べとべとさん
「千穂ちゃんバイバーイ!」
「また明日ねー」
「うん、バイバイ……」
帰り道、いつもの三叉路で、金子千穂は二人の友達と別れた。
仲良しの陽菜ちゃんも美花ちゃんも、ここを真っ直ぐ行った向こうの、古い家が建ち並んでいる地域に住んでいる。
千穂だけが、この三叉路を右に曲がる。
千穂の家は、田んぼを潰してできた新しい住宅地にあった。千穂が小学校に上がるのに合わせて引っ越してきたのだ。
「小学校が近く、子育てのしやすい環境」との触れ込みだったが、実際には小学校とは相当距離があった。学区域の一番端っこなのだ。そのせいか、周りにはまだ空き地が多く、千穂の一家がこの地区に家を買った一番乗りみたいだった。
三叉路を曲がると、右手の側には千穂のお父さんやお母さんよりも年上かもしれない家が、誰も住んでないみたいに静かに並んでいる。左手側は田んぼで、草を蒸したみたいなにおいがする。
人気のほとんどないこの道が、千穂は苦手だった。
四月の頃はまだよかった。小学校に入学したての千穂たちのために、先生がついてきてくれたから。一年生の最初の月だけは、先生が引率して集団下校をすることになっていたのだ。
でも、五月の連休が明けて各々一人で帰るようになると、途端にこの道は千穂のことを喜んで迎えてくれなくなったみたいだった。
陽菜たちといた時と打って変わって、千穂の足取りは重かった。新品の空色のランドセルに石をたくさん入れられたみたいだ。
この道を一緒に帰ってくれる子が、誰かいたらな。
千穂がそう考えない日はなかった。
いや、一人いるにはいる。集団登校の班にいる、同学年の男の子だ。
だけど、あの子は……。
不意にドタドタという足音が聞こえて、千穂はビクッと体を震わせた。
「オラぁっ!」
振り返ろうとした瞬間、ランドセルの後ろのところをぐっと引っ張られた。
「きゃっ……!?」
よろめいた千穂の横を走り去っていく者がいた。
「トロトロあるいてんじゃねーよ!」
じゃあなー、と風のように通り過ぎて行ったのが、その同学年の男の子――友樹だった。
友樹は、千穂の家のある住宅地の入り口近くに建つアパートに住んでいる子だ。
やんちゃもやんちゃで、先生の手を焼かせている。今みたいに大人しい子によくちょっかいをかけては喜んでいた。
危ないことも大好きなようで、この間など用水路のフェンスをよじ登って点検用の通路に入り込み、こっぴどく叱られていた。本人は「タンケンゴッコをしてただけ」「先が行き止まりでがっかりだった」と言い訳にならない言い訳をしていた。
それで反省したかと思えば、おとといは校庭のブランコを勢いよくこいでジャンプする遊びをして、校長室に呼び出されていた。本人は「サイコーキロクを出した」「セカイシンキロクだ」と主張していたそうな。
そんな、千穂にはちょっと信じがたい神経をしている。
ほとんど動物みたいな子だ。前に住んでいた家の近くで飼われていた、獰猛な犬。それとほとんど変わりない存在だった。
一緒に帰ってくれなんて、とてもじゃないが言えない、頼れない。
はーあ、と千穂は大きなため息を吐いた。
田んぼと古い家の間の道はまだ半分以上残っていて、その行く先は緩いカーブになっている。
この奥の、車の一台も通れないような細い道の存在が、千穂の心を一層重たくさせるのだった。
道の左手側は擁壁になっていて、その上は大学の体育館とグラウンドだ。この細い道に面している側は体育館の裏手のようで、そちらから人の声が聞こえてくることは稀だ。
右手側には、これまた背の高い緑色のフェンスが張られていて、その下は用水路になっていた。
この用水路は浅いが流れが速く、雨が降った時などは濁った水が勢いよく流れる。それを見下ろすフェンスは、ねずみ色の道路と白いコンクリートでできた用水路の岸壁を、隔てるように設置されていた。
白い岸壁は用水路沿いにずっと続いていて、これは水路の点検用の通路らしい。千穂もいつだったか、作業着を着たおじさんがフェンスの向こうを歩いているのを見たことがある。
用水路の更に向こうには、真新しい白い塀が見えた。そこにも新しい家が建つそうだ。
(今の六年生が一年生だったころは、この辺りは田んぼだったんだよ――)
四月に先生が送ってくれた時に、そう言っていた。
この道が、一番嫌なんだよね。
一年生は長くても五時間目までしか授業がない。まだ午後2時の明るい空の下なのに、二つの「壁」に挟まれたような道は暗く思えた。
そのせいだろうか。この道を一人で通る時、いつも千穂には聞こえる音があった。
千穂の足取りは更にのろくなる。一歩一歩の歩幅が、自分の足の大きさよりも小さくなっていくようだった。それでなくても、擁壁も緑のフェンスも永遠に続いていくようなのに。
ひた。
細い道に差し掛かってすぐ、千穂は後ろを振り向いた。
人の姿はない。わずかにのぞく角の古い家が、ぬうんとそびえ立っているのが見えた。
また、一歩、二歩、三歩と歩いて振り返る。
ひた、ひた、ひた。
誰もいない。古い家の姿が遠のいていく。
千穂は一つ深呼吸をした。そして、また一歩、二歩と歩く。
やっぱりだ。今日もいる。
ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた。
千穂が歩くのに合わせて、後ろから。
ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた。
ここを一人で歩く時、千穂にはいつもこの音が聞こえた。
千穂が歩くペースに合わせて、ぴったりとついてくる「何か」の足音が。
とにかく足を急がせる。この道を抜ければ、いつも音は消えるのだから。
そのはずだ。
ひた、ひた、ひた、ひたひたひたひたひたひた。
そのはずなのに。
聞こえてくる音も、速度を上げた。
離れず、ついてきている。
ウソ!? 慄きが、口の中から思わずこぼれた。
走っても走っても、音が振り切れない。
いつもよりも、今日は近づいてきている――?
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた。
耳を塞いでも聞こえる。この音は、耳で聞いてるんじゃないんだ。
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた。
息が切れる。わき腹が痛い。頭の中を足音が覆い尽くし、塗りつぶしていく。
「いやっ!!」
道路に崩れるように千穂は座り込む。
唐突に、足音は止んだ。
通学帽の上から頭を押さえて、千穂は小さく小さく縮こまる。
後ろからついてきた足音が、自分をまたいで行ってしまうのを祈るみたいに。
「――ねぇ」
頭の上から降ってた声に、千穂はびくりとなる。30センチは飛び上がったような気がした。
恐る恐る顔を上げると、長い髪を二本の三つ編みにした女の子が千穂のことを見下ろしていた。背負っているランドセルの赤い肩ベルトが、いやに目につく。
「大丈夫?」
黄色い通学帽のひさしで陰になった目元が、にっこりと笑っている。背は千穂よりもよっぽど大きい。小学五年生か、六年生ぐらいだろうか。
「あ、あ……」
「わたし、冨田マユコっていうの」
陽菜ちゃんと同じ苗字だ、と千穂は仲良しの同級生のことを思い出す。一度家に遊びに行ったが、とても大きな古い家だった。陽菜の家の周りには冨田という苗字がとても多く、「だいたい親戚」と言ってたっけ。あの辺りに住んでいるのだろうか。
「ともかく、こんなところで座り込んでたら危ないよ」
ほら、とマユコは手を伸べた。その手を千穂はまじまじと見つめた。透き通るような白い色だ。
おずおずと、千穂はその手に触れる。
「ひゃっ……!?」
思わずビクリとしてしまうくらいに冷たかった。
それを気にした風もなく、マユコは腕に力を入れる。
「よいしょ、っと」
引っ張り上げられ、千穂はようやく立ち上がった。
「手、つないで帰ろう」
ね、と押し切られるようにして千穂はマユコに手を引かれて歩き出す。
足音は、もうしなかった。
千穂の集団登校の班は、千穂の住む新興住宅地の入り口に建つアパートの前を集合場所にしていた。
学区の東端のこの近所では子供が少なくなってきているそうで、少し距離のある古くからの家が建ち並ぶ地区――「冨田」という名字がたくさん並んだ辺りだ――のうち、東の方に家がある子たちも同じ登校班に属している。そのため、15名の大所帯となっていた。
入学して二か月、まだお兄さんやお姉さんたちの顔と名前は一致しない。ただでさえ引っ込み思案な千穂だ、上級生の顔をしっかり見て話す、なんてできないでいた。
マユコと出会った翌朝、千穂は彼女の姿を登校班の集合場所で探した。
(この向こうに住んでいるの? わたしはあっち。また明日ね――)
マユコはそう言って古い家の建ち並ぶ地域の方を指し、このアパートの前で別れたのだ。
きっと、登校班のお姉さんだったに違いない。お礼を言わないと。
そこらそこらで、ぽつぽつと輪ができている。ほとんどが同学年ごとで固まって、全員が揃うまでの間、話したりふざけ合ったりしていた。
そんな小さな喧騒の中で千穂は、隅っこの方の電信柱の陰に一人で立つマユコの姿を見つけた。
「お、おはよう、ござい、ます……」
「あ、昨日の」
マユコは声をかけてきてくれた時と同じ笑顔で応じた。
「大丈夫なの? 昨日は体調が悪そうに見えたけど」
「へ、へいきです。そ、その、ありがとう、ございました……」
いえいえ、どういたしまして。マユコは屈託なく笑う。
「でも、どうしてあんな風にしゃがみこんでいたの?」
「あ、あの、なんか、あの道を歩いてたら、後ろから足音がして、それで、後ろを見ても、だれもいなくって……」
つっかえつっかえ怖かったことを話していると、不意に背後から声が聞こえた。
「それ、べとべとさんじゃない?」
うわっ、とまた千穂は飛び上がってしまった。
「ごめんごめん、脅かして」
そう謝るのは、六年生の土屋勇樹だった。登校班の班長で、あのやんちゃな友樹の兄でもある。
勇樹は、弟友樹とは対照的に物静かな少年だ。メガネをかけた顔はいかにも真面目で、先生からの信頼も厚いようだ。四月まで送ってくれていたベテラン先生が、「土屋くんが班長さんの班なら安心だ」と言っていたほどだ。
だが、友樹に言わせれば「メチャ怖い兄貴」らしく、実際あのやんちゃな彼が登校班では大人しくしている。ふざけてランドセルの後ろなんて引っ張ってきたりもしない。
「あの細い道でしょ? 結構嫌な感じで、一年生には怖いよね」
登校班の班長が持つ黄色い旗を手に、勇樹は千穂に笑いかけた。
「後をついて来る足音がするけど、振り返っても誰もいない……。そういう特徴がある、べとべとさんっていう有名な妖怪がいるんだよ」
べとべとさん……。そんなのがあの細い道にはいるのだろうか。両側を挟むフェンスが落とした影が、妖怪を呼び寄せてしまうのかもしれない。
「そう。でも、べとべとさんに追いかけられても大丈夫、追い払う合言葉があるんだ」
少しかがんで、勇樹は千穂に目線を合わせた。
「立ち止まって端っこによけて、こう言って道を譲るんだ」
――べとべとさん、先へお越し。
へえ、と千穂は目を見開いた。そんな方法で、あの足音を追い払えるんだ。友樹と違って、勇樹班長はとっても頼りになるなあ、とメガネをかけたその顔を見上げる。
「おーい、班長! みんな揃ったよー!」
副班長の五年生が叫んでいるのが聞こえた。勇樹は「はーい!」と叫び返し、千穂の方に向き直る。
「さあ、行こうか」
一年生は列の前の方を歩く決まりだった。勇樹に促されて、千穂はその後を追った。
その途中「マユコはどうしただろうか」と思い、チラリと振り返る。
電信柱の辺りには既にその影はなかった。
班長さんとわたしがお話ししてたから、自分の学年のところに行ったのかな?
きっとそうだ。千穂は一人でそう納得して列の先頭に向かった。
「千穂ちゃんバイバーイ!」
「また明日ー」
「うん、バイバイ……」
放課後。いつもの三叉路で、今日も千穂は陽菜と美花と別れた。
また気が重い帰り道だ。だけど、いつもと違うのは……。
「『べとべとさん、先へおこし』、だよね」
口の中でそう繰り返し、「よし」と一人うなずいて、千穂は一歩踏み出した。
班長さんが教えてくれたこの合言葉があれば、あの細い道だって怖くない。
それに今日も、もしかしたらマユコが助けてくれるかもしれないし。
いや、それはないかな。今日は一年生は四時間目までだけど、上級生はもっと長い時間授業を受けているだろう。
そう言えば、マユコは何年生なのか。今朝、校門で登校班が解散した時に急いでその姿を探したのだが、すぐに教室へ行ってしまったのか、見つからなかった。
まあ、明日の朝聞けばいいか。
そんなことを考えている内に、緩いカーブに辿り着く。ここを曲がれば、擁壁とフェンスに挟まれたあの道だ。
合言葉があるから大丈夫。合言葉があるから、絶対大丈夫。口の中で言い聞かせるように繰り返して、千穂は一歩踏み出した。
また一歩、もう一歩。まだ足音は聞こえない。
更に一歩、足を速める。擁壁とフェンスの間をずんずんと進んでいく。
今日はいないのか。全然足音が聞こえてこない。
よかった、と半分安心、半分拍子抜けしながら千穂は歩みを進めた。
そんな時だった。
ひた。
背中とランドセルの間に、氷を入れられたみたいだった。
ぎくりとして足を止め、振り返る。
誰もいない。
古い住宅地と田んぼはもう見えない。擁壁とフェンスの間の道が延々と連なっている。
一歩進む。
ひた。
もう一度、確かめるように二歩、三歩と足を進める。
ひた、ひた、ひた。
千穂は息をのんだ。もう後ろを振り返る気持ちにはなれなかった。必要がなかった。
何故って、ランドセルの向こうからひりひりした強い気配が感じられたから。
いる。
べとべとさんが、後ろにいる。
合言葉だ。千穂はぎゅっと目をつぶって右手側、用水路のフェンスの方へ寄った。
「べ、べとべとさん先へ――」
ダメ!
突然飛んできた鋭い声。びっくりして、千穂は合言葉の続きを飲み込んだ。
声のした方、千穂の家のある方へ向き直ると、三つ編みおさげの少女が立っていた。
「ダメよ、言っちゃダメ」
冨田マユコだった。しっ、と人差し指を唇の前で立てている。
「縁ができてしまうから」
えん? 荒い呼吸を整えながら千穂は尋ね返した。
「悪縁は結ばないのが吉。一度結べば、断ち切ることは難しくなる」
こっちよ。じっとりと手汗をかいた千穂の手に、マユコの冷たいそれの感触が上ってきた。
「近道があるの。絶対に、ついてこれない近道が」
マユコに手を引かれ、千穂は擁壁とフェンスの間の道を歩いた。
後ろにあった気配は消えている。当然ながら、足音も聞こえない。
「ここを曲がるの」
不意に視界が開けて、千穂は目をぱちくりさせた。
左手側の擁壁は変わらない。だが、右手側のフェンスがなくなっている。途切れたのではなくて、まるで最初からなかったみたいだ。
マユコが指した先は、その右手側だった。
広い田園が薄く雲の広がった空の下に広がっていた。
「え……、こんな……?」
「気付かなかった? 横道だものね」
うふふふ、と笑ってマユコは先に立ち、田んぼのあぜ道へ千穂の手を引いていく。
あぜ道に一歩、千穂は足を踏み入れた。アスファルトとは違う土の感触が、スニーカーの裏からも伝わってくる。
「ここをずーっと行くと、おうちに帰れるからね」
田んぼの間のあぜ道を、千穂は手を引かれるままぐんぐん進んでいく。
あぜ道の左側には用水路が流れ、右手の側には見渡す限りに広がった、何十枚もの田んぼが水を湛えている。
このあたりに越してきてたった二か月だけれど、とてもじゃないが家の近くにこんな風景が広がっているとは信じられなかった。
「あ、あの……」
「大丈夫。もうすぐ着くからね」
千穂はマユコの手から自分の手を抜こうとしたが、ぎゅっと握られてできなかった。
赤いランドセルの上に見上げるマユコの後ろ頭が、やけに遠く感じられた。
どれほど歩いただろうか。空には雲がのしかかり、灰色が重く垂れこめて太陽の光が白く濁っている。雨が来そうな空だった。
足元から伝わる感触が、いつしかあぜ道のそれからぬかるんだ土のそれに変わっていた。足指の間に土が挟まり、それがどうにも不快だった。
ぺしゃりぺしゃりと足跡をつけ、マユコは遂に立ち止まった。
「着いたわ」
そこは小さな池のほとりだった。
千穂は息を飲む。
暗い空を映した濁った水面から、むわっとした臭気が立ち上っている。
「さあ、おいで」
振り返ったマユコの姿を見て、千穂は声にならない悲鳴を上げた。
ぐっしょりと、マユコの体は濡れていた。肌は青白く変色し、緑色の藻のようなものが根を張るようにこびりついている。
「おうちに帰りましょう」
濁った白目を細く歪めて、マユコは千穂の手を握り、背中から池へと飛び込む。
いや!
叫びたいのに、喉から声が出てこない。
マユコが濁った水の中へと沈み込んでいく。
それに引っ張られ、千穂も池の中へ――。
「オラぁっ!」
突然響いた声と共に、千穂は背負ったランドセルを強く引っ張られる。
「いたっ!?」
強かに尻もちをつき、あおむけに倒れこんだ千穂を見下ろすものがいた。
「何してんだよ、こんなとこで」
友樹だ。
やんちゃな同級生は鼻を鳴らした。さっきまで雨が降りそうなくらい曇っていたはずなのに、友樹の背後には青空が広がっている。
「ここ入っちゃダメだって知らないのかよ」
言われて辺りを見回すと、そこは千穂の住む住宅地の裏手のようだった。白いブロック塀と、その向こうにぽつぽつと建った真新しい家が覗いている。
千穂が倒れこんだのも、白いコンクリートの上だった。水の流れる音が聞こえる。どうやら、あの細い道のフェンスの向こう側、用水路の点検用の通路の上にいるらしかった。
「オレ、めっちゃ怒られたんだからな。お前も怒られろよ」
はだしで変だし、と友樹に言われて、初めて千穂は自分がいつの間にか靴を脱いでいたことを知った。
「んで、どこで泥遊びなんてしたんだよ」
友樹が指さした白いコンクリートの上には、泥の足跡が一人分ついていた。
「じゃあ、あのクツお前の? フェンスの前に脱いであったやつ」
友樹の拙い話をまとめるとこうなる。
フェンスと擁壁の間の細い道を通って帰っている途中に、友樹は靴を見つけた。
そのフェンスの向こうを見ると、白い岸壁の上に泥の足跡が続いている。誰かが乗り越えたに違いない、と思った友樹はフェンスをよじ登って足跡を辿った。
しばらく歩いて行くと、見覚えのある空色のランドセルが今にも用水路へと落ちそうになっているのが見えた。
友樹は慌てて走り寄り、いつもふざけてそうしていた時よりも力を込めて、それを引っ張った、ということのようだ。
「何やってたん? お前もタンケンゴッコ?」
友樹の問いかけには答えず、呼吸を整えながら、ゆっくりと身を起こす。
一体、どういうことなんだろう?
その足元では用水路の黒い流れが住宅街の真下、地下へ続く黒い穴へと潜り込んでいる。
「ここ、行き止まりでつまんねーよな。タカラバコとかあったらいいのに」
のんきな調子の友樹の声は、千穂にはほとんど聞こえていなかった。
用水路の黒い水面、そこから目が離せないでいたから。
そこに浮かんでいた「もの」を見て、千穂は「きゃあっ」と声を上げて後ずさった。
「え、何? どうしたんだよ!?」
悲鳴が合図になったみたいだった。涙がとどめなくこぼれてくる。
突然泣き出した千穂に友樹は慌てた様子だった。「なんなんだよ」「オレなんかした?」「これまた怒られんの?」などと、泣きじゃくる千穂の周りで一人で騒いでいる。
「ああ、もう……、ほら」
顔を押さえる千穂に、友樹は手を差し出した。
「いっしょに帰ろうぜ」
涙を拭き拭き千穂は何度もうなずいて、友樹の手を取った。
熱の通った、温かい手だった。
友樹に手を引かれながら、千穂は用水路の脇を歩いた。
まっすぐ、前を行く黒いランドセルを背負った少年だけを千穂は見つめた。絶対に、右手側を流れる用水路は見なかった。
さっき目にしたものを、また見てしまうかもしれないから。
あの行き止まり、地下へと水が流れていく場所で、千穂は確かに見たのだ。
仰向けに浮いた、三つ編みの少女――冨田マユコを名乗っていたものを。
それは千穂を見上げると、青紫の唇を歪めて沈んでいったのだった。
水底に光る無数の目と共に。
◆ ◇ ◆
「千穂ちゃん、結衣ちゃんバイバーイ!」
「二人とも、また明日ねー」
「うん、バイバイ」
「またねー」
三叉路をまっすぐに行く陽菜と美花を見送って、千穂は隣で手を振る結衣に向き直る。
「じゃあ、行こっか」
「うん、行こ」
千穂と結衣は並んで歩きだす。
あれから月日は流れ、千穂は六年生になった。その右手には、登校班の班長が持つ黄色い班旗が握られている。
古い住宅と田んぼの間にあったこの道も、千穂が三年生の時に工事が始まり、今では新しい家と古い家が向かい合って建ち並ぶ道になっていた。古い住宅の方も、何軒か改築や改修がされており、かつてあった寂しい雰囲気もなくなっていた。
千穂が住むあの住宅地にも、どんどん新しい住人がやってきて、賑やかになった。
一緒に道を歩いている吉川結衣も、去年同じ小学校の別の地区から引っ越してきた子だ。
来る者もいれば、いなくなった者もいる。
土屋友樹の一家がそうだ。
千穂が怖い目にあったあの日の夜、小学校から電話がかかってきた。
(お子さんと同じ登校班の土屋勇樹くんが帰宅していないそうなのですが、お心当たりはございますか――?)
知らせを受けて、千穂の両親を含む近所の大人が探しに出たが、ついに見つからなかった。
ただ、あのフェンスと擁壁の間の細い道に、勇樹が持っていたものらしい班旗だけが落ちていたそうだ。
まさか、班長さんは。
その話を聞いて、千穂は昼間のことを思い出し、また泣いてしまった。
勇樹は三日後、擁壁の上にある大学の体育館の裏で、ぼーっと座っているのが発見された。
かけていたメガネはなくしてしまったのか、裸眼だった。服装はボロボロで、まるで長い間山の中を彷徨っていたかのようだった、という。
うつろな様子で何を話しかけても返事をせず、入院することになった。
(兄ちゃん、おかしくなっちゃったんだ)
勇樹が発見されてから2日後、両親に付き添われ久しぶりに登校してきた友樹は、「お前にだけ言うけど」とそう教えてくれた。
(ぜんぜん返事、しないんだ。遠くをずーっと見て、たまに思い出したように言うんだよ)
ひたひた、ひたひた、ひたひた、って。
程なくして、土屋一家は引っ越していった。
一家が住んでいたアパートも老朽化から去年解体された。その敷地には今、2軒の家が建てられている最中だ。
結衣と他愛ない話をしながら、千穂は家路を歩く。こうして一緒に家まで帰る友達が現れてくれて、本当にありがたかった。
勇樹の事件があってから、学校は通学路を変更した。より遠回りになったし、車の通行の多い道路を通ることになったが、5年間何事もなく登下校できた。
この処置は千穂にとって都合がよかった。何せあの出来事があってから、擁壁とフェンスの間の細い道を通れなくなっていたから。通ろうとすると、足がすくんで進めなくなってしまうのだ。
ところが、千穂が六年生になった今年、通学路はまたあの細い道を通るルートに戻った。
勇樹の事件を知らない新たに引っ越してきた親たちが、「今の通学路は車が多く危険。車の通れない細い道があるのに何故それを使わないのか」とクレームを入れたためらしい。
そのせいで、この四月からはまた、この道を歩いて帰ることになっている。
千穂と結衣は他愛ない話をしながら、緩いカーブを曲がってあの細い道へと差し掛かる。
「……でさあ、うちのババアったらマジありえんのよね。部屋にカギかけさせてって言ってんのにさあ、ダメだって言うんだよ? 信じられる? 来年中学よ、あたしら?」
「いいなあ、自分の部屋があるの。うちの親、『来年になったらいいよ』って言ってるけど、ホントにしてくれるのか、ちょっと怪しいんだ」
「絶対やんないってそれ。ハメだよ、ハメ。親ってそういうとこあんじゃん」
子供ナメてんだよ、と口をとがらせる結衣の左側に、さりげなく千穂は移動した。
どうしても右側、フェンスの方には近寄れなかった。
「……あれ? 千穂って、何かいっつも左側に来ん?」
「うん、ちょっとクセで」
訝しげな結衣に、千穂はそう笑って誤魔化した。
「左側に行くのってさ、自分の右手を握ってほしいってことなんだって」
「えー、そうなんだ」
シンリガクだよ、と結衣は得意げに続ける。
「それって、利き手を預けるってことじゃん。リードして引っ張ってほしいって気持ちの表れなんだって」
右手を、引っ張る。
千穂は班旗を手にした右手を見やる。
あの時、この手を引いて土屋友樹が連れ帰ってくれなかったら。
千穂は顔を上げる。横目にフェンスと用水路、その向こうには完成した新しい住宅が――
「!!」
違う。
そこにあったのは灰色の雲に覆われた空だった。
その下には見渡す限りの田んぼが広がっている。
そして、あぜ道には赤いランドセルを背負った、三つ編みの少女が立っている。
少女がゆっくりと顔を上げた。
そして、こちらに青白い手を伸ばし――。
「どしたの、千穂?」
結衣の声に、千穂は揺り起こされたように感じた。
視界には田んぼなどどこにもなかった。無機質なコンクリートで覆われた用水路が流れ、新しい家々が並んでいるばかりであった。
「ううん、ちょっとね……」
「あ、右手を引っ張ってほしい人がいるんだー!」
結衣の笑顔に、「そうかもね」と応じ、千穂は前を見据える。
しばらくは、この賑やかな友達に頼ってしまうことになるだろう。
右も後ろも向かず、この道を一人で、まっすぐ歩いて家に帰れるようになるまでは。
〈べとべとさん 了〉
※ ※ ※
六時間目の授業を終えて、土屋勇樹は家路を歩いていた。
三叉路で右に曲がり、古い住宅地と田んぼの間を抜けると、緩いカーブの向こうにフェンスと擁壁に挟まれた細い道に差し掛かる。
僕が一年生の時は、こんな道じゃなかったんだよな。
勇樹は、ふとそう回想する。
左手側の擁壁は、勇樹が小学校に上がる前からある。
だが、右手側はあの頃は田んぼだった。
勇樹が三年生の時、この辺りの田んぼを持っているという一族が土地を売り払い住宅地になった。田んぼに水を引いていた水路は整備され、フェンスに囲まれた今の用水路になった。
数年のうちに、この辺りの田んぼは全部、ああいう新しい家が建ち並ぶ土地になるらしい。
新しい家ができて売りに出されれば、今の狭いアパートを引っ越す計画も、両親は立てているようだ。
だけど、この田んぼの上に建った家は嫌だな。両親にはとても言えないが、勇樹はそう考えている。
まだ新しい家々が立つ前、この細い道からは田んぼのあぜ道に入ることができた。
そのあぜ道を歩く、赤いランドセルの女の子を何度か見かけたことがあった。
不思議な女の子だった。田んぼのあぜ道をずっと歩いて行っても、柵のある古いため池しかないのに、そっちへずんずん進んでいくのだから。
登校班にもいないし、一体あの子は何者だったのだろう。確か、長い髪の毛を二つの三つ編みにしていて――。
ひた。
おや、と勇樹は足を止める。
今、後ろから足音が聞こえたような。
まさか、と勇樹はかぶりを振った。
今朝、登校班の一年生の女の子と話したことが思い出された。
電信柱に向かって、何を独り言を言っているのだろうと不思議に思って声をかけたのだった。
金子さん、だったか。弟がたまにからかっている、おとなしい女の子だ。
聞いてみると、「後ろをついてくる足音が聞こえる」なんてことを言っていた。
だから、妖怪の話をしてやった。
後ろをついてくる妖怪、べとべとさん。
小学一年生にはちょうどいいだろう。
もう再来月には12歳になる。勇樹はそんなもの、本気で怖がってなどいなかった。
気のせいだ。
畳んだ黄色い班旗を手でもてあそび、勇樹はまた歩き出す。
ひた、ひた、ひた、ひた。
また聞こえた。振り返っても、何もいない。
靴を履いた足音じゃない。
まさか、裸足? それにしたってあんな音がするだろうか。
こんなこと、考えるもんじゃない。勇樹は足を急がせた。
ひた、ひた、ひた、ひたひたひたひたひたひた。
足を速めれば、ば音も同じだけ速くなる。
まさか、本当にいるのか……?
勇樹は足を止めた。
少し考えてから、やれやれとかぶりを振った。
こんな子どもじみたこと、自分がやることになるなんて思わなかった。
こうすることで、少しでもこの「幻聴」がマシになるんなら、そうすべきか。
擁壁の方に体を寄せ、道の真ん中を開ける。左手に持った班旗で先を指してこう言った。
「べとべとさん、先へお越し――」
ひた。
流石に勇樹もビクリとする。
足音が確かに聞こえた。
ひた、ひた、ひた、ひた。
聞こえども、姿は見えない。
音だけが、勇樹の前を通り過ぎていく。
ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた……。
息を潜め、それが過ぎ去っていくのを勇樹は待った。
行ったかな?
足音が聞こえなくなって、勇樹はようやく深く息を吐く。
いた。いたんだ。本当に。
あの金子って一年生も、この足音を聞いていたのだろうか。
ならば、とっても恐ろしかったことだろう。電信柱に話してしまうのも無理ないくらいに。
だけど、恐怖は去った。僕が、去らせたのだ。
そうだ、自分は震えるだけの一年生じゃない。知恵と知識を使って、解決できるんだ。
こんなの、どうってことないんだよ。
安ど感から、勇樹は薄く笑った。
気を取り直し、自分の家の方へと向き直る。
「え――」
そして、目を見開いた。
そこに立っていたものに。
足音と共に行き過ぎて行ったものの、正体に。
体が震える。力が入らなくなって、左手に持っていた黄色い旗が道に落ちた。
声が出なかった。大きな声で悲鳴を上げて、わめき、叫びたかったのに。
不意に、すべては煙のように消えた。
フェンスと擁壁の間に挟まれた細い道を通っていたものなど、誰もいなかったかのように。
ただ一つだけ、人がいた証として。
黄色い旗だけが残されていた。
〈べとべとさん side-L 了〉
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