高い大魔法使いの一人。普段は森に住んでおり、滅多に人前に姿を現さないと有名で。破落戸に囲まれ死にかけていたイラーリアを見つけ、破落戸を皆殺しにした後彼女を持ち帰って手当をした。
「君が次に目を覚ましたら、名前以外覚えてないと言われて吃驚したよ。まあ、君の名前や見目で君が誰だか解ったから良いのだけど」
「言われても……実感がないの」
青みが強いピンク色の毛先に掛けてくるんとなった髪に青い瞳。青い瞳が困ったようにクレシェンツィオを視界に入れていた。
「でも、私がいなくなったって記事にはなってないのよね?」
「なってないな」
「なら、私っていなくても困らない皇女だったのよ」
記憶がなく、口にしても気持ちが揺らがないのはきっとそうだったのだろう。とイラーリアは一人納得。
新聞を読む振りをしながらクレシェンツィオは事実は異なると知りつつ、これからも言わないでいるつもりだ。
イラーリアは帝国の第一皇女。皇帝が唯一愛した皇后の忘れ形見で大層大切に育てられてきた。しかし五年前、実はイラーリアは偽者の皇女と発覚し、本物の皇女は平民の夫婦によって育てられていた。発覚理由はイラーリアの見目。皇帝は青みがかった黒髪に金色の瞳を持ち、亡くなった皇后は薄いピンク色の髪と瞳の可憐な女性だったと聞く。同じピンクの髪でもイラーリアの髪は青みの強いピンク色、そして瞳の色は青。顔立ちもあまり似ておらず、見つかった本物の娘は亡き皇后に瓜二つだったとか。
偽者の皇女と発覚したイラーリアは皇帝に殺されると思い、本物の皇女が見つかったと言われた時から逃げる準備をしていた。一目本物の皇女を見て、皇帝と見つめ合い本物の娘との……親子の再会を見届けるとイラーリアは城を出た。
死にかけていた所を拾い、目覚めると記憶を失っていたので悪いと思いつつ、イラーリアの魂に触れて忘れ去られた記憶を覗いた。そして知った。
幼少期から皇帝に疎まれていたイラーリアは何とか皇帝との関係を修復し、政略的要素が大きい婚約者とは一定の距離感を保って接していたようだ。婚約者の方はきっとイラーリアを好いていた。時折帝国にふらりと寄って情報を仕入れる、帝国で最も大きな力を持つ公爵家の嫡男は五年経った今でも行方不明の婚約者を探していると。
「……皇帝も同じか」
「どうしたの?」
「なんにも」
「何時出るの?」
「後、一、二時間で出るよ」
「なら、一緒にエッグの小屋を掃除しましょう。一日一回は顔を見せないとエッグは拗ねちゃうから」
「俺の顔を見なくても良いだろうに」
「まあ! エッグはクレシェンツィオの事が大好きなのに」
疎んでいた娘を愛してしまい、偽者と発覚し、皇女教育を受けて五年経った今では一人前になった本物の娘がいても皇帝もまたイラーリアを探し続けている。
此処に来る事は決してない。街へ買い物に行かせる時は必ず頑丈な変装魔法を掛けさせている上、何かあった場合には緊急用魔法が発動して即クレシェンツィオの元に転送させるようお守りも持たせている。
「イラーリアは……前の自分に戻りたいって思う時はある?」
「どうかしら……今の生活が悲惨だったら、思ったかもしれないけど……私はクレシェンツィオと一緒にいる生活しか考えられない。ふふ、夫婦になって三年になるのだから今更お別れなんて冗談じゃないわ」
「それは良かった。俺も同じ」
怪我を治し、日常生活が送れるまで回復したらイラーリアをどうするか悩んでいる時に告白され、最初は悩んでいたが酒の力を借りて既成事実を作ったイラーリアの行動力に驚きながらもあっさりと受け入れた。結婚式は挙げなかったが夫婦の証である指輪を贈った。イラーリアとクレシェンツィオの左薬指にずっとはめられたまま。
世話をしている内に人懐っこく、どんな時でも笑顔を絶やさないイラーリアにすっかりと惚れてしまった。
実年齢を言うとあんぐりとされてしまうも、世界で名を馳せる大魔法使いはどれも超長生きでクレシェンツィオはその中でも三番目くらいに長生きだ。時折顔を見に来る魔法使い達には幼妻を娶ったと揶揄われ、あまりにも年下過ぎて引かれてしまった。
共に生活をしていると最初の頃は料理も掃除も出来ず、何をさせても失敗続きだったイラーリアを叱らず出来るまで面倒を見続け、クレシェンツィオの手伝いがなくても一人で出来るようになると家事の腕を上達させていった。
現在ではクレシェンツィオの好物を知り尽くし、その美味に感動する程の腕前となっている。
イラーリアを探している皇帝と公爵家の嫡男に恨みはないがイラーリアは渡せない。本物の娘とは一応普通の親子をしていると聞き、公爵家の嫡男の方も本物との婚約が進められていると聞く。イラーリアを忘れるのも時間の問題だろう。
二人でエッグの小屋に行こうと外に出た。今日も雲一つない快晴。洗濯物がよく乾く。
「クレシェンツィオ」
「うん?」
背を曲げてと言うので言われた通りにすると頬にキスをされた。
「貴方が無事に帰って来ますように、っていうおまじない」
「まだ行かないって。というか、全然危険じゃないって」
「それでも、よ」
イラーリアを抱き締めたクレシェンツィオは愛しい彼女の額に口付けを贈った。
悪い魔法使いに好かれてしまったのが運の尽きだろうがイラーリアが死んでも決して手放さない。
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