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屋敷の中は外観に反し、とても綺麗に保たれていた。
必要最低限の家具しかないため、あまり生活感を匂わせないが、どれも質の良いものだと一目で分かる。
そんな屋敷を魔術師が魔法で綺麗にしているのだと言うが、そんな使い方もできるのかとバネッサは驚いた。なるほど、これなら確かに使用人もいらないだろう。というか、魔術師は何者なのだろうか?
「ここなら土地に面している。寝泊まりはこの窓辺を使え」
「はい、ありがとうございます」
窓から出れば屋敷の横に面した干からびた土地に出られる場所を剣士に示されバネッサは大喜び。ずっと背負っていた大きな鞄を下ろし、思わず深い息を吐いた。肩が痺れてしまっている。
「お風呂やキッチンはあるけど、設備だけだから火や水は魔法でどうにかしてね」
「あ、はい、実家もそうでしたから大丈夫です」
「そう、じゃあ早速だけど、お風呂にしたら? 血と果汁でひどいよ、匂いが」
「……」
さも当たり前にいる魔術師に直球ドストレートを放たれ、バネッサは返す言葉もなくダメージを受けた。
兄がいるバネッサは土仕事を終えて真正面に臭いだの言われることもあったが、家族以外の男性に言われるとそのダメージは何十倍にもなることを知った。その上、その相手が正体不明とはいえイケメンであれば、より心が抉られるということを。
お風呂を使っていいのかと、恐る恐る剣士に視線を送ってみると、諦めたように「勝手にしろ」と承諾を貰えたので、バネッサはパンパンに膨らむ鞄から適当な着替えを取り出し浴室に飛び込んだ。
浴室は実家と同じように水を弾く材質のタイルで出来ており、湯船を張る浴槽の容器も火の魔法を通し熱を伝えるための穴がある。ここに向けて魔法を放てば、内部に敷き詰められた蓄熱作用を持つ鉱石が熱を通し、浴槽に注いだ水を温める。とはいえ、温まるまで時間を要するので、その間に血まみれの衣服も洗濯してしまう算段だ。
衣服をまとったまま、早速バネッサが浴槽に水を注ごうと魔法を放てば――。
バッシャーンッ!!!
「きゃあああっ!」
浴槽に向けて放ったはずの水魔法は頭上から大量に降り注ぎ、その勢いで浴室に転げてしまう。
「ここって魔族領が近いから、空気中に含まれる魔力が高いんだよね。いつもより加減して魔法を使わないと大変なことになるよって言いに来たんだけど、遅かったみたいだねぇ。ま、どうせお風呂入るんだし、濡れても大丈夫だよね。火魔法が先じゃなくて良かったね。あ、それからここっていつも暗いから時間の感覚ないけど、今って夜なんだよね。というわけで買い物は明日にしよう。じゃ、お風呂楽しんでね、おやすみー、あはははは」
と、浴室の外に来ていたらしい魔術師の笑いながら立ち去る声が聞こえて、バネッサはなんだか色々と、なにかが削られた。
そのあと、水魔法で加減を調べてから火魔法で水を温め、無事お風呂を済ませたバネッサが窓辺のあるリビングらしき部屋に戻るが、そこに剣士と魔術師の姿はなかった。代わりに、ウッドテーブルの上にナイフつきタザンの実が乗る丸皿が置かれていた。
しっかりと絞った農民衣装とエプロンを手に、バネッサは窓辺からバルコニーに出る。洗濯物を干したいのだが、ロープが見当たらず適当な手摺の上に広げて置いてから室内に戻った。
鞄から比較的飾りの少ない、汚れの目立つ売り物にはならない衣服を取り出すと、思い切って裾から裂いていく。これで横開きに広げた衣服は簡単なシーツになる。
その上に座り込んで、窓の外を眺める。夜だというが、来たときと同じ闇色の空が広がっているだけだった。
ふいに、お腹が鳴ってバネッサは立ち上がる。突き刺さったままのナイフを使い、皮を剥いたタザンの実を切り分け、二切れほど食べたところで止めておく。もし、あまりお金にならなかったら、食糧を買うまでに至らないことを心配に思ったのだ。
(色々買わなくちゃ。王女様から頂いたものはドレスばかりで実用性がないもの。タオルやシーツに代用するのも難しいから、その辺も買いたいな。でもやっぱり農具よね。苗と、クワと、肥料と、それから……)
タオル代わりに裂いて使った、王女の寝間着だったであろう柔らかな布地で果汁に濡れた指先を拭いて、再び簡素シーツの上に座り込む。
窓の外に広がる闇色の空は、星ひとつ見ることもできなかった。けれど、不思議と周りを視認できるだけの僅かな明かりがある。よく見れば、岩肌がところどころ発光していた。そのような鉱物が含まれているのだろう。それでも、バネッサが知る夜よりも辺りはずっと暗い場所だ。
「……あれ……」
ふいに、バネッサの頬に雫が伝った。自分が泣いていることに気づいて、バネッサは目元を強引に手で擦る。それでもなぜか、次から次へと溢れてきた。それに気づくと、今度は身体が震えだした。バネッサは胸の前で両手を交差させ、なにかから守るように身体を抱きしめた。
――……こわかった……。
そう、思った。
思っていたんだと気づいたとき、決壊したように溢れる涙が零れ落ちる。零れて、伝って、溢れて、止まらない。
考えないようにしていた溜め込んだ感情が一気に溢れ出す。
震える少女の身体では受け止めきれないほどの、たくさんの恐怖、不安、心配、激情。そして、寂しさ。
それでも少女は唇を噛みしめ、声を押し殺すことで尚も留めた。今、この場で泣き叫んでしまうのは簡単だけど、それはできない。
バネッサはようやく理解した。
自分はただ意地を張っているだけなのだと。
突然押し付けられた役割はただの面倒事でしかなくて。本当は誰でも良かったのだ。バネッサ・プロメルスという個人に価値を見出されたわけではない。ただ、いなくなってもいいから、それが理由。
けれど、王が用意した謝礼金の額がバネッサの価値ではないし、そもそもそんなものでひと一人どうにかできるわけもない。だが、それを主張することで受ける被害は甚大だ。
なぜなら、バネッサは平民で、王は一国の主だから。力のない人間では覆すことのできない絶対的な権力が、バネッサの人生を勝手に塗り替えた。
ささやかな夢を絶たれ、出会うこともなかっただろう魔獣に死の恐怖を与えられ、助けてはくれたが得体の知れない男たちは自分の仲間でもなく、不安を和らげ支えてくれる家族も、楽しみを分かち合う友人もここにはいない。簡素なシーツの上で座り込む少女はそれまでの人生にあった当たり前の日常を、幸せを奪われたのだ。
(……でも、私は生きてる)
ひしゃげた泣き顔のまま、バネッサは前を向く。涙のせいで視界は濡れているが、はっきりと見えないからこそ、外にそびえ立つ岩肌の発光が星の輝きに見えた。
(野菜作りだって失敗することもある。失敗したら対策を考えて、そうしてお父さんもお母さんもお兄ちゃんも、村の皆も美味しい農作物をいっぱい作ってきた)
その輝きは、故郷で見た星空のように美しかった。
(王様に逆らうことはできなかったし、私はそれに甘んじたけれど……でも、ここでなにもせず家に帰ったら、私は自分で自分を不要だって認めることになる)
だから、意地でもいいじゃないか。
金銭で人の価値を決めつけ、面倒事を押し付けた王への対抗心でもいいじゃないか。
(それに、ひねくれているけれど、ここが危険だからって追い返そうとする剣士様も、多分悪い人ではないのよね。魔術師様も明日、買い物に連れて行ってくれるもの。私、あのとき死んでもおかしくなかったのに、こうして生きてるじゃない。それに、……それに私、助けてくれたお礼をちゃんとしたい)
聖女だなんて大層な存在じゃなくても、できることはきっとある。
もしも追い返される結果になったとしても、どうなるか分からなくても、今、自分がしたいと思ったことを精一杯頑張ってみる。
それでいいじゃないか。
(ひねくれているから、言葉だけじゃお礼を受け取ってくれないだろうし……だから、美味しい野菜を作って、それを食べてもらいたいな。そして、そのとき今度こそ、ちゃんとお礼を言おう)
一度頷いたバネッサはシーツの上に横になった。涙が溜まる瞳を閉じて、溢れてくる雫を止めることなく布地を濡らして。
たくさんたくさん、今は泣いてしまおう。
涙を流したまま、聖女契約のときから抑えていた感情を受け入れ、バネッサはその日、穏やかな眠りについた。
バネッサ・プロメルスはどこにでもいる平民の少女だ。けれど、彼女には夢がある。
この枯れ果てた大地で、故郷で育んできた農作物のような美味しい野菜を作りたい。
少女にはささやかな、とても小さな小さな、しかし大きな夢がある。