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 バネッサ・プロメルスには夢があった。


 なんてことない、実家を継ぐであろう兄と共に畑を拡大すること。そして、いつか出会えるであろう男性と恋に落ち、結婚すること。平民である少女の願う可愛らしい夢だ。


 けれど、そのどちらも叶えることができなくなったバネッサは、今度は置かれた状況下で新たな夢を描いた。

 伝説の英雄たる剣士の住まう土地を少しだけ借りて、菜園しようという小さな夢を。



 老人御者と別れたあと、王女の古着でパンパンに膨らむ鞄を背負ったバネッサは、夕日に染まる森の中を歩き続けた。


 裾の広がったレモンイエローのワンピースドレスに、白い腰巻エプロン。王に用意されたカルディア大国の農民衣装を纏い、編み込みブーツで土を踏む。老人御者に渡した髪飾りでまとめていた亜麻色の、肩甲骨まで伸びる長い髪はバネッサの歩みに合わせてサラサラと靡いていた。ターコイズブルーの瞳で辺りを見渡しながら、ふと視線が留まる。


 それは、バネッサの故郷でも育てているタザンの果樹だった。

 村の皆で育てている果樹よりも立派なそれは、食べ頃のタザンがいくつも実っている。


 近づいたバネッサは木の下に荷物を下ろし、慣れた様子で樹皮に足先を引っ掻けると、手を伸ばすだけでは届かなかったタザンの実をひとつ、ふたつともぎ取っていく。夢の菜園計画に、果樹園が加わった瞬間だった。


(森の深くに住んでいるんだもの、きっと広い土地があるはずだわ。菜園用の畑も想像以上に大きくできるかもしれない)


 頬を緩めながら畑の広さはどうしよう、なにを育てよう、などと考えながら鞄を背負い直し、バネッサの手のひら大ほどのタザンの実をふたつ、大事に抱えながら再び歩み出す。


 ――唐突に、踏み出した先の景色が変わった。


「え?」


 夕日に染まる生い茂る森の中から、気づけば辺り一面が闇色に染まる枯れた森へ。

 葉の一枚も生えていない細く曲がった乏しい枯れ木が不規則に並び、割れた表面を剥き出したままの倒木が道を塞ぐ。土は干からびたように固く、風が吹けば土埃が舞った。なによりも、夜より深い深い闇色の空が延々と頭上に広がっていた。


 思わず来た道を振り返るが、そこには先ほどまでいたはずの森はなく、物悲しい枯れ木があるだけだった。途端に恐ろしくなったバネッサが持ち直す間もなく、どこからか獣の唸り声が聞こえる。


 道を塞いでいた前方の倒木の上に、それはいた。


 漆黒の毛に覆われた見たこともない狼のような獣。血のように真っ赤な瞳がバネッサを見下ろしている。鋭い牙が見え隠れする口元からは、濁った唾液が滴っていた。


 ――疑問に思うこともなく、バネッサは死を直感した。


 獣から視線を逸らすこともできず、大きく震えた膝が崩れ落ちる。抱えていたタザンの実が音を立てて地面に転がった瞬間、黒い獣は倒木からバネッサに飛びついた。

 泥水のような唾液をまき散らし、根元が赤黒く変色した牙を見せつけるように、冴えるほどの真っ赤な口腔を広げて、獣がバネッサの首に飛びついた。


 死の間際、走馬灯が浮かぶというがバネッサにはそれがなかった。

 なにかを思い浮かべる間もなくただ、目の前の死が来るのだと、それだけを感じていた。

 ひどくゆったりとした、あまりにも一瞬のこと。せいぜいできたことと言えば、目を瞑るだけ――バネッサの瞼が閉じられた瞬間、大量の鮮血が飛び散った。生温かく、受け入れがたい強烈な臭さ。喉奥から込み上げてきた嗚咽を吐き出しながら目を開けたバネッサは、闇色の森には不釣り合いな白銀を見た。


「……え……?」


 銀色に透ける白髪の隙間からこちらを見下ろす紫紺の瞳。目の前にいる白銀が人であることを理解しながら、飲み込むことのできないバネッサの視線が徐々に下がっていく。白銀の足元に転がる獣だったはずの塊は、綺麗なまでにふたつに裂かれていた。晒された断面図を数秒見つめていたが、先ほど自分が感じた生温かい鮮血がそこから吹き出たのだと思い、バネッサは自分の身体を見下ろした。

 レモンイエローのワンピースドレスも、白い腰巻エプロンも、赤黒い血で染まっている。そうか、これはあの黒い獣の血だ。やっと思考が追い付いたとき、獣の血から漂う強烈な匂いにもう一度、バネッサが嗚咽を吐き出すと目の前の人間は歩き出してしまった。


「あ……っ、まっ、まって!」


 バネッサの呼びかけに足を止めた人間が振り返る。


 改めてよくよく見ると男性だった。歳は青年ほどだろうか。宝石のような綺麗な色味をした紫紺の瞳は、けれど濁ったように生気がない。バネッサ同様、いやそれ以上に血を浴びた黒いローブは男の高い背丈を首から足元まで覆い隠し、重たげな黒い革靴の底も赤く変色している。うなじまで伸びる短髪だが、反して目を隠すように長く伸びた白い前髪。視認できる口元は、一文字を結んでいる。そして、男を覆うローブの下からは、血を滴らせる抜身の剣先が覗いていた。

 

「剣士様ですよね!? 私、カルディア大国から参りましたバネッサです! バネッサ・プロメルスです……っ!」


 ただの勘でしかないが、目の前の男が伝説の英雄たる剣士だとバネッサは思った。そう思ったときには声をかけており、助けてもらったお礼をしていないことに気づいて立ち上がると、ふらつく足を正して軽く頭を下げた。


「助けて頂きありがとうございま」

「帰れ」


 と、バネッサの礼を遮りただ一言、それだけを言って男は歩き出す。バネッサは地面に落ちたタザンの実を拾い、慌てて男のあとを追った。


「あのっ、私、確かに農家の生まれで戦闘には不向きです! 聖女様でもありません! ですがっ」


 あとを追うバネッサを一瞥しただけの男の視線に、バネッサの言葉は止まる。

 先ほどの獣よりも鋭い視線に射抜かれただけで、呼吸を忘れて全身が震えた。黙ったバネッサを放って先を行く男の背をしばらく眺めるだけだったが、黒い背中を見失う前にもう一度、男を追いかけた。


 追いついたバネッサを咎めるでもなく、一瞥するでもない男は枯れ木の道を歩き続けた。歩幅は大きく、駆け足で必死に追いかけるバネッサ。緩むこともない速度を保ってどれくらいだろうか。枯れた森の中、突然それは広がった。


 横一直線に伸びる長い長い岩の断崖。

 垂直に迫るほどの高い壁は森と断崖を隔てる境界線のようにずっと向こう側まで続いている。

 その壁の一部に、へこみがあった。まるで楕円状の巨大な筒で上から綺麗に切り抜いたようなその場所に、ぽつりと佇む古い屋敷。

 

 屋敷の周りにも草木はなく、元々は綺麗だったはずの家屋は痛みを放置していたのか、全体的に腐りかけている。

 切り抜かれたような岩と岩との途切れ目の、向こうに見える屋敷は廃れているせいかひどくおどろおどろしい。


 そんな屋敷の出入り口であろう両開きの二枚扉が開く。外観の侘しさに反して、輝くような金色が見えた。扉から現れたのは、男だった。


 肩まで伸びる金の髪、知的なモノクルが右目にかかり、成熟したワインのように深みのある赤い瞳がバネッサの姿に驚いているかのように僅かに見開かれている。剣士だろう黒いローブを着た男とは相対的に、金髪の男は一目で分かる白い魔術師ローブを纏っている。


「はは、血まみれだねぇ。怖かっただろうに」


 と、魔術師が苦笑を浮かべるが、剣士だろう男も、自分に言われているとも思っていないバネッサも、二人共黙っているので魔術師は大袈裟にため息をついた。


「それで? その子はどうするの?」


 今度は明らかに剣士に問いかけたのだ、と思って黒い背中を見つめるバネッサ。視線に気づいたのか、横を振り向き視線だけを向けてきた男はなにも言わず、颯爽と屋敷の中へ消えて行った。

 残されたバネッサは玄関で腕組をしている魔術師に声をかけようとするが、その前に戻ってきた剣士が小型のナイフをバネッサの足元に投げ捨てる。まさか、これでさっきのような獣を撃退しながら帰れってこと? そう思ったバネッサが呆然とナイフを見下ろしていれば。


「それを拾って俺を刺せ」


 と、意味の分からないことを言われてバネッサは剣士を見上げた。だが、こちらを見下ろす紫紺の瞳はやはり、なんの情もない無そのものだった。


「なに、聖女たちに課した通過儀礼さ。彼は不死者だからね、例え心臓を貫いても死にはしないよ」


 多分フォローだろう言葉を投げかける魔術師の言葉に、バネッサはますます混乱した。それと同時に、こちらにナイフを投げ捨ててきたこの男こそ件の剣士であると確信した。


「……あの、これからお仕えする剣士様を刺す意味が分からないのですが……」


 なので、極々普通の疑問を素直に口にした。のだが、魔術師はケラケラと笑いながら「そうだよね~」とまるで他人事である。


「彼はね、各国が用意した聖女なんて求めていないし、使用人も必要としていないんだよ。もちろん、女もね。各国の王族が勝手に送り付けてくる聖女たちも、これまで何度も追い返してきたしね。だけどそれじゃあ困るって聖女たちが言うから、条件を出すことにしたんだ。不死者である彼を刺すことができたら置いてあげるって。死ぬことはない男を刺すだけさ、簡単だろ? まぁ、自分にはできませんって泣くばかりだから、誰もクリアしたことはないけど。でもそうだよね~、聖女として来たんだから、人を刺したらダメだよね~」


 魔術師の説明に改めて剣士を見上げるバネッサは思い出した。

 故郷に住んでいたひねくれじいさんと呼ばれていた老人を。



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