湖でのんびりと その3
「……なるほど。今度、そちらの商店に向かってみますね」
「私はあんまり行かないから、もしかしたら品揃えが変わってるかもだけど」
今日も穏やかな天気だ。ルミナとイシャナは穏やかな表情で歩きながら話をしていた。その隣を、会話の邪魔をしないようにエトルも聞き耳を立てながら歩く。
目的地の湖まで、町からは歩いて15分ほどだ。3人は馬車を借りずに目的地まで歩くことにし、道中他愛ない話を交えながら歩いていた。
「あ、そろそろ見えてくるころじゃない?」
ルミナがそういいながら指をさす。そこに穏やかな湖が見えた。
3人は近くまで歩くと、辺りを見渡す。人は他におらず、魔物もいない。ただ静かに風が吹き抜ける音だけが聞こえてきた。
「……奇麗なところだ」
エトルは無意識のうちにそう言った。そんなエトルにつられるかのようにイシャナも頷いた。
「えぇ。ここの近くには初めて来ましたが……。とても穏やかで奇麗なところです。不思議と心が落ち着きますね」
2人の感想に笑みを浮かべるルミナ。率直な感想を聞けて喜ばしかったのだろう。彼女としてもここは気に入ってるようだ。
一通り景色を堪能した後、エトルは気を引き締めるように一呼吸入れると、イシャナの方に振り返る。
「……では始めましょうか。イシャナさんは釣りの方と湖の調査、どちらがいいですか?」
そういいながらエトルはギルドから支給された試験管と羊皮紙のセットと、釣り用具一式を地面に置いてイシャナに訊ねる。イシャナはそれを見て、迷わず試験管と羊皮紙のセットを手に取った。
「……え、いいんですか?」
「もちろんです。たまには後輩を楽させるのも先輩の務めですから」
「……あぁ。じゃあ……お願いしてもいいですか?」
「もちろんですよ」
イシャナは頷き、少し離れたところに移動する。エトルはその背を見た後、「そんなに一緒だった覚えないんだけどな……」と複雑な思いをしながら釣りの用意をする。そしてふと、ルミナの方を振り返る。
「ルミナさんは……どうします?」
「んー。やることないからエトくんの釣りでも見守ってる」
「分かりました」
エトルは頷くと、釣りを開始した。魚はきまぐれだ。焦る必要はない。そう自分の心に言い聞かせて地面に座り、時間が過ぎていくのをじっと待つことにした。
もちろんただ時間を待つだけではない。時折イシャナやルミナがいる方向を振り返っては様子を確認する。イシャナは水面を見たり空気に触れたりして湖の調査、ルミナはエトルからちょっと離れたところで膝を曲げてしゃがみ、同じように水面に垂れた糸を眺めていた。
「……ねぇ、エトくん」
数分ほどだろうか。未だにかかる様子がなく、場所を変えてみようかと思いこんだ時にルミナがふと声をかけてきた。
「エトくんはこういうの慣れてるの?」
「こういうの……って、釣りのことですか?」
「うん」
糸から水の波紋が広がるのを見ながら、ルミナは平然とした顔で頷く。少しだけ驚いたエトルは、どうして驚いたんだろうと一瞬だけ思いながら答える。
「そうですね……。村にいたときは川に遊びに行って釣りをしたりとか、森に行って採取とかしてました」
「それが、きっかけ?」
「冒険者になろうとしたことですか? ……どうなんだろう。それもあるかもしれないけど……」
糸は垂らしたまま、エトルは少し考え込む。
そもそもきっかけは一体どこからだったろうか。そんなこと思いながら彼は垂らしている釣り糸を見つめる。ただ無言で考えるのは難しいだろう。彼はゆっくりと声に出しながら記憶を辿って行った。
「……きっかけは冒険録の書かれた本だったかな。子どもの頃はほとんど毎日読んでて……」
「それで、あこがれるように?」
「え?」
ルミナの瞳が真っすぐとエトルを見つめていた。エトルは少し気恥しそうに目線を逸らした後、思い出し笑いのように笑顔を浮かべた。
「そうかも。両親に他に冒険者の本が無いか、なんてねだってたこともあったっけ」
きっかけを思い出したエトルは、そこから流れるように記憶を更に辿って行き、ルミナにも教えるように顔をルミナの方へと向けた。
「それからはよく外に行って、本を片手に様々な植物とか素材とか見てました。数年前には父に武器の使い方を学んだりとか、戦闘の基礎とかいろいろ……」
そこでふとエトルの口が止まる。
別に周囲で異変が起きたからとか、魚がかかったとか、そういうわけではない。ましてやルミナの表情が変わったわけでもない。
ルミナの瞳が、何を考えているのか分からないように濁ったように見えたからだ。
エトルは表情や仕草だけで相手のことを完全に理解できるわけではない。そんなことできるのはそういう技能を持っている人間ぐらいだろう。
そんな彼でも分かるぐらい、取り返しのつかない間違いをしたかのような感覚が、ルミナの瞳から伝わってきたのだった。
この感覚に似た感覚をエトルは覚えていた。ルミナの詠唱を聞いたときの感覚に近いのだ。儚く、脆く、鋭く、何よりも、底知れない『何か』が、ルミナの瞳から。
思わず顔を逸らして俯くエトル。手が微かに震える。
「……エトくん?」
「あ、えっと……ごめんなさい」
「?」
エトルは顔を向けずにルミナに謝る。何故謝られたのかルミナは分からず、思わずきょとんとする。
「どうして謝るのさ?」
ルミナはいつもの声色でエトルにそういった。どうやら自分でも気づいていないようだ。
エトルは恐る恐るのぞき込むようにルミナの方向に振り返る。ちょっと離れた方向にいたはずのルミナがすぐ近くにいて、思わずエトルは声をあげて驚いた。
「もーぉ。なんでそんな驚いてるのさ。変なエトくん」
いたずらに成功したかのように笑い声をあげるルミナ。感情のままに動いてるかのようなルミナに、思わずエトルは呆気にとられる。先ほどまでの『何か』は全くと言っていいほど読み取れない。
いつも通りになった彼女に思わず安堵したエトルだが、同時に先ほどまでのあの感覚は何だったのだろうかとも疑問に思っていた。
その疑問は、釣り竿が魚を捕らえられた感覚と共に消え、エトルは魚の釣り上げに意識を向かわせるのだった。




