5
深い闇の広がる枯れた森の中、獲物を覆い尽くさんとそびえ立つ岩肌の絶壁に囲まれて、いつ壊れてもおかしくはない腐りかけの屋敷が建つ。
その玄関前の干からびた地面の上に、白い丸皿に乗せられたナイフの突き刺さるタザンの実が置かれている。そんな異様な皿の前に、バネッサは正座していた。
屋敷の出入り口である玄関前の柱に背をつけ、剣士はバネッサを見つめている。玄関前の階段に座りながら、魔術師は剣士とバネッサを交互に見ながら楽しそうに笑っていた。
――結果的に言うと、バネッサは剣士を刺すことはできなかった。
剣士はできなかったのだから送り返すと言い放ち、いいじゃん面白いから置いておきなよと魔術師が否定し、とりあえず丸皿を借りたバネッサはタザンの実とその果汁を避難させ、疲労から座り込んでいた。
「大体さぁ、送り返す役目の俺が引き受ける気がないって言ってるんだから、諦めなよ。キミはあっち行きたくないでしょ?」
「……じゃあお前が引き取ればいいだろう」
「いやいや、また動物拾ってきたのかって怒られちゃうから無理だよー」
男たちの会話はよく分からないが、とりあえず犬猫扱いされたことを理解したバネッサだった。
「あの……」
「んー?」
おずおずと手を上げたバネッサに、それまで威圧的だった魔術師は比較的親しげに応える。今度はなにを言い出すつもりなのか、長い前髪の下で剣士は顔をしかめた。
「私、お屋敷の隣の土地を少しお借りするだけで、構わないんです。そこに住まわせて頂けませんか?」
「え? 魔獣に食べられたいの?」
「え? お屋敷の近くにまで来るんですか?」
「ううん、彼を怖がって来ないけど。キミ一人食べるくらい、見計らってできるとは思うよ」
そう言われてしまえば、黒い獣を思い出してバネッサは上げていた手を膝に戻した。
なにもモンスターと呼ばれる存在を見るのは初めてではない。森に出る魔物の多くは人間の貴重な食糧だし、家畜に適した魔物などはより身近な存在だ。好戦的で危険だが、人里を襲う習性はなく、剣士の屋敷がある土地なら安全だろうと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
そこで、ふと思い出す。
「あの、ここは魔獣が出るんですか? 魔物じゃなくて? 魔獣って、魔族の住んでいる大陸にしかいないって……」
「うん、そうだよ。魔族と人間の住む大陸のちょうど中間だからね、ここ」
「え?」
世界の大陸は、大きく分かれてふたつある。
ひとつがバネッサが過ごしてきた人間たちが住む大陸。
もうひとつが人型を模した知力の高い魔族、獣型の好戦的な魔獣と呼ばれるかつての脅威、魔王の血肉から生まれたとされる危険な存在が住む大陸。
魔王の闇から大量に生まれたとされる魔物はかつての戦いでどちらの大陸にも分布し、いつからか人間が食糧、家畜と見出したことで共存にある。
そして、魔術師が言うにはこの枯れ果てた森は人間と魔族の住む大陸のちょうど中間だと言う。
「危険な場所に好き好んで住みたいのか」
「……」
睨みつける剣士を見上げながら、なるほど、道理で剣士は頑なに追い返したいのだと、ひねくれじいさんを思い出すバネッサだった。
「そもそも、キミはどうしてそんなに拘るの? 安全な場所に送り返すって言われたなら、そっちのほうが無力なキミにはいいんじゃない?」
「そうですが……私、王様から謝礼金を頂いています」
馬鹿正直に応えるバネッサに冷えた視線を向ける二人の瞳は、なんだそんなものか、と言いたげだ。
「いくらだ、倍出そう。それで帰れ」
「え? いえ、それは無理です」
金で動くのなら話は早い。金額を問う剣士の申し出にバネッサは即座に謝絶した。
「王様は、私に与えた役目の対価として謝礼金を払ってくれました。私は、その対価を果たすのが道理です。いくら倍の額を出されても、それを破棄することはできません」
「意味が分からない。多く貰えるならそれで得するのだろう?」
「いいえ、剣士様」
ゆっくりと首を横に振ったバネッサは、おもむろに目の前の丸皿に乗せられたタザンの実を手のひらで示す。
「私がナイフを突き立ててしまったこのタザンの実は、傷があるからと価格は低くなります。ですが、傷がなければとても高い品質です。価格は何倍にも膨れ上がるでしょう。そうして、このように品質を見て市場に流通させるため、計算して適正価格をつけることは簡単です。ですが、王様は品質ではなく、その品質を生み出す労力……つまり対価である私に金額をつけたのです」
「……まどろっこしい、なにが言いたい」
「王様は、私という労力に金銭という心を示すことで契約してくれたのです。その信頼を裏切ることは、できません」
王族相手に信頼などと口にするバネッサの、やはり馬鹿正直で純粋な人柄に剣士は顔をしかめた。
「……分からんな。仮に信頼で動いたとして、お前はこんな場所でなにをするつもりだ。俺はほぼ戦闘に出歩くから使用人は必要ない。世話を焼く相手もいない屋敷で、毎日暇を潰しながら死ぬまで居座りたいというのか?」
「いえ……その、お借りした土地で菜園をしたいなぁと……」
「ぶふっ!!」
それまで成り行きを見守っていた魔術師が吹き出すも、さして気にもしていない剣士はなにが照れくさいのか、菜園を口にして頬を赤らめるバネッサを見下ろしていた。
やはり、分からない。
言っている道理は分かるが、それはつまり謝礼金として支払われた金額分の価値でしかない、と自分を認めているようなものだ。
かといって聖女ではないからと卑屈になっているわけでもなく、自分のできる範囲を示してきた。
だが、それに基づく心こそただの綺麗事だ。
目の前にいる、この女はただの綺麗事を宣う小娘だ。
見た目おおよそ十五、十六の世間知らずの小娘だ。
だから刺せと言えば代わりに果物を刺しましたと、あっけらかんと言えるのだ。
――ならば、綺麗事だけではどうにもならない現実を知らしめてやればいい。
「……いいだろう。屋敷の隣の土地で良いと言ったな、そこに住めばいい。勝手に死なれても後味が悪い、土地に面した窓辺に寝泊まりすることも許してやる」
「え……!? ほ、本当ですか……!」
「ただし、お前がやりたいという菜園が失敗した時点で帰ると誓え。それができないというなら、今すぐ帰れ」
剣士の長い前髪から覗く紫紺の瞳を見上げながら、バネッサは花開いたように笑みを浮かべる。
「はい! 誓います!」
満面の笑みで宣誓するバネッサを階段から眺める魔術師は、面白くないと目を細めた。
剣士の屋敷が建つこの枯れ果てた大地において、魔族の住む大陸から自生してきた枯れ木以外、植物が根付かないことを知っているから。
見た通りの飢えた土地からそれを推測できないほど、世間を知らないただの小娘が剣士の元から追い出される結果が目に見える。そんな気持ちで眺めていれば、笑みを浮かべたままバネッサが魔術師に顔を向けた。
「あの、先ほど送り届ける役目って言ってましたよね。どこの国でも構わないのですが、どこかの都市に連れて行ってくれませんか?」
「は?」
「土地を耕すために色々準備したいんです」
「え……と、キミお金持ってる……んだったよね、謝礼金があるんだったね」
「いえ、王女様から頂いたドレスを売ってお金にしたいので、都市がいいんです」
「え? 謝礼金……」
「全部実家に届けてもらってます。それで、連れて行ってもらえますか? できるんですよね?」
「あ、うん、い、いいよ」
前言撤回。
希望などないにも等しいが、もしかすると菜園が成功しなくとも、もしかするとこの少女ならなにか面白いことを引き起こしてくれるのではないか。魔術師は失いかけた興味を持ち直した。
バネッサと魔術師のやり取りを見ていた剣士は、もしや自分は間違った選択をしたのではないか、と思わずにはいられない。
当のバネッサは、夢の菜園計画に思いを馳せて大喜びだった。
「……ん? ちょっと待って、王族と信頼があるんだよね? それ王女様のドレスって言ってたけど、信頼と善意で貰ってるんじゃないの? それ売っていいの?」
「はい、この衣服は私への支度金だそうなので」
「うん? それでも王女様の気持ちがこもった信頼なんだよね?」
「ですから、有効活用するのが道理かと」
「んーと……王族のこと、信頼してるっていうのは……」
「はい、聖女契約の場に限り、信頼に値する相手だと思っています」
「……あ、ふーん」
魔術師は思った。あれ、この子もしかして結構合理的じゃない? ――と。
そんな二人のやり取りを見ながら、やはり剣士は自分の選択を疑わずにはいられなかった。