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魔術師の魔法ですっかり綺麗になった農民衣装に着替え、売り物古着だけを残した鞄を背負ったバネッサは屋敷の玄関前にいた。
「それじゃあ行こうか。農業とかよく分からないし、こっちの勝手が良い国でいいよね」
「はい、それは構いません。それより、古着だけで本当に大丈夫なんでしょうか? ここからどれくら」
「じゃあ行くよー」
と、バネッサの声を遮った魔術師は扉の取っ手を握りしめ、大きく開いた。そこに広がったのは屋敷の室内――ではなく。荘厳な教会に続いていた。
「へ?」
思わず目を擦ってもう一度見るが、やはりそこは屋敷の室内ではなく教会だった。
人の気配はないが、四方を彩るステンドグラスから差し込む温かな日射しが今は確かに朝なのだと告げている。あまりの眩しさに目を細めるが、不思議と安心感に包まれバネッサは息を吐いた。
慣れた様子で先を行く魔術師がバネッサを教会へ引き込むと、ゆっくり扉を閉めていく。振り返れば、見覚えのない扉があり、それがこの教会の扉なのだと直感的に悟った。
ぐるりと教会内を見渡す。
闇に包まれた屋敷とは違って、ここはとても明るい。光とはこんなにもまばゆいものだったのか。
澄んだ空気を肺一杯に吸い込んで、バネッサはゆったりと口元を緩めた。
「こっちだよ」
バネッサの様子を見ていた魔術師がやがて促す。
綺麗に磨かれた等間隔に並ぶ長椅子の後ろを通り、またどこかへ続く扉を開く。
教会の居住スペースなのだろうか。白を基調とした生活感のある長い廊下が伸びていた。
廊下に面して並ぶ扉はどれも閉まっていたが、表札代わりのようにすべて違う花で出来たリースが飾られている。
枯れた森では見ることのできない光景に、バネッサは心躍らせながら魔術師に続いていく。やがて一番奥まで来ると、ひと際立派な扉が出迎えた。臆する素振りもなく魔術師が開けば――いつか見た、カルディア大国で過ごした客間のように煌びやかな部屋がそこにはあった。
部屋の中央では黒い執事服を着た背の高い男が立っている。
黒い長髪を一本に結わえ、鋭いモスグリーンの瞳はけれど柔らかく目元を緩ませていた。
「あらあら、芋娘ねぇ」
「え?」
一瞬、誰が誰に対して言ったのか分からなかった。
けれどバネッサの視線は執事から逸れず、もしやと見つめている。
「アンタよ、アンタ。いかにもって感じの農民衣装に、そのぼっろい鞄はなに? ――で、この子をレディーにすればいいのよね?」
「違うから」
ポカーンと執事を眺めるバネッサの口が思わず開いていた。それがより田舎娘に拍車をかける。
その場で呆然としてしまったバネッサとは別に、動じていない魔術師がやはりバネッサを部屋へと引き込み、とりあえず鞄を下ろさせソファーに座らせると執事に向き合った。
「で、準備はできてるの?」
「あったりまえでしょ、誰だと思ってるのよ。もう通していいわけ?」
「いいよ。あ、ついでになにか軽食を芋娘に頼むよ」
「分かったわ。昨日の芋料理が残ってるのよね~」
そう言って、バネッサたちの入って来た扉の向こう側へと執事がルンルン去っていく。
隣に腰掛けた魔術師は背凭れに身を預け、やはり我が家のように寛いでいた。
「あの、ここは……?」
「俺の家だよ」
「教会が家……神父様なんですか?」
「ははは、生憎と神に心酔はしていないかな。しがない魔術師さ。まぁ人には――」
と、そこで執事が戻ってきたのか、数回のノックのあと、扉の開く音がした。
「賢者様、失礼いたします。この度は我がソプラ商会のご利用ありがとうございます。本日務めさせて頂きますヴィクター・ヘイズと申します。以後お見知りおきを――聖女様」
開いた扉から現れたのは、恰幅の良い初老の男だった。オイルで撫でつけた白髪を後ろに流し、シンプルだが質の良い深緑の上下服をまとい、手には革で出来たトランクケースが握られている。顔に刻まれたシワが知見を感じさせた。
「……賢者様?」
「あ、そっち?」
自分が聖女と呼ばれたことなど聞こえていなかったのか、丸い瞳を見開いて魔術師を見つめるバネッサに肩を竦めると、魔術師は初老の男のほうへ首を傾げる。あっちに集中しなよ、と。それを見ていたバネッサは、慌ててその場に立ち上がると小さく頭を下げた。
「バネッサ・プロメルスです。聖女様ではなく、農家生まれの平民です。今日はよろしくお願いします」
「……ほぉ……いやいや、これは失礼しました」
「挨拶はその辺でいいでしょ。ほら、ヴィクターも座りなよ」
「ほほほ、では遠慮なく」
初老の男――ヴィクターがバネッサたちの対面にあるソファーに腰を下ろしたところで、ティーカートを転がしながら執事が戻ってきた。バネッサは魔術師に促され、鞄からドレスを出してはテーブルへと並べていく。
「これはこれは……随分と質の良いドレスですね」
「カルディア大国の王女様のドレスだそうだよ。そこも加味してつけてやって。なにしろ無一文なんだよね、この芋娘はさ」
「ほほほ、では張り切って買い取らせて頂かなくては」
バネッサの代わりに商談を進めていく魔術師を横目で見ていると、魔術師とヴィクターにお茶を出し終えた執事がティーカートごとバネッサの隣へとやってきた。「なにチラチラ見てんのよ、アンタはご飯を食べるのよ」と、高価なドレスを手で押しのけて場所を作ると、ほかほか湯気の立つ芋のスープと色とりどりのサラダ、数種類のパンが入ったバスケットを置いて行く。
「ちょっと……ドレスに飛ぶでしょ、あとにしなよ」
「なに言ってんのよ、この芋娘お腹すかしてるじゃない。お金も大事だけどまずは腹ごしらえでしょ」
「ん? 確かにろくなものは食べてないだろうけど、お腹空いてたの? 昨日の果実はどうしたの?」
魔術師の問いかけに応える前に、美味しそうな料理を目の前に『ぐぅう~』とバネッサのお腹が鳴った。
顔を真っ赤にしたまま「……資金がどうなるか分からなかったので……」なんて呟く少女の姿を見た一同は憐憫を覚えるのだった。