レディー・キラー
A
「何でもレディー・キラーって言うらしい。被害者は全員が女性だって」
「女ばかりを狙う連続殺人鬼っすか。そう言うのドラマだけの話だと思っていました」
昨年度の決算整理を無事に終えた当経理課では、繁忙期を乗り切った達成感と時間的余裕によって就業中の雑談機会が増えていた。
「治安の悪いアメリカでは良くある話だけど、確かに昨今の日本じゃ余り聞かないね」
「お、出た出た。帰国子女でいらっしゃる課長のマウント取り」
私は先輩方の話に余り加わらないが、恋人みたく仲睦まじい二人の掛け合いを聞いているのは好きだ。話題のチョイスが意外にセンセーショナルなのも面白い。
「あとこの犯人、どうも美人ばかりを付け狙う面食いだとさ」
「マジすか。だったらウチの会社じゃ元木さんが危ないっすね」
「え、私ですか?」
なんて何時も通り傍観していたら唐突に自分の名前が挙がった。まあ三人だけの部署なので不意に話を振られる事は珍しくないけど。
「確かに元木さんは気を付けた方が良いな。か弱く見えるから狙われ易そうだ」
「そ、そんな事は無いですよ。もし狙われたら返り討ちにしてやりますし」
「元木さんに倒される有様じゃ連続殺人なんて無理でしょ」
二人は揃って此方を見ながら心配そうな顔を浮かべ、これには私も思わず苦笑いで返す他になかった。尚も話は終わらず苅田先輩は私に告げる。
「あ、そしたら僕が送り迎えしようか。可愛いお姫様を守るナイトって事でさ」
「苅田、露骨なポイント稼ぎは下心が見え見えだよ」
「へへへ、サーセン!」
課長に指摘されたお調子者の先輩は後頭部を手で掻きながら舌を出す。その内に退社時刻を知らせるチャイムが鳴り、オフィス内は俄かに騒がしくなるのだった。
「さて僕はお先に失礼します。物騒だから元木さんも早く帰って下さいね」
「はい。私も直ぐに続きます」
閑散期はノー残業が推進される当部署の先輩達は早々と席を立つ。私はまだ前に勤めていた会社の習慣が抜けないので、一目散にエレベーターへ向かう彼らには遅れを取っている。
「じゃ、お疲れ様」
「また明日」
それでも一人残った私は最後に金庫の戸締まりをすると、程なくして先輩を追う様に退社の運びとなった。
B
夕暮れ時を迎えたオフィス街の各ペナントビルからは、仕事を終えて開放的になったOLやサラリーマンが続々と溢れ出てくる。
「どう、これから一杯飲みに行かない?」
「良いですね。付き合いますよ」
その誰もが能天気な会話に興じていた。街頭ビジョンに連続殺人の件が報じられ、巡回する警察官も目立ち始めたのに警戒心を抱く者は殆ど見受けられない。
「そう言えば聞いた? 例の殺人鬼の噂」
「怖いよね。今も案外この近くで私達を狙っていたりして」
口では人並みに関心を寄せながら、その実は〝私には無関係〟と顔に書いて歩く者ばかりだ。まあ当事者である自分としては有り難い話だが。
『3番ホームに電車が参ります』
さて今日は駅のホームで電車待ちをしていた女性、ここ最近になって気になり始めた存在に狙いを定めた。彼女は化粧品ブランドのロゴが入った小袋を下げており、既に買い物を終えて自宅に帰る所といった装いだ。
「レディー・キラーって何歳までが対象なんだろうね」
「殺人犯のストライク・ゾーンに興味持つとか、あんたも変わり者だねぇ」
「……」
その女性は付近から聞こえる会話に僅かな反応を見せるも、直ぐに手元のスマホへと視線を落として無関心になる。日常と非日常が紙一重である事に彼女は気付かない。
『次は日暮里、次は日暮里』
相手の死角に入りながら同じ電車に乗り込み、下車した後も標的を尾けると陽が沈んだ頃に人目の少ない郊外へ差し掛かった。もう少しで自宅を完全に特定出来ると判断し、静かに歩を早めて標的との距離を詰めてゆく。
「あれれ、もしかして元木ちゃんじゃない?」
「え、友坂さん!?」
しかし既のところで思わぬ邪魔が入る。視野の外から割り込む様に第三者が現れて、自分はターゲットに気付かれまいと電柱の陰となる場所へ移動した。
「久し振りだね。元気だった?」
「うん。こんな所で会うなんて奇遇だね、家ってこの辺りだっけ」
残念ながら本日は諦めざるを得ない様だ。離れゆく標的の背を後ろ目で見遣りつつ、お預けを食らった気分で舌舐めずりをさせられた。
A
「またレディー・キラーが現れたらしい。新しい被害者の遺体が出てきたって」
「本当っすか? こうも続くと笑えなくなりますね」
今日も今日とて二人の話題は巷の殺人鬼だ。言葉とは裏腹に半笑いの苅田先輩と、段々本気で心配し始めた課長との間には微妙な温度差が生じている。
「まあ取り敢えずは元木さんが無事でいて良かったけど」
「あの、その言い方だと私があたかも狙われているみたいに聞こえますが」
「案外そうかも知れないっすよ。当の本人が気付いていないだけで」
苅田先輩は一体何を仰っているのやら。口では後輩が心配だって言うけど、その実は他人事として面白がっているだけと私には分かる。
「あれれ、この被害者が発見された公園って」
「どうした苅田」
「もしかして元木さんの自宅の近くじゃないっすか」
先輩はそう言いながら私にスマホ画面を見せてきた。確かにネット記事には見知った場所の写真が掲載されているけど、これで私が怖がったら相手の思う壺な気がする。
「本当ですね。でもまあ偶然だと思いますよ」
「そんな風に油断していると本当に食べられちゃうよ。やっぱり僕が送り迎えしようか」
ここで露骨なアプローチを掛けてきた苅田先輩に対して、私は少なからず抱いた誘惑を抑えながら本音を漏らす。
「いや先輩だと今一つ頼りにならないと言うか。私を置いて先に逃げちゃいそう」
「確かにな。此奴って威勢は良いけど根は乙女っぽい部分があるから」
「何すかそれ、僕だってやる時はやりますよ」
そう言ってファイティング・ポーズを取った先輩だが定時チャイムが鳴った途端、一転して鞄を手にすると速やかに帰宅体勢へ移行する。
「私を守るとか言った癖に、お先に帰っちゃうんですね」
「今日はちょっと別の用事があってね。じゃあまた!」
そうして苅田先輩を見送った私は、今のやり取りで出遅れた課長と共に席を立った。二人で一緒のエレベーターに乗りがてら、騒がしい同僚の態度を思い出して頬が緩む。
「あれ、そう言えば苅田先輩、どうして私の住所を知っていたんでしょうね」
「え……、元木さんが教えたんじゃないのかい?」
さっきは会話の流れで言われたから気付かなかったけど、もしや苅田先輩は私のストーカーだったりして。なんて馬鹿な冗談を思い付く前に課長とは別れた。
B
標的に声を掛けるのは路上だけど犯行は室内に限る。一度は気を許した者が絶望に浸る様を、こうして余さず観察するのが犯行の大きな醍醐味だから。
「や、やめて……。助けて……」
「元はと言えば貴女が悪いんだよ。レディー・キラーの噂は知っていたと言うのに、こんなに簡単に付いてきちゃうんだから」
「だ、だって、てっきり私」
今、目前で嗚咽を漏らしているのが今日の獲物。手足を椅子に縛られた彼女は激しい後悔に浸りつつ、それでも微かな希望を見出そうと殺人犯相手に謙ってくる。
「ゆ、許して。何でもするから見逃して!」
「そんな訳にいかないよ。このまま解放したら警察に通報されちゃうからね」
「しない、しないよ! 絶対に黙っているから、だから……!」
懇願する彼女の首にゆっくりと手を掛け、徐々に力を込めて文字通りに息の根を止めてゆく。恐怖と苦悶で見開かれた相手の目を間近で捉えるのは実に快感だ。
「大丈夫。ちゃんと〝口止め〟を済ませたら解放してあげるから」
「あっ……、やっ……、えっ……」
彼女は手足の紐を引き千切ろうと必死に抵抗するが、やがて瞳から生気が失われて微動だにしなくなった。この手によって今正に彼女は尊い命を摘み取られたのだ。
「……」
表社会では絶対に許されない所業を成す事で得る達成感。これこそ他では決して味わえない麻薬的な快楽だが、しかし今回ばかりは興奮冷めやらぬ内に途轍もない虚しさを覚える羽目となった。
「……駄目だな。やっぱり物足りない」
その原因は言うまでもなく先日、既の所で逃した標的の顔がチラつく為だ。こんな心境では代わりに生贄となった此の女性、友坂さんも浮かばれない事だろう。
「どうしても彼女の事を忘れられない。やはり我慢すべきじゃなかった」
どんな手段を使っても次回は本命に行かなければと思い直し、躊躇しがちな決意を強める為に彼女の顔写真が掲載された社内紙を眺める。
「ごく身近な人間を手に掛ける感触、想像しただけで激ってくるな」
自分と同じ経理課に所属する可愛らしい同僚。あれだけ事件の話題を出しているのに他人事と言わんばかりの呑気な態度……。
あの屈託のない笑顔が絶望へと陥る様は今から楽しみだ。
A
「ねぇ、絶対にヤバイって。最近は元木さん家の近くばかりで死体が出てるじゃん」
「う〜ん、流石に気持ち悪くなってきましたね」
今日は私も課長達の会話に端から加わっていた。話題は当然ながら世間をお騒がせしている殺人鬼の事で、こうも良く飽きずに同じ話を繰り返せるなと私は感心していた。
「ねぇ元木さん、やっぱり僕が送り迎えだけでもするっすよ」
「また其の話ですか先輩。どうせ冗談で言っているだけですよね」
「いや此奴が心配しているのは本当だよ。お試しで一度頼んでみたらどうだ」
そう課長が苅田先輩の肩を持った事で、私は自分の考えを少し改める事にした。もし先輩が本気で私を気に掛けているなら無碍にする理由はない。
「その、本当に良いんですか? 昨日みたいに実は予定があるってオチじゃ」
「今日は何にも無いから大丈夫。ど〜んと任せてよ!」
「微妙に頼りない気もしますけど、それじゃお願いしますか」
私が承諾すると先輩はガッツポーズで喜び、その燥ぎ振りを見た課長に直ぐ釘を刺される。
「苅田。言っておくけど元木さんに変な事をするんじゃないぞ」
「妙な言い掛かりは止めて下さいよ。幾ら僕でも常識的な事は弁えています」
こうして私は苅田先輩と同伴で帰宅する事になった。一緒に駅へ向かって同じ電車に乗って、思えば社外で話すのは初めてだから不思議な感覚だ。
「実を言うと先輩が一緒で安心したかも。夜道とか普通に怖いですからね」
「何だい水臭いな。そう言う事なら早く相談してくれて良かったのに」
『次は西日暮里、次は西日暮里』
自宅の最寄駅で共に降り、私が住むマンションの玄関口まで付き添われた。此処まで来れば流石に後の流れは決まっている。
「ええっと先輩、もし良かったら部屋に上がっていきますか?」
「良いのかい。何だか催促したみたいで悪いっすね」
「予め言っておきますけど、大した物は出せませんよ」
そう一応は予防線を張ってみたものの、先輩は嬉々とした表情で遠慮なく自分に付いてきた。こんな事なら初めから慎重を期す必要は無かったと思わされる。
「さあどうぞ。少し散らかっていますけど」
「ありがとう。お邪魔しまっす!」
「……ふふふ。お礼は此方の台詞ですよ」
そうして私は苅田先輩を、待ち侘びた標的の女性を招き入れる事に成功した。
B
まず私は苅田先輩をリビングに通した。普段はボーイッシュに振舞っていても靴の脱ぎ方や荷物の置き方とか、所作の一つ一つから淑やかさを感じるのが堪らない。
「楽にしていて下さい。飲み物は何が良いですか」
「ええっと、それじゃあアイスティーを貰おうかな」
「あらら、そこはお酒じゃないんですね」
ちょこんとソファーに座って大人しく待つ姿もまた微笑ましい。私はまだ後片付けが済んでいない自室の鍵を閉めた後、台所に赴いてご要望の品を用意しながら声を掛けた。
「それにしても帰り道の話は意外でした。先輩って課長と仲睦まじげだから、てっきり二人は付き合っているかと思っていました」
「別に悪い人じゃないけどね。何かと自分は帰国子女だって鼻に掛けて、男の癖に子女だ子女だって言う所は少し苦手かな」
「それを言うなら女の子なのに僕口調の先輩だって変かも知れませんよ」
「いや僕は昔からの癖が抜けなくって。あと元木さんみたいに女性らしくも無いし」
そう告げる彼女の口振りからは、やはり自身が持つ女性としての魅力を過小評価している節が見て取れた。先日の帰り道に買った筈の化粧品を使っていなかったり、私をお姫様扱いする割にレディー・キラーの話題を他人事に捉えるのも自信の無さの現れだ。
「そんな事は有りません。こうして私を気遣ってくれる優しさも然り、苅田先輩は女性として非常に魅力的な方だと思いますよ」
「いや、あはは。そんな風に元木さんに言われると何だか照れるっす」
「そうやって顔を赤くするのも可愛いらしいですね」
ああ、なんて美味しそうなんだ。私はグラスに注いだアイスティーに睡眠薬を混ぜ、今にも襲い掛かりたい欲求を抑えながら飲み物を運ぶ。
「だけど私の住所を知っていた事は少しビックリしましたね。一瞬ですけど苅田先輩って私のストーカーかと思いましたよ」
「ああ、あれは君が経理課へ配属される前に課長から見せて貰ったんだよ。本当は無闇矢鱈に教えちゃ駄目らしく、だから当の本人はしらばっくれると思うけど」
なんて説明をしつつ苅田先輩はグラスに口を付けた。此処まで自分を送ってきて喉が渇いていたのか、瞬く間に飲み干したのを見届けた私は思わず口角が上がる。
「ふふ、それじゃ最後の晩餐にしましょうか。リクエストあればどうぞ」
「何だよ最後の晩餐って。君も妙な事を言うね」
笑みを浮かべた先輩の顔はとても可憐で、今宵は最高の夜になると私は確信した。〈完〉