雨の日の数時間 その5
今まで強く吹いていた風が嘘みたいに、今は撫でるような柔らかい風が町全体を駆け抜けていた。
辺りは陽が沈み、空が暗く、星が微かに瞬いていた。
その空の下でルミナは一人で街を歩いていた。人はほとんどいない。きっと部屋の中で明日の準備でもしてるんだろう。ルミナは何となくそう思っていた。
ふと自分の横を見る。誰もいない。
いないはずなのに、何故かそこにいる、なんて思ってしまう。
「……思い出しちゃったからかな」
夜空を見上げながらルミナはポツリとつぶやいた。自分の腰に手が伸びる。そこで思い出したかのように手が止まった。あぁそうだ、と言わんばかりに表情が緩まる。
「あれ、ルミナさん?」
声をかけられて、そちらの方向に振り返る。良く知っている声だ。
「こんばんはエトくん。……今日ももしかして依頼受けてたの?」
「あぁいや。今日は雨と風が強かったので、ギルドの地下室でウィーゼさんに稽古つけてもらってたんです」
「そうだったんだ。流石のエトくんでも天候は選ぶんだね」
「あはは……流石にあんな雨と風じゃ僕も動きたくないですよ」
冗談めかすような会話に、お互い笑い合う。ひとしきり笑った後、エトルはルミナに訊く。
「……ルミナさん、何処かに向かってたんですか?」
「ううん。そういうわけじゃない。何となく、宛てもなく散歩してただけ。……何だか今日は外の空気感じてたいなって」
穏やかな口調で話すルミナ。その口ぶりにエトルは、何かあったのかなと感じていた。
いつもの彼女と言えばいつもの彼女だろう。別に散歩に出たいなんて不自然ではない。誰だってそういう日もあるだろう。でも同時に。良くは言えないが、このまま放って置いたら、もう二度と帰ってこないような、そんな不安も少しはあった。
少し戸惑うエトルだったが、ゆっくりと息をついてから、エトルは訊いてみる。
「……しばらく一緒に散歩しても大丈夫ですか?」
「急だね。ホントに宛てもなく歩いてただけだよ? それでもいいの?」
「はい。……せっかくだし、覚えたことを思い返したいですし」
そう言ったエトルに、一瞬だけ表情を変えるルミナ。
思い返す。あぁそうだ。今日はなんだかずっと思い返してばっかりだ、と。
もしかしたら今日は、そういう日なのかもしれない。これまでのことをゆっくりと振り返る、いい機会なのかも、と。
「ん。じゃあいいよ」
受け入れたルミナは歩き出し、エトルもその隣をついていく。
2人はお互い声を発さないまま、ただ街を歩いていた。お互いにこういう時間は初めてかもしれない、なんて思いながら。
ルミナはただ何となくで進路を決めて歩き、エトルは何も言わずについていく。時折エトルは教わったことを思い出すかのように指や腕を軽く振る以外は、ただ2人の足音が淡々と続いていくだけだった。
ふと彼女は横を見る。エトルがいた。
そこにいるのはたった1人のはずなのに、何故か他にいる、なんて思ってしまう。
それでも特に声をかけたりせず、ただ何処かへと歩いていく。
エトルはその視線をはっきりと感じ取っていたが、何も言わなかった。以前、依頼についていってくれたお礼……というには小さすぎるが、今はただ一緒に歩くだけでいいだろうと。
一体どれだけの時間を歩いただろうか。時折ルミナは立ち止まっては看板や窓を見たりしては再び歩き、それを真似するかのようにエトルも立ち止まったり歩き出したりした。
何も言わず、ただ歩いただけ。
それだけなのに、お互いに何処か満たされてるように感じていた。
ルミナが立ち止まる。場所は教会に続く石橋で、昼間は雲と雨でよく見えなかった街並みも、今は街灯や星と月の輝きで不思議と良く見える。
「……初めてあったのはここだよね」
ルミナは街の景色を眺めながら、石橋の柵の上に座り、そう言った。
「まさかここまでの付き合いになるなんて思わなかったよ。……エトくんもそうでしょ?」
ふふっ、と笑いながらルミナはエトルに問いかけた。
「……そうですね。……でも、そのおかげでこうして日々が不思議と明るく感じてて……自分は幸せなんだなって、たまに思うんですよ」
幸せ。
その言葉を聞いてルミナは、何処か感慨深そうな表情になる。
ルミナは、大怪我をして、逃げ込んだ日の続きをもう一度振り返る。
あの日狼に出会った。
狼は小さくて……いや、自分も似たようなものだったし、もしかしたらその時の自分と同じぐらいだったかもしれない。ただ、小さい狼に出会ったのはあの日だ。
狼の近くには、当時の幼い自分より一回りも大きく見えた親の死体があった。原因は不明。多分撃たれたんだろう。私と同じだ。私ももう少ししたらこうなるんだって。
でもそう思うより、もっと大事なことを思っていた。
狼はひどく警戒していた。唸り声も聞こえる。
それもそう。狼は人間ではない。撃ったのは人間。その人間がこうしている。撃った覚えは全くないが、狼にとって人間は人間、同じものだ。
……もういいや。この足じゃどうせ盗みとかも出来やしない。どうせ死ぬ。ならどこで死んだって同じ。
そう思った彼女は、途端に意識が途切れた。
あぁ。死んだ。
次に目を覚ますと、そこは感じたことのない匂いと、木材の天井だった。外からは雨の音が小さく聞こえる。
ここはどこだろう。身を上げようとして、途端に足に激痛が走る。思わず悲鳴を上げる。するとどうだ、誰かがあわただしくこちらに駆け寄ってくる音が聞こえてきた。
ヤバい、逃げなきゃ。『音』に警戒して、手で這ってでもここから逃げようとして。
「だ、大丈夫!?」
目に飛び込んできたのは、金髪の、修道服の女性だった。女性は慌てたような声で彼女の心配をする。
敵意は感じられない。あまりにも感じたことのない気配だ。
「よかったぁ……町はずれの道で見つかったのよ、貴女。……足、怪我しているみたいだから、ある程度治癒魔法をかけたけど……その様子じゃあまり満足に動かせそうにないのね」
……見つかった? 道で? おかしい。確かに意識が途切れる前は、草木があって、道なんてなかったはず。じゃあなんで?
不思議そうな様子でキョロキョロしていた彼女に、修道服の女性は、彼女に手招きをしてから、ある方向を指さした。そちらの方を振り返る彼女。そこには。
……あの時の、狼。
意識が途切れる前。見間違えるはずもない。目の前にいた狼が、今は床で身を休めるように伏していた。
「多分だけど、その狼が貴女を運んでいたのでしょうね。最初に見つけた人に警戒してたみたいだったから私がそっちまで来たの。……まぁ私も警戒されてたから、打ち解けるまでに時間はかかっちゃったけどね」
思い出すように笑う修道服の女性。その女性を気にせず、自分の腕をよく見れば、その両腕にも包帯が巻かれていた。多分、運んできたというより、引きずられたというのが正しいだろう。
いやそれよりも重要なことは。
何故狼が私を助けたのか。
助けられる義理も何もない。私は『人間』。狼にとって『人間』は同じ。殺されても同然の存在。
それだというのに、何故。
「……大丈夫?」
修道服の女性が心配そうに声をかけてきた。思わずビクッとして身を強張らせる。その様子に、修道服の女性は申し訳なさそうな顔になる。
「……ごめんなさい。まだ気持ちの整理はつかないよね。……パン、ここに置いておくから、良かったら食べて頂戴。あと、何かあったら、ここにベルを置いておくから鳴らしてね」
そう言って修道服の女性は彼女から離れて、階段を下りる。
女性が去った後、彼女は置かれたパンとベルを見つめる。ベルは今はどうでもいい。彼女はパンを2つにちぎると、その1つを何気なく狼の方へと捨てるかのように放り投げた。
その行動に、彼女ははっとする。……今までこんなことしたことあっただろうか。覚えてる限りではそんなの一度もない。コミュニティにいた時だって、基本的に単独行動してた。たまに集団で行動してたけど、盗品は早い者勝ちだったので協力関係というわけでもなかった。
そんな自分が、今こうしてパンをちぎって狼に投げた。それは一体何故?
考えに耽るより、お腹が空いたという気持ちが早まる。彼女はパンを口の中に含む。
パンなんて盗品、よく目にしていた。当然盗んだ。食べた。味なんて変わらない。
……そうだというのに、今口に含んだパンは、どのパンよりも美味しく感じた。
……どうして? 変だよ、私。




