時を紡いで家族になる
(暇人)
昔の吉祥寺は新宿などに比べ知名度は低く、井の頭公園のボートなどが恋人たちのデートコースとして名を馳せたくらいだった。その後、デパートの出店やお洒落な店が軒を連ねることにより住みたい町の上位に選ばれ、それに伴い住民も急増した。笠原美弥子も二十三年前にマンションを購入し、吉祥寺の住民権を得た。四谷が勤務地だった美弥子には中央線一本で行ける申し分ない立地だった。勤務地だったと過去形になったのは、今日目覚めてから。美弥子はマンションの五階ベランダから、通勤か通学だろう人達が黙々と自転車や徒歩で吉祥寺駅に向け連なっている様が、回遊魚のように一方向へと決まった流れを作り、何の感慨も持たずひたすら移動して行くのを、開放感と寂寥感が入り混じった複雑な思いで眺めていた。その塊は日常という無意識な流れに乗って運ばれて行く。すらっとした体型の美弥子もブランドのスーツを身に纏い、背筋をピンと伸ばして颯爽と歩いていた。そんな昨日までの美弥子も何の抵抗感もなく、当たり前のようにその塊の構成を成していた。
美弥子は大学卒業後の三十八年間、四谷にある中堅の建設会社で働き蜂のごとく勤勉を旨とし働き続けた。その三十八年という歳月は振り返ればあっという間ではあったが、美弥子の人生にとっては主要部分を占めていた時間だった。今の時代でも建設会社は男社会であり、ましてや美弥子の入社当時は、たとえ大学出身者であっても女の出世など皆無に等しい。それでも美弥子が経理課長代理にまで登りつめたのは、経済学部出身の知識と入社以来経理畑一筋にきたことで、経理に関しての手腕が認められたことにあるのだろう。バブルがはじけ、雨後の竹の子ごとくあった建設会社は自然淘汰され、比較的経営状態が安定していた会社でさえも他社との統合を余儀なくされた。リーマンショックの嵐が世界中を震撼させた中、美弥子が勤めていた『マトバ建設』は辛うじて生き残ったが、いくつかの支店、支所を閉鎖せざるを得なかった。それでも会社の就業規則により美弥子が六十歳の役職定年後六十二歳まで働くことが出来たし、現に美弥子も上司から延長を示唆された。しかし、この申し出を断り六十歳で退職することを決めたのは、毎月末ごとに黒字だの赤字だのとの数字に振り回され、だらけた部下を叱咤激励する。さらに、上司との軋轢に疲れ果てた日々から開放されたいとの思いから。これからの人生を旅行や趣味を生き甲斐に、のんびりと過ごすことに決めたからだ。六十歳は人生をリセットするのに決して遅くはない。
リビングダイニングからコーヒーの香りが部屋中に溢れてきた。美弥子はベランダから離れると琥珀色のダイニングテーブルの前に座り、狐色に焼けたパンにバターをたっぷりと塗った。古美術を取り扱う店先でこのテーブルと出会い、中東アラブの王家にありそうな重々しい雰囲気と光沢に一目惚れ。美弥子が予定していた値段よりかなり高額だったが、すぐに購入を決めた。それだけに二十年以上経った今でも、その風格を損なうことはない。そのテーブルの上には、パンの他にもベーコンエッグとサラダ、それに挽きたてのコーヒーが並ぶ。指についたバターをティシュで拭き取ると、すぐにテレビのスイッチを入れた。四十五インチのテレビに買い換えたときはいやに大きく感じたが、今ではリビングに違和感なく溶け込み、自分の居場所を主張し続けている。ニュースに続き、電車の運行状況や今日の天気予報が流れる。毎朝、化粧をしながら見ていた番組。ニュース、特に経済が関係する情報やそれに付随する政治問題は美弥子の仕事上での外せないチェックポイントであり、電車の運行状況や天気によって変える出勤時間の調整や洋服選びなど、朝一番の貴重な情報源となっていた。それがたった二十四時間後の朝が、昨日と今日とでは雲泥の差がある。株価に神経を尖らせる必要もない、時計を気にしながらパンをかじることもない。勿論ゆったりとした朝は今日に限ったことではなかったが。ただ、休日は日頃の寝不足を取り戻すかのように午前十時過ぎまで惰眠を貪り、昼食を兼ねて近くのカフェでブランチをする。それが美弥子の休日パターンで、よく行くカフェの店主とも顔馴染みだ。でも仕事から完全に解放されたという気持ちは、単なる休日とは似て非なる。今日から自由という時間を得たことで、例えば寝坊したとしても何の支障もない。それなのに今までは目覚まし時計に叩き起こされていた美弥子が、いつもの起床時間より早く目覚めてしまった。退職による仕事の呪縛からの解放感と共にふっと過ぎる一抹の寂しさからか、はたまた長年の生活習慣によるものなのか。テレビのアナウンサーは、総理大臣の動向や殺人事件など殺伐とした世相を話し続けている。美弥子は、それらを聞き流しながらゆっくりと食べた。朝食の後片付けが一段落したとき、スマホが着信を告げる軽快な曲を奏でた。
「美弥子かい、おはよう。もう、起きてた?」
「起きてたけれど何なの、こんなに朝早く」
電話は埼玉県川越市に住む母の章代からだった。父の博は十二年前に癌で他界し、今は兄夫婦と暮らしている。父が生きていた頃は、主婦として家事をまめにこなしていた。料理が得意で、母の手にかかるとどんな食材でも美味しい煮物になり、味も絶品だったと今でも思う。父の病気が発覚した当初はショックで落ち込んだが、一転、私がお父さんを治すと言うや亡くなるまで、それこそ寝る間も惜しんで献身的に看病した。
父の死後、それまで気丈に振舞っていたことへの反動なのか気力を失い、兄夫婦と同居すると主婦業を義姉に任せてからの隠居暮らし。今では暇を持て余しているようだ。
「何って。だって昨日で退職だって言ってたじゃないか。もう暇になったんだし、今日こっちへ来るかい?」
「暇って。それより私の退職日をよく覚えていたわね。でも、お母さんじゃあるまいし暇じゃないわよ。それに辞めたのだって昨日の今日じゃない。今まで忙しくて出来なかったことがたくさんあるんだから」
美弥子は、やや邪険な声を出した。
「そうかい、じゃあ落ち着いたらおいでね。待ってるよ」
章代は少し沈んだ声を出して電話を切った。美弥子は自分の言い方にちょっと棘があったんじゃないかと気が咎めたが、大学を出てから三十八年もの会社勤めからやっと開放された途端、又、面倒なことにかかわりたくないと咄嗟に出てしまった。章代の電話の内容は大体察しがつく。義姉の洋子への愚痴を聞いて欲しいのだ。一人で生きてきたと自負する美弥子は、仕事以上に家族間のゴタゴタはごめんこうむりたい気分だった。私は私で生きていくからと、実家のことは兄に任せたはず。そのために美弥子も妹の安居慶子も実家の家や土地を財産放棄しているし、兄も義姉もそれで納得したはずだ。美弥子は結婚こそしていないが、女三界に家なしと言われるがごとく、家を出た時点、いや兄があとを継いだ時点で実家はないものと覚悟を決めた。特別に悲壮感を持っていたわけではないが、独り身ゆえ自分で自分自身を鼓舞していたのかもしれない。今日はまず部屋の掃除をしようと張り切っていたのだが、章代からの電話で何となく気が削がれベッドに身を投げ出すと、ぼうっと白い網目模様の天井を見ていた。ふっと気付くと時計は午前十時を回っている。いつの間にか睡魔に引き込まれてしまったらしい。ベッドからだらだらと起き上がり、ふらつきながらリビングへ行った。テレビ同様デンとして存在感を主張する大きな黒革のソファに身体を投げ出すようにして座り、ソファに合わせた黒いリビングテーブルの上に置いてあった朝入れたコーヒーの残りを飲んだ。しかし、冷めたコーヒーは香りも飛んで不味い。冷めたコーヒーを飲んだせいでもないだろうが、薄ら寒い空気を感じ、部屋着の上に厚めのカーディガンを羽織った。テーブルの上に投げ出されていたスマホを手に取り、坂田のぶえに会えないかとメールを入れてみた。のぶえは高校時代の友人で卒業後は大学へ行かず、小さな卸売り会社に勤めた後、お見合い結婚した。結婚後はずっと専業主婦をしているから暇だろうと予想していた。キャリアウーマンとしてがむしゃらに働いてきた美弥子からみると、主婦業はよく言う三食昼寝付きの気楽な仕事に思える。メールは三分もしないで返信があった。やっぱり暇人だとメールを開くと、今日は孫のお守りで会えないと書いてある。後は、孫に振り回されて大変だとの愚痴ばかり。こういうとき美弥子は結婚しないで良かったとつくづく思う。美弥子のマンションは、十六畳のリビングダイニングと十畳の寝室、それに大きめクローゼットが付いているので一人暮らしには十分だ。ただ、友達が泊まりに来たときのことを考慮し、寝室にベッドを二台入れたせいか狭くなってしまった。美弥子は、のぶえに断られたので仕方なく気を取り直し、のろのろと部屋の片付けを始めた。
夕方、板橋の団地に住む慶子から電話が入った。三歳年下の慶子は、仕事よりも結婚とばかり社内恋愛の末、夫の大介と結婚した。それ以降、のぶえと同じく三食昼寝つきの専業主婦になった。
「あっ、お姉さん。昨日で仕事終わったんだって?」
「ああ、お母さんから電話があったのね」
「お母さん、よく知ってたね、昨日でお姉さんが退職したの」
「そうね。でも、今年の正月にみんなで集まったとき言ったじゃない。三月末で退職するって」
美弥子は自分が話し出すと夢中になり、人の話をあまり聞いてない慶子らしいと思いながら言った。もっとも今の時代、自分の意見や要求ばかりで人の話を聞かない人が増え、美弥子も若い部下達の言動に苛々させられることも多かった。
「そうだっけ。まあ、ご苦労様でした。ところでお母さん、また洋子姉さんと揉めたみたいよ。何でも夕食のおかずのことらしいわ。ほら、お母さん入れ歯でしょう。それなのにスペアリブが出てきて骨が邪魔でうまく食べられなかったらしいの。私は肉より魚が好きだっていつも言ってるのに、あれは私に対する嫌味だわって言うのよ。お母さんにはちゃんと煮物もあったみたいだけど、やっぱり嫁と姑問題かしら。あれじゃあ、洋子姉さんも大変だけどしょうがないわよね。その分、家が貰えたんだもの、優雅なもんだわ。私なんて今もって毎月家賃払っているんだし、家なんて夢のまた夢だわ。お姉さんは、いいよね。自分のマンションがあるし、一人暮らしで気楽だし」
美弥子はまたかと、少々うんざりしながら慶子の話を聞いていた。美弥子は三十八年間働き、この一LDKのマンションのローンを何十年もの間、払い続けたのだ。慶子は結婚し、三人の子供を育てるのにお金がかかって貯金もままならず、家も持てないとの愚痴を何度聞かされたことか。それなら結婚しなければ、子供を産まなければよかったでしょうって喉まで出かかって、美弥子は適当に相槌を打って電話を切った。この話を聞く度にのぶえの時と同様、結婚しなくて正解だったと思ってしまう。慶子との電話の後、美弥子は夕食を作るのが億劫になり、口紅を引くだけでマンションを出た。美弥子のマンションは、吉祥寺駅から徒歩十分位のところにあり、駅に向っては飲食店などが連なっている便利な場所にある。だが美弥子は駅と反対方向に歩き出した。裏通りにある美弥子の行きつけの店は、隠れ家的な雰囲気で落ち着いて食事が出来るので気に入っている。『槇』と書いてある木製の看板が掛けてある扉を開けると、少し早い時間帯のせいか客は五、六人だった。夫婦二人で経営している店なので、テーブル席が三つ、カウンターにはカウンターチェアが三つで十五人も入れば満席になる。昼は十一時から三時間、夜は五時から十時までと営業時間は短いが、初老のシェフが作るビーフシチューは何時間も煮込んだ自慢の一品だ。
「あら、いらっしゃい。美弥ちゃん今日は早いのね」
シェフの妻聡子は、にこやかに美弥子を迎えた。確か美弥子より三歳上のはずだが客商売のせいか、いつもきれいに化粧をして若々しく見える。美弥子はいつものカウンターチェアに腰掛けると、スッピンで来たことをちょっと後悔した。
「実はね、昨日で定年になったのよ。延長もできたんだけど、いい加減会社から離れたくなってね。でも、過ぎてみると三十八年なんて、あっという間ねぇ」
「じぁあ今日から優雅な生活だわねぇ、のんびりできて。今まで頑張ってきたんだから、これから楽しみじゃない。で、今日は何にする?」
「もちろん、ビーフシチューとフランスパンで。まずはジンジャーと前菜に鴨のローストのモッツレラチーズのせを頂戴」
美弥子がこの店に来るようになって十五年くらい経つ。あのマンションを買ったのが三十七歳だったから、この町に住み始めてから、かれこれ二十三年になる。そのほとんどの時間は仕事に取られていたから、ゆっくりと町を散策することが少なく、近隣の地理にも疎い。夕食も残業や付き合いなどで会社帰りに済ませることが多く、地元で美弥子が行きつけの店と言えるのは何店かに限定される。それに、近頃は年のせいか休日は部屋でごろごろしていることが多く、食事も適当にあるもので済ます。そんな美弥子にとってこの店は貴重な憩いの場だ。
「でも、何にも予定がないっていうのも何となく落ち着かないものね、たった一日しか経ってないのに。今までは休みの日でも仕事のことが頭の片隅にあったからねぇ。それが当たり前過ぎて、何も考えなくていいってことに慣れてないのね」
美弥子はジンジャーを飲みながら、朝ベランダから眺めていたときの優越感が萎んだような気がした。会社でのストレスから開放されたが、章代や慶子の電話が新たなストレスの原因になりかねない。いや、何もないことがストレスになることもある。人間はストレスを抱え込むことによって、それを発散しようとする知恵を搾り出す。多少のストレスは人間の生きることへの原動力になるのだろうか。
「あら、贅沢ねぇ。私なんか定年がないのよ、こき使われて体が動かなくなった時が定年かしら」
聡子は笑いながら夫の賢治を軽く睨んだ。
「美弥ちゃん、それは仕事依存症だよ、定年後になる。何十年も仕事一筋の男がよくかかるやつさ。これからは今まで出来なかったことを捜せばいいんじゃないの、なんたって時間はたっぷりあるし。俺は聡子が仕事依存症にならないよう、常に仕事を作ってやってるんだ。有り難く思えよ」
賢治はカウンターの中から美弥子のビーフシチューを差し出しながら言った。
「はいはい、有り難くて涙が出ちゃうわ」
「そうだろう、そうだろう」
賢治は美弥子を見て、にやっと笑った。美弥子は熱々のシチューにパンを付けながら、慶子との会話のあとは結婚を否定していたが、二人のやりとりを聞きながら結婚もいいなと思う。
夜、風呂に入ってベッドに入ったが、なかなか寝付けない。昼前にうたた寝したせいかもしれないし、狭い部屋でごろごろしていたから体が疲れていないせいか、色々な原因を考えているうちに眠ってしまった。
(予定あり)
退職してから一週間経っても、朝の六時に目が覚める習慣が身についていた。もっとも、その分夜が眠れないということはなくなったが一日の長いこと。最初の三日で一LDKの部屋はすっかり片付いてしまい、これといってすることがない。確かにのんびり暮らしたいとの願いは叶えられたが、たったの七日で時間を持て余している。のぶえは相変わらず孫の世話に追われている。なんでも近々、息子一家と同居するらしい。嫁が仕事に出ることになり、必然的に二歳の孫の子守をのぶえが見ることになったという。のぶえは、息子たちが一緒に住んでくれると素直に喜んでいたが、美弥子からみれば単に孫の世話を押し付けられたに過ぎないと思う。還暦を迎え、やっとのんびりできる老後を、孫の世話に明け暮れる人生なんて美弥子には考えられない。これでのぶえと遊びに行くことは当分なさそうだ。
美弥子と同期入社の田代淑子からスマホに電話が入ったのは、夜の九時を回った頃だった。仕事できりきりしていた美弥子と違い、包み込むようにゆったりと構えながら、一本芯の通ったしっかり者の淑子とはお互い大卒で同じ歳だから、会社の中では一番仲がよかった。美弥子が入社した時、女性で大卒の同期は淑子だけだった。他の同期の女性たちは仕事よりも結婚相手を見つけることに汲々とし、やがて寿退社を勲章に退社していった。今と違って二十六歳はお肌の曲がり角と言われた時代。それまでに結婚しなきゃ売れ残りという空気が流れていたし、三十歳ともなれば完全にお局様と呼ばれた。そんな逆境の中、美弥子と淑子は耐えて独身を貫き、還暦まで頑張った。いわば戦友にも似た堅い絆で結ばれている。ただ、総務課課長代理の淑子は役職定年後も会社に残り、六十二歳まで働く道を選んだ。
「美弥、元気ぃ。優雅な生活楽しんでる?私は忙しくて残業続きよ。ほら、新年度の計画書が回ってきて大変。私も美弥と一緒に辞めればよかったわ」
美弥子は一週間振りに聞く友の声が懐かしく、辞めてから何ヶ月も経ったような錯覚に陥る。
「元気だけど暇を持て余しているわ。最初の二、三日は部屋の片付けなんかで時間が潰せたけど、それが済んだらこれといってすることがないのよねぇ。やっぱり私も淑子のように延長すればよかったかなぁ」
淑子の声を聞いて、つい愚痴が出てしまった。
「何言ってるのよ。あれほど私が一緒に延長しようって誘ったのに、のんびり暮らしたいって言い張ったのは誰よ。贅沢よ、美弥は。還暦過ぎての毎日残業は体に堪えるんだからね。あっ、それよりね、来月の中ごろ暇?まっ、今の感じじゃ暇だわね。私、ゴールデンウィークも仕事入ったから、その後十日くらい休みを取るつもりなの。だからイタリアに行かない?」
「イタリア?」
美弥子は鸚鵡返しで答えた。
「そっ、イタリア。ほら、前にイタリアに行きたいねって話したことがあったじゃない。あの時はお互い仕事の都合がつかなかったから、おじゃんになったけれど今ならいいんじゃない。どう?」
「イタリアかぁ、うん、いいよ。なんたって暇だし。私もどっか旅行に行きたいなって思っていたから淑子に電話しようとしてたのよ。でも、たぶん年度初めは忙しいかなって思ってね」
「じぁあ、決まりね。美弥は暇なんだから、いろんな旅行会社のツアーパンフレット集めてきて。今度の休みに会って検討しようよ、どのコースするかってこと。あんまりボーっとしてボケないでよ。この際だからイタリア語でも勉強したら」
淑子は笑いながら、これからお風呂に入らなくっちゃと言って、ばたばたと電話を切った。美弥子は壁に掛かっているカレンダーに目を向けた。会社が作成したカレンダーを辞める時に貰ってきたのだが、クレーンなど建設機械の写真が上部の大部分を占め、下部に予定が書ける欄が申し訳程度に添付されている。退社してから一週間、予定欄にはゴミの収集日しか書いてない。お気に入りの藍色の手帳にも予定は三月までで、四月からの書き込みはない。しかも、三月以前の予定もほとんどが仕事絡みだったし。イタリア旅行という大きな予定が入って、明日から忙しくなるわと久し振りにわくわくしながら床についた。
次の日から美弥子は精力的に動き出した。旅行までには一ヶ月以上あるのだが、まずはパスポートの確認。最後に海外旅行へ行ったのが七年前で、やはり淑子と一緒の台湾だった。その時、十年のパスポートを取ったからまだ期限が残っているはずだと、クローゼットの棚の上に置いてある文箱を取り出した。大分くたびれた茶色の文箱を見ると、美弥子はちょっと切なくなった。もうあれから何十年経ったのだろうか。この文箱は、当時付き合っていた野田隆之がくれた物だ。別に買ってくれた物じゃなく、会社の備品発注に際し数を間違って余分に注文してしまったと言ってくれた物だ。よく考えたら余ったとはいえ会社の備品とは、せこいプレゼントだ。隆之とは七年も付き合った仲だった。二十九歳の誕生日を淑子と迎える予定だったが、淑子の急用でキャンセルになった。もっとも祝うような歳ではなかったが、何となく手持ち無沙汰の気分になった。その時、声を掛けてきたのが隆之だった。同じ会社で二歳年上だった隆之のことは、プレイボーイとして社内でも囁かれていたので知っていた。その日を境に付き合い始めた隆之とは、お互い割り切った関係だった。美弥子は二十三歳の時、初めて愛した男がいた。関連企業で働いていた男で妻子もいた。今は世間などで不倫などと公言することが珍しくないが、不倫の言葉が水面下で語られていた時代だ。美弥子が処女を捧げた男の、女房と別れるから君と結婚しようとの言葉に騙されるほど、あの頃の美弥子は初心だった。手痛い洗礼を受けた美弥子は、仕事にのめり込むことで心の平衡を保った。そんな美弥子にとって結婚抜きで付き合い、お互いの生活を尊重する隆之が理想の男性像に思えた。がっしりした体躯に似合わず甘いマスクの隆之は遊び人タイプで、家庭に束縛されず自由を謳歌する人生を望んでいたから、二人の思惑が一致したのだ。最初の何年かは、それなりに燃え上がり、セックスだけではない愛情もあった。しかし、次第にセックスも御座なりになり、倦怠期を迎えた夫婦のように義務的になっていった。お互い仕事が忙しくなったこともあるが、それを理由に会う回数も減っていき、いつしか自然消滅状態で別れた。ただ、一度だけ隆之が結婚を口にしたことがある。別れる前頃だったか。
「俺たち、このままでいいのかなぁ。俺、ふっと自分の子供を抱いてみたいって思うんだよね。年のせいかな。美弥子はどう思う、結婚する気ない?」
いつもは軽い調子で話す隆之が、まっすぐな視線を美弥子に向けた。一瞬たじろいだ美弥子だが、心の奥底にある結婚に対する拒否反応が平穏な気持ちをざわつかせた。
「やめてよ、今更結婚なんて。ましてや子供なんて考えられないわ。私、今度主任になるかもしれないのよ。課長だって夢じゃないんだから」
美弥子は一笑に付した。あれが隆之との最後のデートだったかも。
美弥子は文箱からパスポートを取り出すと、有効期限を確認した。海外旅行には何度か行ったが、ほとんど淑子と一緒だった。淑子にも内緒だが、隆之と二人でシンガポールに行ったことがある。まだ、ときめきがあるころの話だ。マーライオン公園に行ったり、ナイトサファリをトラムで回ったりと楽しい時間を過ごした。温泉など国内旅行はちょくちょく行ったが、海外はしょっちゅうというわけにはいかない。海外ともなると、それなりの日数もいるし、行く相手との相性やスケジュールの関係もある。役職についてからは、ひたすら仕事へのめり込んでいった。むしろ、時間の出来たこれからが、海外を含めてゆっくりと旅行に行くチャンスだ。
美弥子は外出着に着替えて薄化粧を済ませると、マンションから吉祥寺駅に向かって歩き出した。もともと大学などがあるので若者の多い町だが、このところ吉祥寺駅周辺はテレビなどに取り上げられることもあってか、平日でも人の往来が多い。美弥子が住み始めたころに比べ、これだけ注目を浴びたのは何といってもマスコミの力によるところがある。
縦横の道が張り巡らされた商店街を歩きながら、旅行会社を探してはイタリア旅行に関するパンフレットを集めて回った。どの旅行会社もイタリア旅行のパンフレットは似たり寄ったりだが、圧倒的に他国のパンフレットより多い。いかにイタリアが観光に力を入れているかが分かる。歩き疲れた美弥子は、遅めの昼食を取るためマンション近くまで戻り、『カフェ EYE』に入った。ここは、美弥子が勤めていたとき休日にブランチをしていた店で、定年後も何度か来た。ここも『槇』と同じような広さで、売りは何と言っても、注文のたびに豆を挽くことから始める香り高いコーヒーだ。ここでも美弥子の指定席はカウンターチェアだ。いつも一人で来るので、カウンター越しにマスターを話し相手に食べる。
「いらっしゃい、今日は何にします?」
マスターの小野田信は水の入ったコップを美弥子の前に置いた。美弥子より四、五歳くらい若い小野田は背が高く、すっきりとした顔立ちのせいか、歳よりずっと若く見える。独身らしいが自分のことはあまり話さないで、いつもお客の話を穏やかな顔で聞いている。
「そうね、いつものオープンサンドとモカで」
美弥子は集めてきた旅行のパンフレットの束をカウンターの上にどんと置いた。
「あれ、旅行に行くんですか?それにしても、ずいぶん集めてきましたねぇ」
小野田は手際よくコーヒー豆を挽き始めながら、パンフレットをチラッと見て言った。
「ええ、やっと仕事から解放されたんだもの。ちょっとイタリアに行ってこようと思って」
「イタリアかぁ、懐かしいなぁ」
一瞬、小野田の視線が宙に舞った。
「あら、マスターはイタリアに行ったことがあるの?」
「うん、ああ、昔のことだけどね。で、どこを回るの?」
「まだ、これから友達と相談するんだけど、ツアーは行くところが大体決まってるみたいだからね。マスターはイタリアのどこを回ったの?」
「随分、昔のことだからねぇ。ただ、何となくブラブラしてただけだよ」
丁度その時、若い女の子のグループが入ってきたので話は断ち切れとなり、美弥子は食べ終わると店を出た。
(旅行計画)
次の週末、淑子が美弥子のマンションにやって来た。昼食のミートスパゲティを食べ終わると、早速、美弥子が集めてきたパンフレットをテーブルの上に広げた。興味を抱かせるような観光地の写真の上に、イタリアの文字がデカデカと書いてある。どのパンフレットも観光地巡りのパターンは同じで、ツアー料金も大差ない。
「まずは、日数の問題ね。もちろん私は大丈夫だけど、淑子のほうの予定によるわ。何日休めるの?」
美弥子は、パンフレットを手に取りながら淑子に確認した。
「それがねぇ、十五日から二十二日までしか取れなかったのよ。本当は十日は休みたかったのに、部長から優雅だね、なんて嫌味言われたわ。ゴ―ルデンウィークはほとんど出るのよ。それに一旦定年したから給料だって下がったのにこき使うんだから、まったく」
「ああ、佐久間部長でしょう。あの部長ときたら若い女の子にはちやほやするくせに、おばさんには文句タラタラ。ああいうタイプは、きっと家じぁ奥さんに頭が上がらないのよ。だから、そのストレスをぶつけてくるんじゃない。大体、今の時代上司のパワハラは問題じゃないかしら。年下だからって大目に見てあげてた私たちが大人過ぎたから、きっと図に乗ったんだわ。そう考えると退職して良かったと思うわ。少なくとも、あの部長のダミ声を聞かなくて済むもの」
美弥子は、でっぷりと太った総務部長の佐久間の顔を思い浮かべた。仕事といえば拡販の一助とばかり、夜の接待に腐心していた。もっとも、この業界は時として机上の仕事以上に必要な場合も多々あるのだ。しかし、毎月末に佐久間の赤坂や銀座のクラブの領収書が回ってくるたび、思わず自分の給料の何倍かと計算したくなる。
「本当、美弥は退職して正解よ。思い起こせば私たちの若い頃は完全に男尊女卑だったわよね。大卒なんて余計目の敵にされて、ちょっと意見を言うと女の癖にって、言葉じゃ言わないけど目が言ってたわよ。あぁあ、私はあと二年我慢しなくっちゃいけないのねぇ」
美弥子と淑子は、ひとしきり会社の愚痴を言い合ってから、パンフレットに視線を戻した。
「十五日から二十二日までというと、八日間ってことよね。往復に二日取られるから四泊六日ってとこかな。帰ってすぐ仕事じゃ淑子も疲れるでしょう」
「そうね、二日余裕があると有難いわ。旅行から戻ってすぐ仕事じゃねぇ、旅行先での洗濯物なんかもあるから」
美弥子と淑子はパンフレットを一枚づつチェックしていった。お互い退職金を貰ったとはいえ、独身の自分たちには、いやでも老後の二文字が脳裏を掠める。旅行代金は季節がいいだけに割高だ。それに昔は無かった燃油サーチャージが掛かってくる。
「でも、海外旅行ってそうたびたびに行くわけじゃないし、せめてホテルくらいグレードアップしない、これどう?」
美弥子はフラワー旅行のパンフレットを摘み上げ、淑子に渡した。
「フィレンツェに二泊、それからバスでローマに行って二泊よ。食事も殆ど付いてるから面倒くさくないでしょう。これにポンペイ観光のオプションを付ければいいんじゃない。ミラノやベニスにも行きたいけど各地に一泊となると、移動に時間を取られるじゃない。二泊なら少しはゆっくりできるし。イタリアが気に入れば、また行けばいいんだから」
「そうね、これでいいわ。三万円追加すればリッチなホテルに泊まれるし」
パンフレットをチェックしていた淑子は美弥子に頷いた。
「淑子もパスポート十年だよね。ほら、前に台湾行ったとき二人共ちょうど期限が切れてたから一緒に取ったんだよね。よく考えると台湾に行ってから、もう七年も経ったんだね。海外旅行も久し振りってことよ。台湾なんて、ついこの間行ったような気がするわ。ああ、やだなぁ、時間があっという間に過ぎてくみたいで。まっ、旅行プランも決まったことだし、ちょっと休もうよ、淑子が持ってきてくれたケーキもあるからね。私コーヒー入れるから、淑子はケーキをお皿に移しておいて」
美弥子は、ケーキ皿とフォークを淑子に手渡すと、コーヒーを入れにキッチンへ立った。淑子が買ってきたケーキは、美弥子の大好きなミルフィーユだ。モカコーヒーとケーキでお茶しながら、話題は美弥子が辞めてから半月あまりの社内情報だ。その後、淑子が不意に美弥子の顔を覗き込むようにして話し出した。
「野田隆之さんのこと、噂だからはっきりしないけど離婚したみたいよ。ほら、五十八歳のとき子会社に出向したでしょう。そのあと別居していたみたい。知ってた?」
美弥子は急に隆之の話が出てきて、一瞬たじろいだ。別れて二十年以上も経った男のことに今更何の感慨もないはずだが。隆之のことはもちろん淑子に話していたことだし、秘密裏に付き合っていたとはいえ、七年も続いていれば社内でも陰で噂になっていたかも知れない。それこそ知らぬは当人たちだけってこともありうる。
「いいえ、彼が結婚してから社内で会っても個人的に話すことはなかったし、それこそ出向してからは、殆んど顔を合わせることすらなかったわ。でも、本当なの、離婚したの」
「野田さんは、子会社だったから定年は六十二歳でしょう。だから奥さんは別居をしてたけど、退職金が入るのを待ってたんじゃないかしら。ほら、よく聞く定年離婚じゃない。夫婦って何十年連れ添っても、別れるときは呆気ないのね。最後は、お金ってことよ。私たち独身は老後寂しいかなって思っていたけど、別れりゃ同じことよね」
「でも、彼って子供がいたわよね。確か息子さんが一人」
美弥子は隆之と別れたときのことを思い出していた。隆之は自分の子供が欲しい、家庭が欲しいと言っていた。その通りになったはずだった。ただ、家庭は失っても子供はいる。美弥子は、あの時隆之と結婚していたら、子供を産んでいたらと思うこともあったが、あの時の判断は自分に正直だったはず、後悔はしていない。
「そうね、大学生くらいじゃない。美弥と別れたあとだから、子供も遅かっただろうし。やっぱり気になる?」
「まあね。でも、もう関係ない人だから。それよりイタリア旅行については、さっき決めたツアーでいいのよね。私、明日にでもフラワー旅行に行って申し込んで来るわ。細かいことは、申込書が来てからの話ね」
美弥子は、意図的に話題を外したわけではないが、やはり隆之の名前に反応してしまう。
「そうね。それより、イタリアはスリには気をつけろってよく言われるけど本当みたい。経理の吉村さんが一月に行ったとき、ローマでバックを切られて、もう少しで財布を抜き取られるところだったらしいわ。ほら、一月はコンドッティ通りのブランド店でバーゲンセールをやってるでしょう。夜、行ったら凄い人だったみたい。私はブランドに興味がないけど」
「ブランドかぁ、私は働いていたときは、結構ブランドの服やバックや財布も買ったけど、やはり家にいると持って歩く場所もないから、だんだん見なくなるわねぇ」
「やだわ、美弥ったら。まだ、辞めて半月じゃない。それに引きこもる歳じゃないわよ」
「そうだけど。今まで時間に追われるような生活をしてきたでしょう。急に暇になって、やっぱり仕事依存症かしら」
「なあに、仕事依存症って?」
「別に、正式な病名じぁないと思うけどね。よく行く店のマスターに言われたの。定年後に何もすることが無くなって無気力になった人が陥りやすいんじゃないかって。だから、暫くしたら何かしようと思ってるんだけど」
美弥子は、あの時聡子が漏らした定年が無いから大変ということが、結婚と共に少しだけ羨ましく感じたのを思い出した。隆之の話題が出たせいかもしれない。
「そうねぇ、私も二年後には定年だし、今から考えておかなくっちゃ。まあ、まずはイタリア旅行を楽しもうよ」
「そうね。せっかく行くんだから、しっかり見てこようね。百聞は一見にしかずなんだから。よく、考えたら台湾に行ったのが七年前でしょう。その前に行ったスペインなんて何年前だっけ」
「二十三年くらい前になるんじゃない。美弥がこのマンションを買った頃だったわ」
「そうね。隆之と別れてから一人で生きていこうって決心したあと、マンションを買ったんだわ」
美弥子は、あの頃の自分を思い出していた。仕事に邁進していた美弥子は隆之との別れに悲壮感はなく、人生の一ページに過ぎなかった。独身を通す強い意志はなかったけれど、他の男に心惹かれることもなかった。
「でも美弥、野田さんとの別れがこのマンションを買うきっかけになったんだし、今考えるとマンションを買っといてよかったよね。私なんて賃貸マンションでしょう。定年後、家賃のことを考えるとどうしようってね」
「私、今でも不思議なんだけど淑子はどうして結婚しなかったの、私より美人なのに。若い頃から社内でも注目の的だったじゃない」
美弥子は言葉に出してみると、淑子のことを余り知らないような気がした。二十二歳のときから付き合い、美弥子は最初の男のことも、隆之とのことも淑子にはすべて話してきた。しかし、淑子から男の話を聞いたことはない。考えてみると四十年近く、一度も男と付き合ったことがないとは思えない。今まで美弥子と淑子の間で男の話題といえば、美弥子の悩みを一方的に淑子が聞いてくれていたような気がする。その都度、淑子は真剣に耳を傾けてくれたが、そのことに関して自分の意見を言うことはなかった。美弥子も、ただ淑子に話すことだけで気持ちが安らいだ。
「縁よ、男と女は。どうしょうもないものよね」
淑子は笑いながら再びパンフレットを手に取った。
(帰国後)
申し込みから荷物のチェック、出国までの慌しい楽しみは長く、イタリア旅行の一週間は、あっという間に終わってしまった。ツアーに組み込まれた予定に追い立てられながら世界遺産などを見て回った。フィレンツェのドゥオモにベッキオ橋、ローマの定番トレビの泉、コロッセオそしてオプションを付けたポンペイ観光等々。食事もイカスミパスタやマルゲリータピザ、特に生ハムは日本の薄切りと違い食べ応えのある厚さだ。
帰国後一週間位してから、美弥子はイタリア土産を抱えて、久し振りに兄の家へ行った。西武新宿線の南大塚駅が子供の頃の単線木造の駅舎から鉄筋のお洒落な駅舎へと変貌を遂げたのはいつ頃だっただろう。昔の記憶が薄れるほど駅周辺は様変わりした。マンションが一棟建つとそれに連動するように、いつの間にか増えていく。ただ、農家が踏ん張って畑を維持している所もある。取れたて野菜を小屋に並べる無人販売があり、お金を入れる箱が置いてあるところを見ると、東京では考えられない風景にほっとする。その駅から歩いて十分ほどの所に兄の家がある。兄たちが同居するのを機に建て替えたのでまだ新しい。自分の育った家の記憶はリセットされている。もっとも、この家を出たときに美弥子は思い出も連れて出た。
「お義姉さん、こんにちは、お邪魔します」
美弥子は玄関に入ると、まずは義姉の洋子に声を掛けた。ただいまと言って、ずかずかと家に入って行けたのは、いつ頃までだったのだろうか。父親が元気でいた時まで、ここは実家だった。だが、父親が亡くなり、家の主の座が兄に代わったときから、ここは兄の家になった。財産放棄の一筆は実家を手放すことへの約束手形のような感じだったが、気楽な一人暮らしが身に付いていた美弥子は、親のことを含め親類縁者からのしがらみから開放されたような気分だった。ただ、美弥子はマンションを買うまで、いや兄の家になるまで、たまにではあったが実家に帰ってきた、ただいまと言いながら。
「いらっしゃい、久し振りねぇ、お正月以来かしら。どうぞ奥に入って」
洋子は笑顔で美弥子を迎えると座敷の方へ通した。美弥子が部屋に入ると心待ちしていたような表情で章代が顔を上げた。
「待ってたよ、元気だったかい?」
「ええ」
美弥子は章代に軽く答えてから仏壇の前に座るとお線香をあげ、イタリア土産のクッキーを供えた。
「お母さんこそ元気だった?来ようと思ってたけど色々忙しくてね。働いていた時は、なかなか手に付かなかった片付け物があってね、やっと一段落したわ」
美弥子は言い訳がましく言いながら、八十七歳になる章代に向き合って座った。白髪が大分薄くなり、会うたび小さくなっていく母を見るのは娘としても忍びない。子供が還暦を迎える歳になれば、おのずと親も老境に入っている。いや美弥子自身も老境に一歩踏み出したようなものだ。
「私は元気と言っても、もう歳なんだからしょうがないよ。後は、お迎えを待つばかりだよ。それより美弥子はずっと働いてきたんだから体は大丈夫かい。無理しないでゆっくりしたほうがいいよ。ところで旅行は楽しかったかい?」
親はいくつになっても子供の心配をするものだ。苦笑しながら子供を産んでいない美弥子には分からない感情だろうかと、思い量るしかない。
「いやだわ、お迎えを待つだなんて。イタリアはとってもよかったわよ。お母さんが、もう少し若ければ一緒に海外旅行に行けたのにね」
「私は海外より日本の温泉のほうがいいよ。お父さんも温泉が好きだったからねぇ。草津温泉には何度も連れて行ってくれたんだよ。あの頃はよかったねぇ、お父さんも私も若かったし、元気だったからねぇ」
章代が仏壇のほうを振り返り、じっと夫の写真を見つめていると、洋子がチラシ寿司の皿を乗せたお盆を持って部屋に入ってきた。美弥子はあわててお盆を受け取ると、座卓に並べた。
「お姉さん、すみません、気を使わせてしまって」
「あら、大したことないのよ。切って混ぜただけだから」
洋子は笑いながら言った。今日は平日なので兄の俊雄は仕事だった。市役所に勤めていた俊雄は六十歳で定年になり、その後公民館で嘱託として働いている。
美弥子は、章代と洋子にカメオのブローチとペンダントを、本好きの俊雄には皮のブックカバーを、二人の甥っ子は結婚して家を出て、それぞれ子供もいるのでチョコレートとパスタとパスタソースのセットを渡した。それから三人で食後のお茶を飲みながら、美弥子は章代と洋子にイタリア旅行のことを掻い摘んで話して聞かせた。
「美弥子さん、今日はゆっくりできるんでしょう。夕食を食べてってね。俊雄さんも六時には戻って来ると思うわ。美弥子さんが来るのを知ってるから」
「いえ、気を使わないでね。お昼もご馳走になったし、少ししたら失礼するわ」
「あら、俊雄さんも会うのを楽しみにしてるのよ、いいでしょう。そうだわ、たまには息子たち一家も呼ぶわ。お土産もいただいたことだから。孫たちで、ちょっとうるさいけど。私、これから買い物に行って来るから、お母さんとゆっくり話でもしてて」
洋子が車で買い物に出かけると、座敷には章代と美弥子が残された。美弥子は土産を置いたら、さっさと帰ろうと思っていた。お客様然とした家は他人の家より気詰まりだった。
「私の部屋で話そうか。そのほうが落ち着くからね」
章代は六畳の自分の部屋に行くと、ベッドに腰掛けた。美弥子も隣に腰を下ろした。以前は大分くたびれていた木造の家で、両親の部屋は十畳の和室だったが、お洒落な洋風の家に建て替えられてから章代の部屋は洋室になった。歳を取った章代には毎夜布団を敷くより、いつでも横になれるベッドのほうが楽だろう。ただ、和室の部屋には壁や天井などそこかしこに父親との時間が沁み込んでいた。しかし、時間の流れは誰も止められない。
「体の調子はどう?この前、お義姉さんと揉めたの?おかずのことで」
「ああ、慶子に電話したことかい。揉めたっていうほどのことじゃないんだよ、洋子さんには何も言わなかったしね。ただ、あの時は誰かに愚痴を言いたかっただけだよ。一緒に住んでりゃ、いろんなことがあるからね。それに私だって、もう八十七だからね。持病というほどのことじゃないけれど、あちこちガタがきてるんだよ、体も心もね。それに夜も眠れないから睡眠薬を貰っているからね。美弥子は、まだ六十だろう」
「やあねぇ、まだ、じゃあなくてもうよ」
美弥子は還暦を迎えた娘を捕まえて、まだという言い回しが少し可笑しかった。章代は、突然自分の手を美弥子の手に重ねるように置いた。
「ほら、見てごらん。手がこんなに皺だらけになっちゃって。私だって六十の頃は、まだ美弥子のように、つるつるしてたんだよ。足だってまだしっかりしてたし、頭だってね。でも、いつ頃からだろうねぇ、朝起きて、夜になったら寝て、気が付いたらこんなになってたんだよ。まあ、誰でもそうだろうけど、自分がなってみなくっちゃ分からないんだろうねぇ。私だって美弥子くらいの時、母親が年寄りくさくて、もたもたしてるのを見てるとやだねぇと思っていたんだよ。他の年寄りを見てもそうではないけど、自分の親が年取っていくのを見るのは何となく嫌だった。どうしてなんだろうねぇ、親が老いていくのが寂しかったのかも知れない。親はいつまでも親らしくしていて欲しかったのかも。きっと、親の方でも老いてく自分に不甲斐なさを感じていたのかもしれないねぇ。いざ自分がそうなって、初めてあの頃の親の気持ちがよく分かるんだよ。こうやって段々と衰えて、やがて死んでいく自分の姿を考えると怖くなることがね。勿論いつかは死ぬんだし、この歳まで生きてこれたのが有難いことだけど、ふっと思うとねぇ。だから睡眠薬なしでは寝れなくなったのかも知れないよ」
美弥子は章代の手と自分の手を比べてみた。そういえば、いつから母の手がこんなに皺だらけになったんだろう。美弥子がこの家を出て自分の生活に追われ始めてから、家族への関心が薄れていったのか。今思えば、父が入院してから死ぬまでの一年間、仕事に託けて何度かしか見舞いに行かなかった。母もまだ元気だったし、何と言っても兄たちが面倒をみるのは当たり前だろう、実家を継ぐのは決まっていたんだからと思っていた。そうやって実家から遠ざかっている時間が、章代の手を皺だらけにしていたのだ。
「ねぇ、今度一緒に温泉でも行かない?慶子も誘って。ほら、お父さんとの思い出の草津温泉でも」
「でも、歩くのも杖ついてよたよたしてるんだから迷惑かけるよ」
「大丈夫よ、慶子と二人いるから。それに上越新幹線で行けばあっという間よ。駅からタクシーで行けばいいんだから。明日にでも慶子と相談してみるわ。お母さんはいいんでしょう?」
「本当にいいのかい、じぁ楽しみにしてるよ」
美弥子は急に章代と旅行へ行きたくなった。親孝行というのではなく、美弥子自身家族を取り戻したくなったのかもしれない。仕事を離れ、いかに自分の生活が仕事に支配されてきたかを実感しつつあった。そして、その間に親や兄や妹との距離が遠くなり、自分一人がポツンと取り残された気分だった。
その夜は、兄夫婦と息子たち夫婦と孫三人の総勢十一人で、とても賑やかな夕食になり、美弥子も久し振りに家庭を味わった。
(妹の家庭)
次の日、美弥子は早速慶子に電話を入れた。章代の嬉しそうな顔を思い浮かべると、一日も早く温泉に連れて行こうと思ったのだ。それに章代の年齢を考えても、ゆっくり計画を立ててから等の時間はあまりなさそうである。美弥子は兄の家に行ったこと、章代を温泉に連れて行くことなどを手短に話した。
「旅行代は私が出すから心配しないで。贅沢は出来ないけど温泉に浸かって来るくらいなら大丈夫よ」
美弥子は慶子のことだから、お金のことを持ち出すと見越して話した。美弥子もこれから先、一人で暮らして行くことに経済的な不安がある。ただ、家族がいない分、自分一人の生活だけを考えればいい。
「私も行きたいのは山々だけど、我が家は今それどころじゃないのよ」
慶子はいつになく湿った声を出した。
「どうしたの、何かあった?」
「電話じゃ言えないのよ。ねぇ、これからそっちに行ってもいい?相談したいことがあるの」
美弥子は別に断る理由もなく了解した。いつもはのんびりとした慶子の口調が緊迫感を伴って暗い。美弥子はあれこれ考えても仕方のないことだと思い、コーヒーの支度をしながら慶子が来るのを待った。慶子はよっぽど急いで来たのか、息を切らすように入って来た。まず美弥子は慶子を落ち着かせようとコーヒーを出し、イタリアで買ってきたクッキーも添えた。
「で、何があったの?大介さんと喧嘩でもしたの?」
慶子はコーヒーを一口飲んで少し落ち着いたのか、ゆっくりと話し出した。
「実はねぇ、和夫が結婚したいって言い出したのよ」
「えっ、だって和君はまだ大学生じゃないの?」
「そうよ、大学二年。信じられないでしょう?最初に和夫が言い出した時は、私だってパパだって言葉も出なかったわよ。一瞬、何言ってるのか理解出来ないくらい」
慶子は、その時の衝撃がまたきたかのように視線を下に落とし黙った。美弥子も予想外の事で咄嗟に言葉が出てこない。やっと気を取り直して聞き返した。
「それで相手の人は、どんな女性なの?」
「話を聞いたのが昨日だし、相手云々よりショックで寝込んじゃったわ。パパは冗談じゃない出ていけって怒鳴るし、和夫も大学なんて辞めてやるって言って部屋に閉じこもっているし。どうしていいか分からないのよ。ねぇ、どうしたらいいと思う?」
慶子は答えを求める生徒のように、美弥子の口元を見つめている。
「まずは、家族みんなが冷静になることじゃない。少し時間を置いてから話し合ってみたら。時間をかければ和君だって落ち着くんじゃないの」
美弥子は、この問題のキーワードは時間だと思った。人間パニックに陥ったときは、まずは一呼吸置いて冷静に対処することだ。仕事で問題が発生した時は右往左往してもいい解決策は生まれない。
「それが、そんな悠長に構えていられないのよ。お腹だって、どんどん大きくなってくるし」
「お腹がって。それって妊娠してるってこと」
美弥子は妊娠の二文字が脳裏を駆け巡り、一瞬言葉が詰まった。
「そうよ、あれっ最初に言わなかったっけ」
美弥子は相変わらず自分のことしか頭になく、相手へ伝える術を省いている慶子に、これじゃあ冷静に話し合うどころじゃないわねと思った。ましてや妊娠ともなると、時間をかけてと言う訳にはいきそうもない。
「ねぇ、お姉さん、和夫に聞いてくれない?どうするのか、相手は誰なのかってこと。今朝、パンやコーヒーを自分の部屋に持ち込んで何にも話さないし、パパは憮然とした顔で会社に行っちゃったし。私、どうしていいのか分からないわ」
美弥子は慶子に電話したことを少し後悔していた、温泉くらい章代と二人で行けばよかったと。これからは仕事のストレスから開放され、のんびり暮らす予定だった。ましてや、家族間のゴタゴタは今までも、そしてこれからもノータッチでいこうと思っていたのに、初っ端から嫌な予感がする。
「そんなこと言ったって、私は和君ともしばらく会っていないし、母親のあなたに言わないのなら、私に言うはずないじゃない」
美弥子は、ひょろりとした和夫の頼りなさげな顔を思い浮かべた。
「でも、お姉さんなら冷静に和夫の話を聞けるでしょう。朋香や優華の結婚なら大喜びなんだけど。朋香は二十九だし、優華だって二十七になったのよ。今の時代は全体に晩婚だと言われているけど、このまま行かず後家なんてことになったら大変だって思ってたのよ。依りによって二十の和夫から結婚の言葉が出るなんて思ってもみなかったわ」
慶子は一気に捲くし立ててから気がついたように、バツの悪そうな顔をした。
「あっ、ごめんなさい。行かず後家ってお姉さんのことを言ったんじゃないのよ。ただ、朋香や優華の結婚ならよかったのにって思ってね」
美弥子は今更、慶子の失言に怒る気もない。独身を通すことを決めたのは自分自身だから後悔はしていない。むしろ、慶子の家庭のゴタゴタを聞くにつけ、独身で良かったと心から思った。慶子は帰ったら和夫から美弥子に電話させるから話だけでも聞いてくれと、やや強引に言い残して帰って行った。
その問題の和夫から電話が入ったのは、その日風呂から上がって麦茶を飲んでいた九時過ぎだった。和夫の声を聞くのは久し振りだ。
「美弥ちゃん、お母さん今日そっちに行ったんだって。僕のことボロクソに言ってたでしょう?昨日から家中真っ暗なんだ」
和夫は他人事のように話している。今風の若者なのか分からないが、父親になる覚悟など微塵も感じられない。いかにも末っ子らしい甘ったれた男である。妊娠を盾にしている相手の女に騙されたのではないのか、本当に和夫の子供なのかと疑いたくなるような騙され易いタイプの男である。上の二人と歳が離れ、さらにやっと授かった男の子ということで慶子夫婦は甘やかして育てたようだ。その分、人を押しのけるような性格ではなく、おっとりとしてやさしい。ただ美弥子は、おっとりもやさしいも社会に出れば優柔不断な男と取られかねないと危惧している。甥や姪が美弥子のこと美弥ちゃんと呼ぶのは、別に美弥子が言わせているわけではなく、独身のせいか歳より若く見えるのと、働いていたせいか話題が親より社会性に富んでいるのかもしれない。
「それより相手の人が妊娠してるのって本当なの?」
「うん、この前、彼女が病院に行って来たら三ヶ月って言われたんだって。どうしても産みたいって言うし、俺だって下ろせなんて言えないよ。美弥ちゃんだってそう思うでしょう」
美弥子は、同意を求められても迂闊に賛成とは言えない。
「そうね、でも、子供が出来るってことは親になるってことでしょう。私は子供どころか結婚もしてないから偉そうに言えないけど、親になるって大変なことよ。子供の人生の出発点に責任を持たなくっちゃいけないのよ。親になる覚悟はできてるの?」
「急に親になる覚悟って言われてもなぁ。美弥ちゃんは反対なの?」
「今更、反対も賛成もないけど。だって実際に子供が出来たのは本当のことなんだし、このまま時が経てば産まれてくるのは事実だからね。ところで相手の人は何て言ってるの、結婚や出産に関して」
「彼女、佐伯絵里っていって十八で俺より二つ年下なんだ。絵里は高校を中退して新宿の喫茶店でウェイトレスをして働いているんだけど、歳の割にはしっかりしてて結婚が駄目でも一人で産むって言い張ってる。お母さんは高校中退してるのが気に食わないらしいんだ。新宿あたりでふらふらしている女が、あなたみたいに世間知らずの男を騙して妊娠を武器に結婚を迫る性悪女だなんて思っているみたいだよ」
「そんなことないわよ。慶子は仕事や学校で人を蔑視するような子じゃないと思うけど、和君に近づく女は、どんな女性でも性悪女になっちゃうのかもね。慶子達は兎も角、和君はどうするつもりなの?」
「どっちみち働くしかないし、大学だって辞めるしかないしね。男としての責任があるから絵里と結婚しなくっちゃならないからね」
美弥子は話を聞きながら勤めていた頃の若い部下達を思い出していた。仕事で問題が起こると必ず「しょうがないですよね」と、和夫と同じように他人事のような言い訳をする。問題が起こった原因を究明し、それに対処しようという気概が欠けている。原因を把握出来なければ、再び同じことが繰り返されるということに思い至らない。和夫の言葉には「しょうがないですよね」という捨て鉢的な響きがある。これを聞いた途端、美弥子の中に部下達を怒鳴った頃の憤懣やるかたない気持ちが沸々とわいてきた。慶子の家庭のゴタゴタに首を突っ込むつもりは毛頭なかったが、和夫の軟弱さにイライラしてきた。それと共に一人でも産むと言い放った佐伯絵里に会って見たくなった。案外、和夫には勿体無いような女性かもしれない。
「和君、絵里さんの働いている喫茶店ってどこ?」
「美弥ちゃん、絵里に会ってくれるの?俺、紹介するから」
「私は和君の親じゃないんだから、紹介されても困るわ。ただ、陰から働いているところを見るだけよ。だから私一人で行くからね」
「分かったよ。でも、美弥ちゃんが応援してくれたら心強いな。場所はすぐにメールするから、よろしくお願いします」
和夫との電話が終わってから、美弥子は厄介なことに首を突っ込んだことをちょっと後悔したが、彼女に会おうと自分から言い出したことだからしょうがない。それより、章代との温泉行きに慶子を誘うのは当分難しそうだ。しかし、あんなに嬉しそうにしていた章代の顔を思い浮かべると延期してくれとは言い難い。章代との温泉旅行と和夫の彼女に会うことを思うと、一人でのんびり過ごす時間は先になりそうだった。
(和夫の彼女)
昨夜、和夫から絵里の働く喫茶店の名前と場所がメールで送られて来た。差し当たりこれといって急ぐ用事はない。翌日、美弥子は外出着に着替えると新宿へ出かけた。絵里の働く『ポポロン』という喫茶店は、新宿三丁目の交差点の傍にあった。若い女の子が新宿で働く店は、もっとお洒落かと思ったが意外に古く小さい店だ。自動ドアが開いた途端、「いらっしゃいませ」という元気な声で出迎えられた。マスターらしき中年の男がカウンターの中におり、若い女の子が一人いるだけ。私服のせいかウェイトレスというよりバイトの女の子という感じだ。無愛想なウェイトレスも結構いるが、絵里の第一印象は美弥子に明るく感じのいい子と映った。ただ、茶髪で化粧もいくぶん濃い目だ。今時の女の子ならこんな感じかもしれないが、慶子にしたら派手で男を騙す性悪女と写るかもしれない。客は男二人が入り口近くのテーブルで話し込んでいるだけである。美弥子が奥のテーブルに腰を下ろすと絵里が水を運んできた。美弥子はモカコーヒーを注文した後、注意深く絵里の動きを見ていた。もちろんお腹は出ていないが、何となく腰のあたりに目がいってしまう。美弥子はモカコーヒーを飲みながら、これからどうしたものかと考えた。今日はどんな子か見に来ただけだし、親でもないから結婚や出産などについて口出しすることでもない。しかし、美弥子の後から入って来た客に明るく応対する絵里を見ていると、どんな子か話しをしてみたくなり、ついついお節介を焼く気になった。相次いで客が出て行くと、美弥子は暇そうに外を眺めている絵里に手招きをした。絵里は水のお代わりかと水差しを持ってきた。
「あなた、佐伯絵里さん?」
美弥子が言うと絵里は一瞬驚いたように目を見開き、警戒心を込めたような視線を寄越した。
「はい。でも、お客さんはどうして私のことを?」
「あなたの付き合っている安居和夫は私の甥なのよ」
絵里は一瞬固まったように美弥子を見た。どう反応したらいいか混乱しているようだ。辛うじて相手の言うことを理解したように小さい声を出した。
「あのう、じぁあ、私がここで働いているのをカズから聞いて来たんですか?」
「ええ、出来れば少しお話したいけど、お仕事は何時までなの?」
「二交代なので、今日は四時までです」
「そう」
美弥子は腕時計を見ると十一時近い。あとゆうに五時間くらいある。お昼を食べて、ウインドショッピングで時間を潰してもいいし、大分時間があるから一旦帰って改めて出てきてもいい。
「東口のロータリー前に横田ビルがあって、七階に『千倉』っていう和食の店があるの。そこで、食事をしながら話さない?早めの夕食でも。時間は五時でどう?」
「わかりました」
絵里は緊張した面持ちを崩さず頷いた。
「では、その時にね。ああ、笠原で予約しておくから」
美弥子は軽く微笑んでから店を出た。
絵里は急に現れた恋人の叔母という人が何の用なのか、カズ曰く、両親は自分との結婚に反対しているらしい。確かに、大学生の息子が結婚を言い出し、まして妊娠などを口に出せば親としての反応は火を見るよりも明らかだ。絵里は、その日の午後は仕事が手に付かず、客の注文を間違えてしまった。マスターは女性客と絵里の間で何かあったかと見て取り、早退するように気遣ってくれたが絵里は最後まで仕事をこなした。一方、美弥子は昼食を新宿駅構内で済ませ、一旦マンションに戻った。絵里に話をと言ってみたものの、これといって解決策が浮かんでいる訳ではないし、現実問題子供が産まれるからには、反対する選択肢はないように思われた。後は、どういうかたちで生活をしていくのかということだろうが、それは慶子達と和夫達が決めることだ。改めて新宿に出たのは四時半過ぎだった。東口のすぐ前なので、店には五時十五分前に着いた。店内に入ると絵里が先に来ていた。予約の時に個室を頼んでいたので、三畳ほどの和室に通された。畳敷きだが掘りコタツ形式になっており、椅子のように座るので足は楽である。会席料理を注文し、飲み物は未成年なのでウーロン茶にした。まずはウーロン茶で軽く乾杯する。
「今日は疲れているところを強引にお誘いしてごめんなさいね。本当はあなたを一目見てみたくて行ったの。私は親じゃないし、あなた達のことに口を挟む気は無かったけど、あなたが結婚出来なくても一人で子供を産むって聞いて、どんな女性かと話をしてみたくなったのよ。それにあなたのご両親はどのようにおっしゃってるのかと思ってね」
絵里は、ウーロン茶で口を湿らせるように一口飲んでから、意を決したように話し始めた。
「私の父は二年前に癌で死んだんです。兄弟もいないし、文字通り母一人子一人になって。父の医療費に貯金も使い果たし、私は高校を辞めて母と二人伯父を頼って長野から東京に出て来たんです。暫く伯父の家に身を寄せてアパートを探し、一ヶ月くらいでアパートへ移ったんです。もともと体の弱かった母だし、これといった資格も経験もない私達に仕事の選択肢はなく母は清掃の仕事をやり、私は今の喫茶店に勤め始めたんです。でも、一年前に母が心筋梗塞であっという間に死んでしまって。父の看病で疲れていたところに、慣れない仕事が堪えたみたいで」
ここまで、一気に話していた絵里の目が薄っすらと涙に濡れた。父母のことを話す内、今まで押し殺してきた悲しみが心に甦ってきたのだろう。二年の間に相次いで両親を亡くした絵里の心情には余りある。美弥子は絵里の気持ちが落ち着くのを待った。
「そうだったの。大変だったのね。で、今はそのアパートに一人で住んでるの?」
美弥子は十八歳の娘の苦労を思うと、何と和夫が甘やかされて育ってきたか。しかし、それは別に和夫のせいではない。人には、それぞれ良くも悪くも背負うものがある。何もなく人生を終わる人はいない。
「はい。伯父が都営住宅を申し込んでくれて、母子二人ということで早く入れたんです。今度出たら、いつ抽選に当たるか分かりませんから」
「そう。でも家賃払って生活は大丈夫なの?」
「はい。収入が少ない分、家賃もそれなりの額ですから」
「でも、偉いのねぇ。女の子一人東京で生活するのは大変なのに」
ここで、会席料理が運ばれてきた。若い子には肉料理が良かったかと思ったが、美弥子の方がサッパリとした和食を好むようになってきた。座卓の上に一通り料理が並んだ。料亭のように一つ一つ運んでくるわけではない。また、そのほうが落ち着く。少し話を中断して食べることに専念した。折角の熱いおかずが冷めては美味しくない。食事が一段落してから美弥子は話し始めた。
「さっきも言ったけど、私は和夫の親じゃないからあなた達のことに関して、どうこう言うつもりはないけど、ちょっと聞きたかったのよ。あなたは一人でも子供を産むって言ったのは何故?和夫が頼りないから?」
「カズはまだ大学生だし、ご両親が反対してるのは聞いてますから。でも、私は家族が欲しいんです。伯父夫婦は何かと気遣ってくれるので嬉しいんですが、やはり両親が死んでから自分は一人ぼっちなんだって感じるんです。伯父達には子供もいて孫までいます。何かそういう家族の輪に入れない疎外感があるんです。やはり親がいて、子供がいて、孫やひ孫など縦の繋がりが家族なのかなぁって思うんです」
美弥子は絵里の話を聞きながら自分のことを考えた。母親はいるが子供はいない。私の家族は私の代でぷっつりと切れる。確かに慶子は妹だが、慶子には夫がいて子供達がいて、孫ももうすぐ出来る。絵里のいう縦の家族がいる。その中に美弥子が入る隙はない。そう思うと、絵里が家族を欲しがる気持ちもよく分かる。絵里は早くに両親を亡くし、兄弟姉妹もいないから家庭に対して渇望しているのだろう。
「私は絵里さんの話を聞いて和君には勿体無いくらいのお嫁さんだと思うわ。でも、一人で産むなんて言わないで。産まれてくる赤ちゃんは絶対に両親が揃っていたほうがいいに決まってるわ。勿論、そうしたくても出来ない子供もいるけど、あなた達さえ頑張れば親子三人で家庭を築いていけるんだから。私から妹の方に早急に動くように言っておくわ。絵里さんは心配しないで体を大切にしてね、立ち仕事だから大変だろうけど」
美弥子は何かあったら相談に乗るからと、絵里とスマホの番号を交換して別れた。美弥子はマンションに戻るとすぐに慶子へ電話を入れた。お腹の子供のことを考えれば悠長に話を延ばしている場合ではない。美弥子はさっきまで話していた絵里のことを慶子に聞かせた。高校中退の理由や家族を欲しがる絵里の気持ちを代弁した。
「分かったでしょう。早急に絵里さんを呼んで、和君とあなた達で話し合いなさいよ。お腹が大きくなったら働くのも大変でしょう。もっとも、その辛さは経験者のあなたの方が良く分かるでしょうが。あなた達の初孫を産んでくれる女性なのよ、大事にしないと」
慶子は黙って美弥子の話を聞いていた。二十歳の息子から結婚や妊娠のことを聞かされ、息子のことにしか頭が回らなくなっていた自分達に、相手の女性を思い至る余裕がなかった。
「ええ、お父さんと話して、すぐにでも絵里さんを呼ぶことにするわ。その時は、お姉さんも来てくれる?」
「何言ってるの。あなたの家のことでしょう。家族で決めることよ」
美弥子は電話を切ってから絵里の話していた家族のことを考えていた。確かに、慶子の家庭に入っても絵里のいう疎外感はあるかもしれない。同じ両親から産まれても枝分かれし、それぞれの家族を形成していく。それが自立であり、その家系図を繋げて歴史という大きな流れを作っていく。今、個人主義になり結婚もしない、子供も作らない美弥子みたいな生き方をする人達が増えている。それを否定も肯定もしないが、家族がいない寂しさは歳を追うごとに募っていくかもしれない。美弥子はなるべく早く章代との二人旅を実行しようと思った。章代が美弥子の唯一の家族のような気がして。
(夏の日)
朝からじりじりとした日差しが、ベランダに置かれた花々を容赦なく焼き尽くしている。天気予報によると、今年の夏は記録的な猛暑になると伝えているが、ここ数年記録的が更新されている。美弥子はクーラーの効いた部屋でアイスコーヒーを飲みながら、新聞を隅から隅まで丁寧に読んでいた。新聞を取り始めたのは二ヶ月前からだ。勤めていた時はいつも就業時間より三十分早く着き、会社で取っている新聞を読んでいた。丁度読み終えた十時ごろ淑子から電話が入った。
「美弥、暇よね」
「なあに、その言い方。まっ、当たっているだけに反論出来ないけど」
美弥子は笑いながら、さらに続けた。
「久し振りじゃない。どうしたの、この暑さにやられてズル休み?」
「何言ってるの。暑さにやられてるのは美弥の方よ。今日何曜日か分かる?土曜日よ、土曜日。呆けるには早いんじゃないの」
美弥子は、あわてて壁に貼られたカレンダーを見た。確かに七月十日は土曜日だ。今、新聞を読んでいたのに曜日は抜けていた。
「ああ、確かに土曜日だわ。毎日が休日だと曜日の感覚が無くなるのよね。この頃テレビもあまり見ないし」
美弥子は言い訳がましく言った。
「それでねぇ、これから会ってお昼でもどうかなって」
「もちろんオッケーよ。今、家?」
淑子は池袋のマンションを借りている。会社を辞めたら田舎に家を買って自給自足の生活を目指すと言っている。老後はゴチャゴチャした都会より、静かな田舎の方がいいと。美弥子がマンションを買おうとした時も、一緒に田舎でのんびり暮らそうと頻りに誘われた。でも美弥子は、年取れば買い物や病院など交通の便がいいところがいいと言い張ったのだ。
「ええ、今から出るわ。それでどこに行く?」
「そうねぇ。そうだ、家に来ない?会うのはイタリアから帰って来てから二度目じゃない。一度目だって淑子の仕事の昼休みにちょっと会っただけでしょう。明日は日曜日なんだから泊まっていけるでしょう。そうしなさいよ」
美弥子は、やや強引に誘った。
「そうね、歩き回っても暑いし。じぁあ、これから支度してから出るわ。ミルフィーユを買っていくからね」
一時間くらいしてから淑子はケーキの箱と大きめのバックを持ってやってきた。美弥子は、昼食に何か作ろうかと考えたが、久し振りに『槇』へ行くことにした。
「いらっしゃい、今日は淑子さんもご一緒なの。お久し振りですね」
聡子は、いつものように微笑んだ。美弥子も以前に比べると、ここに来る回数が減った。無職の身でそう贅沢は出来ないということもあるが、食事を作る時間がたっぷりあるせいだ。それに、夜間外出するのが億劫になったこともある。
「そうなのよ。私も仕事を辞めてから淑子と会う機会がなくてね。今日はランチを二つお願いします」
美弥子は注文すると、いつものカウンターではなく、奥のテーブル席に腰掛けた。聡子は水を運んできて淑子と二言三言話してからカウンターの方へ戻った。昼食の時間帯で、あっという間に狭い店内は満席となった。美弥子と淑子は食事をしながら、会社の近況などを喋っていた。食べ終わると急いで席を立った。土曜日のせいか、店の入り口には入りきれなくなった客が待っている。美弥子が支払いをする時、聡子が落ち着かなくてごめんねっと小さく囁いた。美弥子は、また来るからと言って店を出た。マンションに戻ると二人ともソファに身を投げ出した。
「やっぱり、家が一番寛ぐよね。淑子、コーヒー飲む?」
「いや、いいわ。今、お腹が一杯だし。後でケーキを食べる時で」
「そうだわ、私のホームウェアーに着替える?」
「ああ、いいの。ちゃんと持ってきてるから」
淑子はバックから紫色のワンピースを取り出して着替えた。
「これ、楽なのよ。腰から上はシャーリングだしね。やっぱりデザイン性より楽が一番よ。歳のせいかしら」
美弥子もブルーの部屋着に着替えた。それこそウエストもない寸胴だ。しばらくの間、二人でイタリアの写真を見、旅行のことを思い出しながら話した。
そのスマホは、夕食を終えて淑子が風呂に入っている時に鳴った。一瞬、章代に何かあったかと思わせるような忙しげな鳴り方だった。章代との旅行は夏の暑さを避けて、秋になったら行くことに決めていた。着信番号は絵里だった。
「絵里さん」
美弥子が呼びかけただけで、電話の向こうからすすり泣く声が聞こえた。
「絵里さん、どうしたの?何かあったの?」
絵里と和夫のことは慶子がきちんと話し合うということで、あれから美弥子は関わっていない。お腹の子供のこともあり、結婚が具体的に進んでいるとばかり思っていた。しかし、絵里の泣き声はそうではないと言っている。
「絵里さん、大丈夫?落ち着いて話して頂戴」
「赤ちゃんが。私の赤ちゃんが。流産したんです、昨日」
「流産?」
美弥子も一瞬言葉に詰まった。
「和君はそばにいるの?」
「いいえ。まだ話してないし」
「話してないって、どうして?あれから慶子達と話し合って、どういうことになったの?」
「もう、いいんです。終わってしまったんです」
美弥子は絵里の捨て鉢的な言葉が気になった。
「終わるって。まずは和君に話さなきゃ駄目よ。二人の赤ちゃんのことでしょう。それに、絵里さんは和君のことが好きなんでしょう?これからの二人のこともあるじゃない。話しずらかったら私から和君に話そうか?」
「ごめんなさい。何か私、混乱してて。ただ、美弥子さんに聞いて欲しくて。カズには私からきちんと話します」
「今、一人なの。心細かったら行きましょうか?」
「ありがとうございます。大丈夫です。二、三日安静にしているように言われたので、お店を休んで寝ていますから。美弥子さんの声を聞いたら落ち着きました。すみません、夜分に。失礼します」
電話が切れても美弥子はしばらくスマホを握り締めていた。慶子から何も言ってこないから、順調に事が運んでいるものだと思っていた。でも、絵里の様子からすると流産以前に何かあったのだろう。美弥子は慶子に電話したい気持ちを抑えた。絵里も自分から和夫に言うとのことだし、向こうから何も言ってこないのに、しゃしゃり出るようなことはしたくない。
「どうしたの?美弥、なんか変よ、さっきからスマホ持ったまま考え事してて。何か電話があったみたいだけど、お母さんの具合でも悪くなったの?」
風呂から上がった淑子が不安げに美弥子のそばに座った。
「えっ、ああごめん。そうだビールでも飲む?淑子の為に買ってあるのよ。私も風呂に入ってくるから、冷蔵庫から勝手に出して飲んでて」
美弥子は下戸だが淑子はかなり強い。美弥子が風呂から上がると、淑子は缶ビールを美味しそうに飲んでいた。
「やっぱり風呂上りは冷たいビールよねぇ」
「いいわね、飲める人は。でも、私は飲みたくないけどね。飲んだら気持ち良くなるどころか、気分が悪くなるもの。やっぱり風呂上りはアイスコーヒーよ」
コーヒー党の美弥子は、日に何杯もコーヒーを飲んでしまう。自分でもコーヒー中毒ではないかと時々思うがしょうがない、アル中よりいいんじゃないかと変に納得している。そんな美弥子はアイスコーヒーのカップを手に淑子の横に腰を下ろした。
「さっきの電話ね、慶子の家の事なのよ。色々ゴタゴタしてるみたいで。私はそういうのに関わるのは避けてきたんだけど、今回は成り行き上関わったのよね。ただ、私はあくまで部外者だけど」
美弥子は淑子に話しながら、和夫のことを言うことはやめた。まだ、その後の事がはっきりしていないからだ。
「ねえ、淑子は家族について考えたことある?」
「家族って親兄弟のことでしょう?でも、どうしたの、急に家族についてなんて?」
「ちょっとしたことがあってね。慶子は私の妹でしょう。でも、慶子の家庭で私は部外者でしょう。ある人とそんな話をしていてね。親、子、孫と続く縦の関係に親の兄弟が入る余地はないんじゃないのかなって。確か淑子ってお姉さんがいたのよねぇ。お姉さんは結婚して子供や孫までいるんでしょう?お姉さんの家庭に入って、ふっと疎外感を感じることがない?」
美弥子は自分と同じ独身の淑子だが、淑子は家族の感じ方が違うかもしれない。
「そうねぇ、家族かぁ。あまり真剣に考えたことないけどねぇ。それに私の両親は十五、六年前に相次いで死んだでしょう。あの時は、家族がどうのっていうより、死について考えたわねぇ。父が脳溢血で、母は心不全で一年あかずに逝っちゃったから、人生って呆気なく終わっちゃうんだなぁと思ったわ」
淑子は、その時のことを思い出したのか、黙って缶ビールをグイって飲み干した。美弥子は、死については余り考えたことはなかった。父の死も仕事の忙しさの中に埋もれてしまったように、悲しみにくれることはなかった。一緒に暮らしていなかったせいか、あるいは癌で余命を宣告されていたせいで覚悟ができていたからかもしれない。
「それはそうと、明日どっか行く?」
暗い話題を払拭するように美弥子は矛先を明日の予定に向けた。
「そうねぇ、でも私は明後日からまた仕事だからねぇ。誰かさんと違って忙しいし。それに夏バテのせいか体がかったるいのよね」
「かったるいのは、夏バテのせいじゃなくて歳のせいでしょう」
「同じ歳の人に年寄り扱いされたくないわ。それに私の方が二ヶ月若いんだからね」
淑子は美弥子を軽く睨み、そして二人して大笑いした。
翌日、美弥子と淑子は遅く起きた。二人は『カフェ EYE』でブランチして、その後淑子は帰って行った。
(別れの岐路)
慶子から電話が入ったのは、絵里から流産の話を聞いてから、一週間位経ってからだった。その重い口調の内容を聞くまでもなく、美弥子には察しがついた。絵里からの電話で気にはなっていたが美弥子から動くことは止めていた。
「お姉さん、和夫のことだけど相手の絵里さんが流産したの。この前、絵里さんから和夫に電話があってね。どうしたものかと思って」
「そう。でも流産云々の前に、あれからどうなったの?絵里さんと家族みんなで話し合ったんでしょう、結婚のことなんか?」
美弥子は内心気にしていたことを、さりげなく聞いた。
「もちろんよ。ただ、化粧は濃いいし、茶髪もいいとこだし、初めて会ったときは驚いちゃったわ。でも、子供のこともあるからパパも籍を入れることは渋々承諾したんだけど、諸手を挙げて賛成って訳じゃなかったのよ。彼女の両親は亡くなっているし、兄弟もいないから、すべてうちで見るしかないのよ。うちも生活が楽って訳じゃないけど、和夫も折角大学へ入ったのに、今辞めたら大学中退ってことになるでしょう。大学中退と卒業じゃ就職に影響大だし、ましてや妻や子供を養うともなればねぇ。だから、あと二年だから何とかしようということになったのよ。でも、一回の話し合いでスムーズにいった訳じゃなかったの。なにしろ最初の印象が悪くてね、ほら化粧と茶髪。朋香たちは今時の若い子達ってみんなそうよ。別に絵里さんが特別ってほどじゃないわよって言ったけど、パパなんかチラッと会っただけで自分の部屋に入っちゃうし、私もどうしていいか分からなかったしね。でも、何度か会ってるうちに見た目よりしっかりしているから、私はいいんじゃないかと思ったわ。もちろん歳のことがあるから結婚には早過ぎるけど、何たって赤ん坊のことがあるからね。それで、いざ入籍という段階になって流産を聞かされたのよ」
「で、和君や大介さんは何て言ってるの?」
「それなんだけど、パパは流産したから今更入籍しないって訳にもいかないだろうって言うの。最初は渋々賛成してたみたいだけど、会っているうちに情が湧いてきたのかしら、それとも若い女の子に弱いのかしらねぇ。私も娘達も嫁や妹になると思っていたから、しっかりしてるし和夫にはいいんじゃないって言い合ってたのよ。それなのに肝心の和夫が、子供のことがないなら急がなくてもいいんじゃないかって絵里さんに言ったみたいなのよ。絵里さんとも、そうしようって決めたからって言うの。娘達は我が弟ながら、なんて情けないって和夫を責めたんだけど、パパも私も内心ホッとしなかったというと嘘になるわ。でも、誤解しないでね。私もパパも絵里さんを嫌ってた訳じゃないのよ。ここ一ヶ月ばかり、二人の生活をどうやっていこうかって真剣に考えてたんだから。ただ、年齢的にも経済的にも早いことに変わりはないとは思ってたけど」
「絵里さんから何か言ってきたの?」
「ええ、電話があってね、お騒がせしまして、すみませんでした。これからのことは、ゆっくり考えていきます、ってね。そこでお願いがあるの。お姉さんには何かと面倒をかけて申し訳ないけど、絵里さんに会ってお金を渡して欲しいの。慰謝料って訳じゃないけど、和夫のしたことは絵里さんを傷つけたから。私が会って渡したほうがいいかと悩んだけど、お金で済ませたみたいに取られるでしょう。今すぐじゃなくても、いずれ和夫が絵里さんと結婚してくれたらって家族中で話してるのよ」
何事にも、あっけらかんとしている慶子が、当然のことながら今度のことでは相当悩んだらしい。親としては息子を庇いたいし、もし相手が自分の娘だったら腹立たしいと。
少し時間を置いてから美弥子は絵里に電話を入れた。お金のこともあったが、絵里の気持ちが落ち着くのを見計らっていた。
「絵里さん、体の具合どう?」
「ええ、大丈夫です。色々、ご面倒お掛けしました。あのぅ、カズのご両親にも」
「そんなことはないわ。今度のことは面倒を掛けるとかいうことじゃないのよ。それより、会って話したいんだけど、時間が取れるかしら?もちろん、絵里さんの都合もあるから私のほうはいつでもいいのよ」
美弥子は、三日後に以前絵里と初めて会った新宿の『千倉』で同じ時間に会うことを決めた。今度も絵里のほうが早く着いていた。予約していた和室に入り、料理も同じ会席料理を注文した。同じく、ウーロン茶で喉を湿らしてから美弥子は口火を切った。
「本当に体調は大丈夫なの、無理してない?」
「大丈夫です。それに仕事も始めましたから」
「和君とのことはどうするの、これから?」
「カズとも話したんです、一旦、付き合いを辞めて、お互いの道を行こうって。やっぱり私達子供過ぎたんです、甘かったんです。それに、流産してから考えたんです。本当にカズが好きだったのか、カズも本当に私のことを好きだったのかって。二人共好きってことが軽かったんじゃないかなって」
絵里は少し寂しげに俯いた。
「好きが軽かったってことか。そうねぇ、お互い好きだってことが、深く愛してるという気持ちまでいってなかったうちに、妊娠してしまったってことかしら。今は、出来ちゃった婚なんて珍しくなくなってきたけど、妊娠したから結婚しなければという安易な考えも問題だし、だからといって堕胎すればいいってことじゃないわ。それに出来ちゃった婚でも幸せになっている人は多いわ。妊娠が結婚の背中を押したってことかな。確かに、和君もあなたも自分達の生活基盤がないことが問題だったけど、慶子達は二人のことを応援しようとしてたのよ。流産したから絵里さんとのことは終わりとは言わないし、姪達も弟のだらしなさを責めたのよ」
絵里はバックからハンカチを出して目頭を拭いた。
「きっと、私焦っていたのかもしれないんです、家族が欲しいって。だから妊娠が分かったとき嬉しかった。でも、その時、私の中に家族は子供のことが占めていて、カズの存在が薄かったんです。カズに妊娠を伝えた時、えっって驚いたような、しまったっていうような声を出したんです。その時カズは冷たいなって思ったけど、私もカズより子供のことを思ってた。そのとき感じたんです。お互い好きが軽いんだなって」
「そう。でも、母親って男より何よりも子供のことを考えるのは当たり前だと思うわ。この頃は虐待など子供のことを考えるのが当たり前になってない場合が多いけどね。前にも言ったけど私には結婚も子供のことも偉そうには言えないけど」
美弥子は微笑みながら言った。自分の発言が絵里に過度のプレッシャーをかけてはいけないと思ったからだ。料理が運ばれてきて、暫くは食べることに集中した。一段落してデザートが運ばれてくると、絵里がはにかみながら言い出した。
「実は、今探してるんです、夜間高校を。昔に比べてすごく少なくなっているんですけど。やっぱり、今後働くにしても高校は出てないと不利だって思ったし、できれば看護学校へ行って看護師になろうって思うんです。今度のことで、命について考えさせられたから。両親が相次いで死んだときは、ただ悲しくて泣いてました。流産したときも、ひたすら泣いていたんです。もっと自分の体を大事にしてたら流産しないで済んだのにって。子供の命が消えて、命が儚く思えて、でも命が何ものにも変えがたい重いものだって教えられて。それで、看護師になろうって思ったんです。まだ、これから高校も卒業しなくっちゃ駄目だし、それから看護学校だって受験があるし、なれるか分からないけど」
美弥子は改めて絵里を見つめた。初めて会ったときと同じように茶髪だし、化粧も少しばかり濃い目だが、あの時感じたしっかりした娘だということに間違いはなかった。むしろ、絵里が娘だったら、あの甘ちゃんの和夫へは嫁にやりたくない程だ。
「偉いのね」
「いいえ、偉くなんてないです。流産してから命の重さに気づくなんて。それに家族って命が繋がればいいってことじゃないのかな、その繋がりが大事なんだと思ったんです。血の繋がりの前に心の繋がりなんだと。今でもカズが大好きです。もっと深く、熟すほど深く愛したら、カズの子供が欲しいと思います。この先、カズとのことがどうなるか分からないけど」
「私は絵里さんが和君のお嫁さんに来てくれたら嬉しいわ。今後、二人の愛が熟すかどうかは分からないけど、私は絵里さんの味方よ。何かあったら相談してね。これからも、時々お食事しましょうね」
美弥子は別れしなに慶子から預かってきた百万円を絵里に渡した。絵里は受け取った封筒の中身を見て、驚いたように美弥子に押し返した。
「これは受け取れません。今度のことはカズに一方的な責任なんてないし、お互いの責任だと思ってます」
「慶子達は、お金で今度のことを終わらせようとしてるんじゃないのよ。むしろ、いずれ絵里さんがお嫁に来てくれたらって思ってるの。でも、現実流産で体に負担がかかるのは女の方でしょう、男は何ともないんだから。慰謝料なんて堅苦しいことではなくて、これからの将来に役立てたらっていう慶子達の気持ちを汲んで欲しいわ。私も気軽に使ってくれたらいいんじゃないかと思うわ」
絵里は黙っていたが、意を決したように頭を下げた。
「ありがとうございます。これで看護師になれるよう頑張ります。帰ったらカズのご両親にお礼の電話を入れます。美弥子さん、これからもよろしくお願いします」
美弥子はマンションへ戻ると、慶子に電話を入れた。
「お姉さん、ありがとうございました。今さっき、絵里さんから電話を貰ったわ。看護師目指して頑張るって。貰ったお金は大事に使わせてもらいますって言われたわ。私ね、子供のことは別にして、絵里さんに和夫と結婚して欲しいと思ったわ。今時、めったにいないくらいの娘だわ」
「ほんとね、私もそう思うわ。でも、和君も絵里さんも若いし先が長いんだから、二人のことは二人が決めることよ。焦ることはないわよ。あの二人が人生の岐路に立たされることは、これから何度もあるでしょう。私も慶子も、その選択をしながら今があるんだから。それから、涼しくなったらお母さんを温泉に連れて行くのを忘れないでね」
「勿論、今度のことでお姉さんに色々お世話になったんだもの何でも言うことを聞くわ。温泉は私も楽しみにしているし、ただで行けるなんて滅多にないもの」
お家騒動が一段落した慶子は、いつもの調子のいい慶子に戻っていた。
(親友)
猛暑から秋へと変わり身の早さに衣替えなど悠長にしていられず、美弥子はダンスの奥から長袖を引っ張り出した。こんな調子じゃ来週行く予定の草津温泉は、大分寒くなりそうだ。この頃は宵っ張りになったせいで朝が遅い。ましてや、これから寒くなるといよいよ布団から出るのが億劫になりそうだ。美弥子は長袖のブラウスに長めのベストを重ねて、ブランチをするために『カフェ EYE』へ行った。中途半端な時間帯のせいか、客は一人もいなかった。
「おはよう」
美弥子はマスターの小野田に声を掛けると、指定席でもあるカウンターチェアに腰を下ろした。
「おはようにしては、大分時間が過ぎてますよ」
小野田は笑いながら、美弥子の前に水の入ったコップを置いた。
「ぐうたらが身に付いちゃって、体内時計が少しづつ狂ったらしいわ。忙しく働いていたときはこういう生活に憧れていたんだけど、やっぱり何か考えなくっちゃねぇ。でも、その前にいつものオープンサンドとモカを頂戴」
小野田がコーヒー豆を挽きはじめると店内に香りが充満してきた。美弥子は何気なくカウンターに置いてあった雑誌を手に取った。お洒落な雑誌の表紙は、外人のモデルが微笑んでいる。中をぱらぱらっと捲ると、イタリアの特集記事があり、懐かしい観光写真が掲載されていた。
「この前行ったばかりなのに、もう懐かしいわ。やっぱりツアーで行くと観光地巡りになるわねぇ。かといってイタリア語は話せないから個人で行く勇気はないし、日数も限られているから効率よく回れないものね。そういえば、マスターもイタリアへ行ったことがあるって言ってたわよね。個人で行ったんでしょう?」
「若い頃の話だよ。イタリアだけじゃなく、あっちこっちを動き回っていたんだよ。若い頃って怖いもの無しだからね。ところで、またどこか行かないの?海外に」
「そうねぇ、また行きたいんだけど淑子がまだ勤めてるから、なかなか休めないのよね。あと二年くらいして淑子が辞めたら、二週間位どこかに行きたいわ。それまでは、国内旅行でもしてるわ。そうそう、来週、母と妹で草津温泉に行くのよ。まあ、親孝行の真似事みたいなものだけど」
「温泉かぁ、俺もたまにはのんびり温泉に浸かりたいね。親孝行ができるのは親がいるからだから幸せだね。孝行するときゃ親はなしって言うからね」
マスターは寂しげに呟いた。小野田には常に暗い影が付き纏っているような気がして、過去のことに触れてはいけない雰囲気が漂っている。美弥子が雑誌に目を戻したとき、ドアが開いて三人の中年女性が入って来た途端、店内は賑やかな声が響いた。
翌週に行った草津温泉は天気も良く、心配するほど寒くなかった。章代は娘二人に支えられながら、硫黄の匂いが立ち込める湯畑周りの土産物屋を楽しげに歩き回った。一泊二日の短い旅だったが、久し振りに母と娘に戻った旅だった。
それは突然だった。前夜からの秋雨に濡れた空気は寒さを一層深くし、ベランダから見下ろす傘も心なしか、しなだれている。美弥子は老後の体力維持の為、スポーツクラブへの入会を決めた。今日あたり見学にでも行こうかと考えていたが、この雨。急を要することでもないかと、コーヒーミルに豆を入れようとした時、ピンポンと軽くチャイムが鳴った。美弥子が反射的に時計を見ると午前十時前。予定のない客が来ることは滅多にない。今は宅配業者も配達時間を聞いてくる位だから。美弥子はコーヒー豆のボトルを置いて、リビングから玄関に行った。ドアの覗き窓から見ると淑子が立っている。美弥子が慌ててドアを開けると、淑子が虚ろげな表情で笑っていた。
「どうしたの?まあ、とにかく入って。丁度コーヒーを入れるとこだったのよ」
淑子はリビングへ入るなり、疲れたようにソファへどっかりと腰を下ろした。美弥子は只事ではない様子の淑子に声を掛けず、コーヒーを入れにかかった。コーヒーカップをテーブルの上へ置くと、それが合図のように淑子は話し出した。
「昨日ね、病院へ行ってきたの」
「病院?」
「実はね、先月、会社の検診で引っかかったのよ、胃でね。それで全身CTやMRIなんかの精密検査を受けたの。その結果が昨日出てね、胃癌だったわ」
淑子は、そこで一旦言葉をきった。まるで何かに耐えるよう口びるを噛んでいる。美弥子は癌の一言で、全身の血が逆流したかのように震えだした。そしてその先、淑子の言葉を聞きたくなかった。淑子は意を決したように話し出した。
「後、もって四ヶ月だって言われたわ。もう全身に転移して、手の施しようがないとね。考えてみたら夏あたりから何となく体がかったるかったのよね。でも、まさかって。家族と一緒に来てくれって言われたときから、嫌な予感がしてたけど。昨日は姉が仙台から来てくれたのよ。先生から結果を聞かされたときは、私より姉のほうがショックを受けてね。姉の憔悴しきった様子を見てたら、なんだか私のほうが妙に落ち着いてきたの」
美弥子はドラマの一場面を見ているような、現実味のない話を聞いている自分を感じていた。淡々と話している淑子の悲しみを受け止める度量が自分にはない。何か言えば、すべてが薄っぺらな言葉になってしまう。でも、何か話さなくては、この重い沈黙がどんどん暗く深い溝に嵌っていくように感じた。
「お姉さんは今、淑子のマンションにいるの?」
美弥子は、やっとの思いで声を絞り出した。
「いいえ、姉が暫くマンションにいるって言い張ったのを、私が無理に帰って貰ったの。姉には姉の家族がいるでしょう。それに姉の辛い気持ちが痛いほど伝わってくるのよ、二人きりの姉妹だから」
美弥子は、他人だからこそしてあげられることがあるかもしれないと思い巡らした。そう親友としてしてあげられること。美弥子は小さく息を吐くと、少し落ち着きを取り戻した。
「淑子、一緒に住もうよ。お互い一人だけど二人なら家族になれるじゃない」
淑子はその言葉を聞いて初めて涙を見せた。それから堰を切ったように泣きじゃくった。美弥子も黙って淑子を抱きしめ、肩を震わせて泣いた。どのくらい時間が経ったのか分からない。淑子は涙でくしゃくしゃになった顔をティシュで拭くと、まっすぐに美弥子を見た。
「ありがとう美弥。実は美弥に話してないことがあるの、家族のこと」
「家族ってお姉さんのことじゃなくって」
「ええ。前に美弥が言ったことがあるでしょう。家族は親がいて、子供がいて、孫がいて。家族って縦の繋がりかしらって」
「あの時は他の件で感じることがあったからよ。でも、本当の家族は血の繋がりだけじゃなく、心の繋がりが大事だって思ったのよ。だから、淑子と家族になれるよ、絶対に」
「ええ。私も美弥とは家族だと思っているわ。老後は一緒に住もうって話したこともあったわよね。私には老後がなくなっちゃったけど」
淑子は弱々しく笑って話し続けた。
「私が仙台の大学にいるとき同級生の恋人が出来て同棲したのよ。三年になったときだったわ。もちろん両方の両親は大反対だった。でも、私も彼も親の反対に意も返さず一緒に暮らした。まるでおママゴトのような生活だった。二人でバイトも頑張ったしね。四年になって後一年、卒業したら結婚しようと約束してたわ。そしたら私が妊娠してるのが分かったの。親に言えないまま、どうしようって思っているうちにお腹がどんどん大きくなるし、周りの人達にもばれるし、当然バイトもできなくなるし。お互いの親にもばれて両家で話し合い、子供のこともあり、まずは籍を入れようということになったの。幸せはゆっくりくるのに、不幸はあっというまにくるのね。彼が交通事故であっけなくこの世を去ったときのショックで早産してしまったの、女の子だったわ。私は二人の家族を一時に失ったのよ。彼の籍には入れなかったけど、仙台に彼と子供のお墓があるの。四ヶ月で死ぬんだって聞かされたときは怖かった。でも、彼と子供が待っていてくれると思うと、ショックが少しづつ和らいでいったのよ。姉が仙台に帰るとき、仙台でホスピスを探してくれるように頼んでおいたの。家族の傍に帰りたいと思ってね」
美弥子は暫く声も出なかった。淑子にそんな過去があったなんて初めて知ったから。美人の淑子が今まで男に見向きもしなかった理由がやっと納得できた。
「淑子、私が傍にいるわ。一緒に仙台へ行くから。お願い、いいでしょう?」
仙台へ帰りたい淑子を引き止めることはできない。それならば淑子の傍で見守りたい、それが美弥子にできる最後のことだ。
「美弥、今日泊めてくれる?最後に美弥と一緒に寝たいわ」
「いやよ、最後だなんて言わないで。ずっと傍にいるって言ったでしょう」
「ねえ、美弥。私ね、美弥の中の私は元気なままでいたいのよ。いづれ骨と皮のようになって死んでいくわ。しょうがないわよね、病気なんだから。でも、美弥が目を瞑って私を思うとき、痩せこけた私を思い出して欲しくないの。だから、お見舞いにも来ないで頂戴。分かってくれるでしょう、美弥なら。親友だもの」
不老不死など存在しないこの世は、生あるものには必ず死が訪れる。美弥子だって誰だって頭の中では分かっている。命の重さと同じく死にも重さがある。発展途上国で餓死した子供達の死も、一国の長たる者の死もなんら変わることない重さがある。ただ今の美弥子には、淑子の死を考えねばならぬこと自体、世界中の誰よりも重い死を受け止めなくてはならない現実がある。その夜、美弥子と淑子は二つのベッドをくっつけて寝た。いや、二人共一睡もできずに朝を迎えた。殆んど何も話すことなく、別れの時がきた。淑子のマンションまで送ると言う美弥子に、淑子はいつものように別れたいと言う。ドアが閉まるとき、淑子は微笑んで言った。
「美弥、じぁあね」
「うん、またね淑子」
美弥子もいつものように軽く手を振った。重いドアが閉まった瞬間、美弥子の口から嗚咽が漏れた。そのまま、玄関のタタキに座り込み、肩を震わせて泣いた。どうしょうもない無力感が美弥子を捕らえて離さない。
(介護)
淑子がドアの向こうに消えてから、美弥子は何もする気が起きなかった。申し込もうと意気込んでいたスポーツクラブへの関心もなくなり、静かに鬱状態へと落ちていく自分を止める術もない。そんなとき絵里から電話が入った。
「美弥子さん、佐伯絵里です。覚えてくれてますか?」
絵里の声は明るい。その声は美弥子を暗黒の淵から救い出してくれた。
「勿論よ。私も気になっていたけど、色々あってね。どう、元気でやってるの?」
「あっ、はい。私、来月長野へ帰ることにしたんです。長野にいた頃の父の知人が病院での仕事を見つけてきてくれたんです。病院の院長先生が、私の看護師になりたいとの夢を応援してくれることになって。病院の寮に入って、高校と看護学校へ行かせてくれることになったんです。無論昼間は病院の食堂で働いて、夜間高校へ通うことに。寮費はただで、食費だけでいいって。夢に向かって進んでいく勇気を教えてくれたのは美弥子さんです。だから、この話カズにも言ってないんです。美弥子さんに一番に伝えたかったから」
美弥子の方こそ、絵里が美弥子をどん底から救い出し、前に進む力を与えてくれた気がした。そうだ、きっと淑子も美弥子が毎日暗い気持ちを抱えて生きているよりも、生き生きとしているほうを喜んでくれるに違いない。
「ありがとう、でも、良かったわね。絵里さんは夢に向かって一歩づつ確実に前へ進んでいるの偉いわ。私ねぇ、ちょっと落ち込むことがあってね。絵里さんの話を聞いてたら勇気が湧いてきたわ。じぁあ、行く前に送別会を開かなくてはね。慶子と相談して、また連絡するわね」
立ち直る強さは若さだけではない。立ち止まり、下を向いているだけじゃ前へ進めないと気づいた時、一歩踏み出すことができるか。美弥子が淑子にしてあげられることは、淑子との約束を守ってあげること。見舞いに行かないやさしさもあること。現実から目を逸らすことなく静かに淑子のことを思っていること。
章代が倒れたとの一報は、朝冷えのする明け方だった。美弥子は取るものも取り合えず、章代が運ばれたという国道十六号沿いの総合病院へ駆けつけた。
「お母さんは、いつも朝五時には起きて自分の部屋や仏間なんかの雨戸を開けるのを日課にしてたんだけど、今朝は、いつもの音がしないから気になってお母さんの部屋を覗いたら、ベッドの横で倒れていたの。もう、びっくりしちゃって慌てて救急車を呼んだのよ。まずは美弥子さんにって電話したのよ」
美弥子が病院に着くなり、洋子はやや興奮気味話した。さすがに俊雄は落ち着いている。
「俺は美弥子にはもう少し容態が落ち着いてから連絡しろって言ったんだが、洋子が何かあってからでは遅いと電話してね。朝早くに起こして驚いただろう」
「いいのよ、お母さんのことなんだから当たり前じゃない」
三人は暫く待たされてから、担当医から説明を受けた。
「お母さんは軽い脳溢血で意識ははっきりしており、今すぐ命がどうのということはありません。ただ、ご高齢なので急変する可能性は否定出来ません。それから、左半身に麻痺があり、歩行に支障をきたすことはあります」
「今まで杖をついて歩いていたのですが、これからは寝たきりになるということでしょうか?」
不安そうに俊雄が質問をし、洋子も真剣に医師の口元を見ている。美弥子は兄夫婦の後ろに座り、この間行った温泉旅行のことを思っていた。年齢のこともあり、いつどうなるか分からないとの医師の言葉を聞きながら、あの旅行を決行しておいて良かった。またいつかと物事を先延ばしにしているうちに、何が起きるか分からない。思い立ったが吉日とはよく言ったものだ。旅行の間じゅう章代は上機嫌で、父との思い出話を喋っていた。
「寝たきりになるかどうかは、一概には言えません。ただ、リハビリについては年齢的に骨粗鬆での骨折などリスクも伴いますので、病院としては無理強いすることは出来ません。それから症状が落ち着かれましたら、退院できると思います」
退院できるということは、暫くしたら出て行って貰うということを宣告されたようなものだ。三人で章代の病室に行ったが、薬のせいなのか、章代は軽い寝息をたてて深く眠っていた。もう、九時近かった。三人とも朝食は取っていない。家に戻って何か食べようという俊雄に、美弥子は今日のところは帰るからと西武新宿線に乗った。寝たきりになる公算の強い章代のことについて、兄夫婦は話したかったのかもしれなかった。しかし、美弥子は章代が倒れたことに少なからずショックを受けており、何も考える気にはならなかった。結局、途中で朝食を取ることはせず、いつもの『カフェ EYE』に戻ってから食べた。
「どうしたの?」
いつになく無口になっている美弥子に、小野寺が声を掛けた。
「今朝、母が倒れてね。病院へ行って来たのよ」
「それで、お母さんの具合はどう?」
「お蔭様で命に別状は無かったんだけど、脳溢血で半身不随は免れないらしいわ。歳が歳だけに、寝たきりになる可能性が高いらしいの。歳だから、いつかはって思ってたんだけどね。兄夫婦と一緒に暮らしていたから、母のことはどこか他人事のように思ってたのかも」
小野寺も口数が少なく、黙々とコーヒーとオープンサンドを作りにかかった。美弥子はブランチを済ませてマンションに戻ると、慶子に電話を入れた。
「慶子、お母さんの事、聞いたでしょう?」
「お母さんが、どうかしたの?」
慶子はのんびりした口調で言った。
「お兄さんから電話が無かったの?今朝、倒れたのよ」
「お母さんが?電話なんて無かったわよ。で、お母さんどうなの?」
慶子も流石に驚いたような声を上げた。
「脳溢血でね。命に別状は無かったけど、どうも寝たきりになりそうだって医者に言われたわ。歳のせいでリハビリは難しいと」
「それにしても、お兄さんはどうして私に電話を寄越さないのかしら、こんな大事なことなのに。もし、お母さんに万一のことがあったらどうするのよね。私が知らなかったなんてことで済むわけないじゃない」
慶子は自分が除け者にされたように感じて、憤懣やる方ないような声を出した。美弥子も当然、俊雄から慶子に電話を入れたとばかり思っていた。
「お兄さん達も、お母さんが命に別状なかったから慶子に知らせなかったんじゃない。朝早かったしね。私はお義姉さんから電話を貰って行ったんだけど、お兄さんは事態がはっきりしてからで良かったんじゃないかって言ってたからね。お兄さん達は、私から慶子に連絡すると思って寝たんじゃないかしら。早朝から忙しかったからね」
美弥子は何となく兄達を弁護するような形になった。
「でも、お母さんが寝たきりになっても、当然お兄さん達が看るのよね。そういう約束なんだから」
慶子は、親の介護が自分に係ってくることへの予防線を張るような言い方をした。美弥子は、親の介護についてなど考えたことも無かった。
「今は介護云々より、お母さんの体のことを心配しなきゃ」
「でもね、お姉さん、寝たきりになったら介護の問題が出てくるのは目に見えてるでしょう。お兄さんだって実家を継ぐっていうのは、親の面倒を最後まで看るってことじゃない。現実問題、私だってお姉さんだって、お母さんを引き取って面倒を看る部屋も無いじゃない。お兄さんの所には、お母さんの部屋だってちゃんとあるんだから」
「とにかく、明日一緒にお母さんの病院に行きましょう」
美弥子は明日の時間を決めてから、電話を切った。章代の介護の話をしながら美弥子は自分の老後を考えた。独身を通す決心をしたときから、先行きをまったく考えなかった訳ではない。まだ若かったから実感を伴わなかったが、いずれはと心の奥底にはあった。淑子と老後は一緒にと話したこともあったが、それでも老後は遠かった。その遠かった老後がひしひしと美弥子の足元に迫ってきた。親の介護は、いずれ美弥子自身の介護の問題となってくる。自分のことが自分で出来なくなったとき、当然、夫も子供もいない美弥子のいく場所は老人ホームで世話になるしかない。美弥子の学生時代の友達に独身を貫いてきた者もいる。何年か前の同窓会で独身女性の中に、いかに快適な有料老人ホームへ入るか、その為に貯金を励む人もいた。その時は、みんなで笑いあったが内心笑い事ではないと、それぞれが感じていたに違いない。
「お母さん、どう?」
翌日、美弥子は慶子と一緒に章代の病院へ行った。自分で起き上がることも出来ずベッドに横たわる姿は、旅行に行ったときの嬉々とした表情は陰を潜め、虚ろな目で美弥子達を見た。
「美弥子、死にたい」
ポツンと言った章代の言葉に、美弥子は一瞬なんと声を掛けるべきか迷った。大丈夫よって言ってあげるべきだが咄嗟に出てこない。
「いやねぇ、お母さん、そんなこと言って。お医者さんだって奇跡的に軽かったって言ってたわよ。大丈夫よ、リハビリすれば歩けるようになるって。ねぇ、お姉さん?」
こういうときは、慶子の調子の良さに救われる。
「お母さん、少しづつ時間をかけて治そうよ。みんなが付いているわよ」
美弥子が精一杯の励ましの言葉を掛けているところに、看護師が顔を出した。
「すみません、オムツを替えますので、外に出て下さいますか?」
美弥子は慶子と廊下に出た。部屋は老女とおぼしき患者ばかりの六人部屋だ。声を掛けながら手際よくオムツを替えていく看護師の動きが、ピンクのカーテン越しに透けて見える。重労働だろうと思いながら、他人にオムツを替えて貰らわねばならない身を考えると、屈辱的な思いを拭えない。部屋に戻り他愛無い話をしていたが、疲れたから眠りたいという章代に「また来るから」と言って、美弥子と慶子は病院を出た。
「これからどうする、お兄さんのところに寄るの?」
慶子は美弥子の顔を見て言った。余り寄りたそうではないらしい。
「そうねぇ、お兄さんは仕事だろうし、急に行っても、お義姉さんが大変だろうから帰りましょう。それに昨日の今日で疲れているだろうからね」
「でも、お母さんが入院している間はお義姉さんも楽じゃない。お兄さんと二人きりなんだから、のんびり出来るしね」
慶子はちょっと険のある言い方をした。
「そういう言い方はしないようにね。ずっと、お母さんの面倒を看てくれたんだからね」
美弥子は慶子を諌めながら、ふっと面倒と言う言葉に引っかかった。美弥子自身以前、家族間ゴタゴタに巻き込まれるのは面倒被りたいと思っていた。つまり、お母さんと住むのは煩わしいことなのか。一つ屋根の下に暮らす家族は、お互いに面倒を掛けつつ、支え合って暮らしていくものなのではないか。親との摩擦もあるだろうし、子供との摩擦だって当然ある。子供は年と共に手が離れ、親は年と共に手が掛かってくる。人間は加齢と共に体力が衰えてくる。人の手を借りなくては生活出来なくなることもある。そうなったら面倒な存在になるのか。しかし、一人暮らしの長い美弥子には、家族間の面倒が分かっていない部分もある。外から見るゴタゴタ以上に、内つまり精神的な葛藤があるかもしれない。それに義理が絡めば、理想論だけでは机上の空論に終わってしまう。一緒に生活する中で些細な事の積み重ねは無視できない。慶子の家庭内のゴタゴタだって美弥子は部外者である。夕食の支度があるから忙しいと言いながら帰って行った慶子の後姿を、美弥子は少し羨ましく見送った。
(二人の死)
それから年末年始を挟んで二ヶ月近く、美弥子は退職以来の忙しい日々を送った。まずは病院への定期を買い、足繁く章代の元に通った。当初、食事の時にベッドを上げる以外は寝たきりで、車椅子に乗るのも嫌がった。午前は洋子が、午後は美弥子がと章代の傍にいることで、少しずつ落ち着きを取り戻し、積極性が見え出した。一人でベッドに座り、支えられながらでも恐々と車椅子に乗るようになった。倒れてから初めて車椅子でトイレへ行き排泄をしたときは、本人もとても満足そうな顔をしたと洋子が嬉しそうに美弥子へ伝えた。排泄は人間の尊厳を守り、自信を持つ上でとても大切なことだと思った。そんな順調に思えた章代の病状が急展開を見せたのは、退院の前日だった。美弥子が病院へ行く支度を整えているとき、スマホの着信音がいつもより激しく鳴り出した。二、三日前から風邪気味ではあったが熱もなく、本人もやっと家へ帰れると嬉しそうに話していた。
「美弥子さん、今、病院に着いたら、お母さんが急に高熱を出して集中治療室に運ばれたのよ。肺炎を併発している可能性があるから、家族に連絡して欲しいって医師から言われたの。すぐ、来てくれる?」
「えっ、お母さんが」
美弥子は、一瞬洋子が何を言ってるのか分からなかったが、息を整えてから続けた。
「勿論よ。丁度今出るところだったわ。慶子へは私から連絡するから、お義姉さんはお母さんの傍に居てくれますか?」
「分かったわ。じぁあ、慶子さんへの連絡をよろしく」
洋子の緊迫した声が事態の悪化を示している。
美弥子はすぐ慶子に電話をして、病院へ急ぐように言った。その日の午後、俊雄と洋子、美弥子と慶子の四人に囲まれて章代は呆気なく死んだ。あまりの急変に美弥子は呆然と立ち尽くした。昨日は退院できるのを嬉しそうに話していた章代が、次の日こんな姿で家に戻るとは。
通夜と告別式は、年齢的なこともあり盛大にとはいかないものの、子や孫やひ孫そして親戚、兄の仕事関係者、他に近隣の人達に送られ厳かに行われた。慌ただしい日々が過ぎてマンションの部屋に戻った美弥子を、唯一の家族への喪失感と寂しさがひしひしと全身を覆い尽くした。父の死は闘病生活が長期に及んだことでそれなりの覚悟があり、美弥子もまだ若く仕事に追われていたので、諦めとして受け入れられた。しかし、章代の場合は美弥子が退職後であり、旅行や闘病期間など密な時間があった。また、夫や子供もいない美弥子には唯一の家族だった。ましてや退院を目前にしての死は、心根を急に断ち切られたようなやり場のない気持ちだ。
美弥子の奥底で常に渦巻いている恐怖、見て見ぬ振りをしながら過ごしてきた恐怖。いつかは現実となって、淑子の死が美弥子の前に示される。抑えていた恐怖心が章代の死によって美弥子をじわじわと追い詰めてきた。一人暮らしの気楽さが、こんなにも寂しく辛いものだと思い知らされた。このまま、マンションに籠もっていたら、本当に押しつぶされ、鬱になりかねない。美弥子は、もともと好きだった絵を見に美術館巡りをしたり、映画や買い物など意識的に外出するようにした。
『槇』に行くのも久し振りだった。
「あらぁ、随分ご無沙汰だったわねぇ。お元気だったの?」
聡子は変わらず美弥子に優しく声を掛けてきた。ここに来たのは章代が倒れる前だったから、かなりのご無沙汰である。
「元気だったと言いたいところだけど、実は母が倒れて二ヵ月後に亡くなったの。それで何かと忙しくてね。年齢的に不足ということではないし、いつかはって分かっていても、実際親に死なれるのは辛いわね」
「それは御愁傷様でした。気を落とさないでねって言っても無理よね」
「そうだな、親はいくつになっても親だからね。でも、美弥ちゃん、俺なんか母親が死んだのは中学のときだったから、今まで長生きしてくれた母親がいた美弥ちゃんが少し羨ましいよ」
賢治は、自分の母親を思い出してか、ちょっと湿った声で言った。
「そうね、この歳まで母がいてくれたんだから感謝よね。マスターのお蔭で元気が出てきたわ。こういうときは、いつものおいしいビーフシチューをいただくわ」
美弥子は他愛無い話をしながら、いつもの美弥子を取り戻していった。
章代の四十九日の法要も終わり、気持ちの上でも一区切りが付いた美弥子は、普段の変わり映えしない日々を過ごしていた。そんな安泰とした日常を一本の電話が切り裂いた。それは淑子の姉、孝子からだった。
「美弥子さん、淑子が先程永眠いたしました。長い間、妹の友達としてお付き合い下さり、ありがとうございました」
涙で掠れたような孝子の声は、その悲しみが美弥子の悲しみであるかのように、ざわざわと音を出して届いた。美弥子は、一瞬声も出ず、スマホを握り締め、あたかも淑子と繋がっているような感覚に捕らわれた。
「淑子は。淑子は苦しまなかったのでしょうか?」
「ええ、ホスピスでは、痛みを取り除くことを第一に考慮して頂きましたので、最期は眠るような安らかな顔でした」
その知らせを恐れていた美弥子だったが、自分でも驚くほど冷静に受け止めていた。章代の死で目を逸らしていた淑子の死が美弥子の前に引き摺り出され、その恐怖を乗り越えたせいだろう。通夜の日時や場所などを聞いて電話を切った。御愁傷様でしたの一言を孝子には言えなかった。美弥子と孝子の悲しみは、そんな一言では表せない共通の思いだったからだ。美弥子はいつものように朝食の後片付けをし、事務的にクロークから喪服を取り出すとハンガーを壁に掛けた。旅行鞄に数珠や着替えなどを淡々と詰めていった。黒い靴を出そうと玄関へ行った途端、扉の向こう側に消えた淑子の姿が、まざまざと浮かんできた。
「じぁあね、さよなら美弥」
淑子はにっこりと微笑んでいる。美弥子は玄関のタタキに座り込み、激しく泣き崩れた。
(前に)
淑子の通夜は仙台市内の斎場で行われた。花に囲まれた淑子の遺影を見ても、映画のワンシーンのようで現実味がなく、そこかしこから嗚咽が漏れるなかでも、美弥子は涙さえ溢れることもなく、ひたすら淑子の遺影を注視していた。翌日の告別式も喪主のように振る舞い、孝子の傍らに座り来客に頭を下げていた。そうしなければ、淑子の棺に縋りつき泣き崩れてしまいそうだった。すべてが滞りなく終わり、淑子の骨壷を抱きしめたとき、淑子の死が現実なのだ、逃げようもない現実なんだと、美弥子の心に突き付けてきた。
美弥子が孝子に帰京の挨拶をしたとき、一通の封書を渡された。
「淑子から預かっていたの。すべてが終わったとき、あなたに渡して欲しいと」
美弥子は封筒を抱きしめて泣いた。この中に淑子がいると。
美弥子はマンションに戻って来ても、なかなか封筒を開ける勇気が湧かなかった。二日ばかり淑子の遺影の前に置いていた。そして、意を決して開封した。
『美弥、本日は、ありがとうございました。あなたの親友として過ごした時間は、私の宝物だったわ。病気と向き合ったとき、いやでも常に死が付き纏い、悲しいというより苦しかった。人は必ず死ぬんだということが頭では分かっていても、心が受け入れるのは大変だったの。以前、彼と子供のことを話したでしょう。あの時はすぐにでも死んで二人の傍に行きたかった。でも、生きていたからこそ、美弥に会うことができた。人は生かされている。そして、生きていることに感謝して、大事に生きなきゃいけないと思った。今、こうしてペンを走らせながら、美弥とのたくさんの時間を思い出しているの。旅行に行ったり、会社の愚痴を言い合ったり。あの世に行ったら、彼や子供に話すことが沢山あって良かったわ。ねぇ、美弥。一人で生きて行くことも人生、それはそれでいいと思うわ。ただ、私が美弥とたくさんの思い出を作ったように、美弥も二人で残りの人生を歩くこと考えてみたらどうかな。実は、野田隆之さんから美弥に連絡を取りたいと頼まれていたの。その直後、私はホスピスに入ったし、野田さんは海外へ行ったので、お互い連絡が途絶えてしまったの。野田さんは私の病気のことを知らないからね、戻ったら連絡すると言ってたけど。もし、野田さんから連絡があったら二人でやり直すことも考えてみてね。
最後に、ありがとう。あなたに会えて幸せだった』
美弥子は何度も読み返した。そして、淑子の遺影に語りかけた。私のほうこそ淑子に会えて幸せだったわ。そして、隆之のことは驚いたけど成り行きに任せると。
美弥子は、朝から何も食べていないことを思い出した。仙台から戻ってきてから時間の観念が狂ったようだ。そうよ、淑子が言うように、いつまでもボーッとしていてはいけない。人生を大事に生きなきゃ。美弥子は息を大きく吸い込み、そっと吐いた。淑子見ててね。残りの人生、どうなるか分からないけれど頑張って生きるからね。
美弥子はコートを羽織ってマンションを出ると、『カフェ EYE』に行った。
いつものようにカウンターチェアに座った。すべてが、いつものように流れていく。
「いらっしゃい、久し振りですね。今日は何にします?」
マスターの小野田は、いつものように水の入ったコップを美弥子の前に置いた。
「そうね、いつものオープンサンドとモカで」
美弥子は、いつもの店でいつもの食事をすることが特別なことだったのかもしれないと思った。今日の食事は今日という時間の中にある。昨日でも明日でもない特別な日。美弥子は我に返ったようにマスターに話しかけた。
「このところ、いろいろなことがあってね。ねぇ、マスター。自分の人生を考えたりする?このままでいいのかなとか」
「人生ですか。なんか、難しそうですね」
小野田も少し考えるように言った。
「マスターも知ってるでしょ、淑子のこと。彼女が亡くなったの」
小野田は驚いたように一瞬言葉を詰まらせた。
「それはご愁傷様でした。あんなに仲が良かったのにね。確かに人生に思いを馳せますね。でも、人生には自分の力ではどうしょうもないことがありますからね。もちろん死も含めて」
小野田は、また遠くを見つめるような目をした。
「ただね、淑子の死を見て自分が最後に死を迎えるとき、幸せな人生だったと思えたら最高だと。勿論、失敗してボロボロな人生になるかもしれないけれど、何もしないで後悔するよりはいいのかなって思ったわ。だって、残り時間は余りないんだもの」
「残り時間ですか。何か具体的に考えていることがあるんですか?」
小野田はオープンサンドを美弥子の前に置き、サイホンのコーヒーをカップに注いだ。いつものように深い香りが店の隅々まで漂い、静かな時が流れた。美弥子は黙って食べることに集中していた。中途半端な時間のせいか客はいず、美弥子の咀嚼する音が、店内でやけに大きく響いていた。美弥子は食べ終わると、小さく溜め息をついた。
「マスター、ブラックコーヒーを頂戴」
小野田は黙ってコーヒーを入れ始めた。美弥子はその手元を見つめながら、自分の残り時間をどうするのかと思ったとき、隆之の顔が浮かんだ。まだ、海外なのか、海外で何をしているのか。
「ねぇ、マスターは独身でしょう?この先、ずっと一人で生きていくの?別にマスターのことを詮索するつもりはないのよ。ただ、淑子の最後の手紙に一人で生きていく人生の他に、二人で生きていく人生も考えたらってあったの。だから残り時間を、二人で思い出を作っていくこともありかと。実は昔付き合っていた人と、もう一度会ってみようかと思っているの。もちろん相手がどうなのか分からないけれどね」
美弥子は言葉にすることで隆之とのことを考える決意、いや勇気を自分自身に科した。隆之からの連絡を待つだけでなく、自分から連絡をしてみよう。結果はともかく、まずは動き出そう、時間は待ってくれないのだから。
小野田はブラックコーヒーを美弥子の前に置くと、黙ってドアの外に出て行った。それからクローズにしたからと言い、少し考えながら話出した。
「僕は若いころ海外をふらふらと歩き回っていたんです。バックパッカーっていうか、これといった目的もなくね。そして、イタリアの田舎町に辿り着いたとき、具合が悪くなって倒れてしまった。気が付いたとき、ある家のベッドの上でした。それまで熱にうなされて現実と非現実の狭間にいたんです。その家の娘が親身に介抱してくれて熱も下がり、元気を取り戻した。僕は暫くその家に留まり暮らした。そして、娘と恋に落ちた。しかし、僕は元来、腰を落ち着けて生活するなど考えられなかった、いいかげんな男だったんです。その内、彼女の愛が重くなり、僕は逃げ出した。四十近くなってから日本に戻り、やはり何人もの女性と付き合っては別れた。イタリアの女性、ユリアのことは忘れていたし、過去の女性だった。実は、今、この店を閉めようかと考えているんです」
小野田は一気に過去を話すと少し楽になったのか、柔らかい表情になった。美弥子は、普段無口な小野田が雄弁に過去を話したことに少し驚いたが、唐突に、この店を閉めることを言い出したことのほうが驚いたというか、ちょっとショックだった。この店は『槇』同様、美弥子のお気に入りである。
「急に、この店を閉めるなんてどうしたの?流行っているのに」
美弥子は焦ったような声を出した。しかし、小野田は落ち着いたような声で話し始めた。
「さっき話したユリアが病気らしい。それこそ残り時間があまりないらしい。ユリアの友達が僕のことを必死に探し出して言ってきたんだ。それだけじゃない、彼女も独身を通していたが子供が一人いるとのことだ。勿論、僕の子供だと言ってきた。それこそ僕にとって青天の霹靂だった。真偽の程はともかく、ユリアの元から逃げ出した事実は消せない。あなたと話していて決心が付きました。お互い残り時間を後悔しないように過ごしましょう。最後に幸せな人生だったと思えるように」
(時を紡いで家族になる)
美弥子は『カフェ EYE』で小野田と話したことにより、部屋に戻っても気持ちが高ぶっていた。小野田の告白に後押しされるように、隆之へ連絡を取ろうとすぐ行動しようと思い至ったが、ふっと考えてみると美弥子は隆之の連絡先を知らない。すでに会社は定年退職しているし、別れてから殆ど会っていないから当然携帯の番号は変更しているだろうし、それどころか今はスマホの時代だ。それでも一応、昔の番号を掛けてみたが使われていないと抑揚のない音声が流れた。隆之から連絡が来たのは美弥子が思い悩んでいたそのとき、まるで以心伝心ようなタイミングだった。
「もしもし、笠原さんのスマホですか?」
少し遠慮気味に懐かしい隆之の声が聞こえてきた。
「はい、私です。隆之よね。驚いたわ。私もあなたに連絡したかったけど、スマホの番号が分からなかったからどうしようと思っていたの。でも、よく私の番号が分かったわね」
何十年振りかに聞く隆之の声だ。私は驚きと懐かしさで声が震えているのが分かった。
「淑子さんのところに電話して、お姉さんに君の番号を教えて貰ったんだ。まさか、淑子さんが亡くなっていたなんて知らなくてね。僕が海外に行くと話したときは元気そうだったから」
美弥子は隆之に話したいことがいっぱいあったのに、淑子の名前を聞いた途端、涙で声が籠り何も言えない。美弥子が黙ったので心配したのか隆之はあわてて話しだした。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ごめん、淑子の名前を聞いた途端、涙が出てきちゃって。元気だった?」
「元気だよ。ねぇ、今日会えないか、急だけど?いろいろ話たいことがあるんだ」
美弥子は現実に引き戻され、頭の中で化粧や着替えの時間を計算した。
「勿論いいわ。私も会いたいし。どこで?何時に?」
美弥子は性急に答えたが、隆之は少し考えているのか間があった。
「まだあるかなぁ、ほら昔よく行った新宿西口のビルの地下にあったドイツ料理店。確か、ブァイロイカだったと思うけど。でも、あれから二十年くらい経ってるから無いかもしれないね。美弥子は何かお勧めの店はある?」
美弥子は、そうねぇと言いながら、ふっとここでもいいかなと思った。話したいことは山ほどあるし、食事をした後、また店を探す手間も大変だ。
「うちではどう?大した物は作れないけれど、ゆっくりできるでしょう。ワインでもって言いたいけど私は飲めないから。でも少しなら」
「それは嬉しいけれど、いいのかな。何時頃行けばいいの?」
「買い物にも行かなきゃ駄目だし、料理といってもつまみくらいだけれど。六時半でどう?ここは知らないでしょうから吉祥寺駅で待ち合わせる?」
美弥子は話しながら時計に視線を移した。一時だから、まだ余裕がある。買い物や掃除の時間もありそうだ。料理本を見なくっちゃなど、心が浮き足だってきた。
「いや、住所を教えてくれれば、スマホで調べて行くよ。それからワインとジンジャーを買って行くからね」
美弥子は大急ぎで買い物、掃除、料理とフルに動き回った。隆之が来たのは七時近かった。美弥子は本当に今日だったかと不安になったが、こんなドキドキ感は何年、いや何十年振りだろう。
「ゴメン、ゴメン。いろいろワインなんかを見てたら遅くなっちゃって」
久し振りに会った隆之は小麦色に日焼けして、精悍な顔つきをしていた。別れてから二十年以上経っているが、同じ会社なのでたまに見かけることがあったし、挨拶くらいはしていたので驚くほど変わったということはなかったが、子会社に出向してからは初めてだった。隆之はソファに座る前に部屋を見回していた。
「美弥子は凄いね、こんなマンションを買うなんて。俺は今、高田馬場のビジネスホテルにいるんだ」
二人はテーブルを挟んで座り、ワインとジンジャーで割ったワイングラスを手にした。
「まずは、淑子さんに献杯だね。その内、仙台に行こうと思ってるんだ、四十九日に日本にいるかどうか分からないから。美弥子も一緒に行ってくれる?」
美弥子は隆之との生活を考えていたので、一瞬言葉に詰まった。折角会えたのに隆之はまた海外に行くのかと。
「もちろん一緒に行くわ。でも、また海外に行くの?」
隆之はそれには答えず、美弥子の顔をじっと見つめて言った。
「ねぇ、美弥子、僕について来てほしいと言ったらどうする?」
いきなり言われて、美弥子はドキッとした。
「私退職したら、のんびりと暮らしたいと思っていたの。三十八年間、仕事に打ち込んできたでしょう。隆之が結婚のことを言い出したときも仕事が面白かった。ただ、実際に仕事を離れて自由になったら、何もすることがない寂しさを感じたのよ。実家や妹の家を見ていると家族間のゴタゴタが疎ましく思えたのよ。でも、それが家族なんだなって。淑子が一人で生きる人生もいいけれど、二人で思い出を作る人生も考えたらって手紙を残していったの。私は隆之と二人で思い出を作りたいわ、ゴタゴタしながら。でも、日本にいないって、海外に行くってこと?」
隆之は美弥子の横に来ると、そっと肩を抱いた。
「その前に離婚のことを話しておきたい、ケジメとしてね。美弥子と別れたころ、すごく子供が欲しくなってね。やはり自分の血筋を残したいって。歳のこともあって焦っていたのかな。息子を抱いたときは、すごく嬉しかったよ。妻にも感謝したし、明るい家庭を築いていこうと思っていた。でも、美弥子なら分かるだろうけど、うちの会社は忙しいだろう。僕の部署は特に現場に行くことが多いいし、海外の現場だと下手すれば一年くらいの時もある。しかも、日本に戻っても再度海外にってことが何度となくあった。また、本社勤めになっても仕事が終わったから、じぁあ帰りますという訳にはいかない。必然的に育児も含めて家庭のことは妻任せになっていった。僕は忙し過ぎて妻の不満を聞いてあげる余裕が無くなっていたんだ。自然と口喧嘩が多くなり、その内、妻は何も言わなくなってきた。夫婦仲が悪いのは息子にとって可愛そうだったよ。僕は買ったマンションを妻へ渡して家を出た。退職してすぐに離婚をしたんだ。妻には申し訳ないと思っているよ」
隆之は離婚について語り、ワインを一口飲んだ。喉を湿らすと、今度は退職後の生活を話し出した。
「実は退職前に友人からニュージーランドの大学で、建築学を教えないかっていう誘いがあったんだ。勿論、一級建築士の資格以外にいろいろな資格を持っているし、海外の現場での経験も多数あったから建物を作る自信はあったんだが、自分でやるのと教えるのは違うからね。それで半年近く、ニュージーランドへ行ってたんだよ。ニュージーランドは以前、地震で大きな被害が出ただろう。だから、免震や耐震についての意識が強くなっててね。仕事のことも生活のことも目処が付いて移住する決心がついたら、美弥子に話そうと思っていたんだ。海外での生活は慣れるのに時間がいるだろうけど、美弥子は英語が得意だから大丈夫だよ。新天地で美弥子とそのゴタゴタしながら生きていくのが楽しみだよ。ありがとう」
美弥子は隆之との生活については決めていたが、それが海外移住とは思ってもみなかった。美弥子は一瞬目を閉じて、心の中で淑子に話かけた。淑子ならなんて言うかな。きっと、美弥、なにグズグズ考えてるの。人生は一度だけ。まずは一歩よって言うよね。隆之とニュージーランドでゴタゴタしながら暮らすのも悪くないかな、いや、絶対に隆之と暮らしたい。美弥子は、隆之の唇に軽くキスをして言った。
「さあ、久し振りに頑張った手料理が冷めちゃうわ。まずは、お腹を満たしてから、今夜はゆっくりと移住について話しましょうよ、夜は長いんだから。私はもう一度、英語の勉強をしなくっちゃね」
美弥子は心の中で淑子に語りかけた。淑子、これから隆之と家族になっていくね。