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第七十四話 行軍開始

【王】撒き餌

永禄元年如月(1558年2月)


近江国 朽木谷



 我ら幕府軍は、朽木谷を出た。

 公式的に朽木谷を出るのは初めてのことである。

 朽木谷を出たところで、寒々とした空気は変わることもなく、ざわめく俺の心情に変化は無い。


 義弟殿を助けに行くときは、もっと心が躍っていた。同じ合戦に赴くというのに、こうまで違うものか。

 明るいところで見る外の景色は、初めての物なのに、どうでも良いものに思えてしまう。


 あの時とは身形も違う。

 戦装束に煌びやかな陣羽織を羽織り、馬も着飾っている。見るからに身分のある人物に見えるだろう。

 若狭国へ奇襲を仕掛けに行った時には、防寒着として、熊の毛皮の袖無しを羽織っていたが、今回は却下された。

 あれ、暖かいんだけどな。


 将軍の親征には、相応の格式が必要らしいのだ。

 無駄に思えてしまうが、撒き餌としての役割を考えると、間違いではないのが頭の痛いところ。



 俺の率いる幕府軍はそれなりに規律をもって歩く。まだ行軍とも言えぬ、ゆるゆるとした歩み。軍全体に緊張感を感じられない。そういう風に感じるのは、鎧兜を身に着けていないからかもしれない。


 今回、幕府軍と言っても、俺が組織した直轄軍はおらず、ほとんど見知らぬ人たちばかり。

 しかし、名は通っている有名武将の一族が多く、かつての義藤が見知った人もいるようだ。


 全体的な内訳は、俺の知っている朽木の爺さんのような御伴衆や奉公衆、足軽衆などの旧来の幕府軍のうち呼びかけに応じて駆けつけてくれた者たちで構成されている。

 朽木の爺さんは良い歳なのに、真っ先に合力を承諾してくれた。

 何となく、この五年で自慢の身体が少し小さくなってしまった気がしてならない。


 数が多い足軽衆は諸大名のように農民兵ではなく、氏素性のはっきりした武士が合力してくれる際に配属する部隊だ。各地の浪人衆に声を掛け、高札を出して集めた人員である。


 見るからに怪しい風体の者は、六角家の方へ行くように促された。

 俺としては一人でも味方の兵を集めたかったが、あくまでも将軍直々に率いる軍という面があり、ある程度の選別が必要だった。


 そういう関係で幕府軍は、それなりに整った見た目と質を維持できている。

 能力的に怪しい御伴衆や奉公衆もいるが、家人が優秀だったり、忠誠心が篤いものが多く、信頼できる。

 危なくなったら俺を置いて一目散に逃げるような人たちではないだろう。

 彼らは一も二も無く呼びかけに応じてくれた忠臣なのだから。


 問題は、これから集まってくる味方。

 あれこれ逡巡して結論を出すのだろう。

 距離的な問題ですぐに駆け付けられない人はもういないと言えるほど待った。

 あとは、結論を出せないか、領地の諸問題で離れられないか、何かしら理由があって遅れている。

 あの三好家と戦うために来てくれるだけありがたいが、すぐに来てくれた人たちとは線引きされる。


 いつ来るか確証が無いので、先に出陣することが決まった。

 どのみち、ゆるゆると進軍し、将軍の出座を喧伝していくので、あとで合流してもらえば良いという考えだ。



 今のところ集まった兵は二百騎。足軽衆の徒士かち侍や奉公衆などの家臣も含めると総勢千名。

 ここに俺が組織した幕府直轄軍は参戦していない。

 彼らの存在は公表していないので、合流はもう少し後になる。有象無象が多くなってくる辺りで、滝川益重さんが率いてきたことにして参陣する予定だ。


 胡散臭いおっさんこと、細川晴元は、独自の人脈を用いて兵を募っていた。あのおっさんは集めた兵数だけでなく、格式高い大名との親戚が多いだの、恩を売ってやっただの自慢していた。

 今は、将軍の先導をするとか息巻いて、俺の前を進んでいる。多分危なくなってきたら、後ろに下がるのだろう。傍から見たら兵の数が多くなったことには変わりないので、今は触れずにおいている。


 おっさんの集めた武将は癖の強そうな人だったり、気の弱そうな人だったり極端で何とも言えない。おっさん同様、あまり信用しない方が良い気がするのは気のせいだろうか。


 出陣が決まってから、落ち込んでいたが、気を持ち直してやれる事をやった。

 忍者営業部を動かして三好家や六角家の陣容を探ったり、若狭国小浜港にある蔵からの補給ルートの使用許可を得たりなど。

 それだけと言えば、それだけなのだけれども、ちょっとしたことが生死を分けることになるかもしれない。

 そう思って二度手間になったとしても動いてもらった。



 出陣した幕府軍の進軍ルートは、朽木谷から直接京に向かわず、琵琶湖の西側の湖岸に出る。この世界で初めて見る琵琶湖は、俺らの心境とは打って変わって、のどかで平和だった。

 俺の心臓は、琵琶湖の水面と違い、強く波打ち、荒ぶっている。

 こうまで違うものか。そして俺という存在の小ささよ。


 人の営みと切り離され、揺ぎ無く存在する自然は高貴で美しい。

 人の世界で高貴とされる俺とは大きな違いだ。俺はこれから醜い争いをしに行くところである。きっと俺の勝ち負けに関わらず、変わりなく雄大に存在を維持することだろう。

 湖に限らず、山も川も樹も。万物の自然は揺るがない。

 俺にない大きさだ。


 願わくば、この醜い争いの先に、平和な世が待っていてほしい。

 青く美しい琵琶湖のお蔭で、それくらいは思えるようになった。

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