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「大陸の悪魔……?」
続く拍手の音に掻き消されたと思ったバネッサの問いに、気持ちの良いほど爽やかな笑みを浮かべたままの王が応えた。
「話すと長くなるが」
というので要約すると――この世界には聖女伝説がある。
遥か昔、闇の力を操りし魔王が現れ、世界を闇で覆い尽くさんと人間たちに襲い掛かる。
屈強な戦士も、歴戦の剣士も、聡明な魔術師も、どれも魔王に敵わず、人間は深い絶望の中、ただただ滅ぼされることを待つしかなかった。
そんなとき、突如として光を纏いし少女が現れ、仲間たちと共に光の力で魔王を討ち取る。
たくさんの人がこれに感謝した。まるで女神のような眩い少女を、人間の救世主を、人々は畏敬と謝意を持って聖女と呼んだ。
幼子であれば、誰しもが一度は見聞きしたことのある、夢物語のような絵本の内容。
過去にあった史実だが、これには続きがある。
光の力で魔王を圧倒していく聖女たち。最後の抵抗として魔王は聖女に呪いをかけようとした。しかし、それを庇った剣士が呪いを受けた。
呪いとは、不死。周りの者たちが寿命を全うしこの世を去っても、決して家族や仲間と共に死ぬことを許されない永遠の孤独。
自身の代わりに呪いを受けた剣士の側に、その命が尽きるまで聖女は共にいたという。
そんな世界の救世主たる聖女の意志を汲んで、聖女の死後、大陸の国々が順番に剣士の元に聖女と認めし少女を送り出す。
聖女は死を迎えるそのときまで、剣士に仕える……そんな大陸の国々の密約――それが今世の聖女の役割だという。
伝説の続きなど普通は知り得るものではないのだから、これには最初、バネッサは興味深く聞いていたが、その結論になんとも言えない気分になった。なんというか、輝かしい夢物語のままでいて欲しかったような。
「あの……ではなぜ、悪魔なのですか?」
いつからか拍手を終えた王族たちは、今度はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべてバネッサを見ている。王は応える。
「この世界には未だ魔族や魔獣が存在するが、この侵攻を伝説の英雄、剣士であるその男が一人で食い止めている。今や伝説の英雄はその気になれば世界を支配できる力を持った。人間では到達し得ない力に、我々は聖女を差し出す。まるで悪魔に生贄を捧げる縮図だろう? なに、ただの呼び名だ。本当の悪魔ではない――恐らくな」
あぁ、なるほど。つまり、魔族を食い止める剣士はありがたいが、あまりにも強いので逆らうのも怖い。昔は救世主たる聖女に倣って少女を送る儀礼も、今や面倒事でしかない、ということか。そして面倒事を押し付けられているのが今の自分、というわけか。
聖女だと膝をつかれたときから感じていた違和感の正体をやっと知ることができたバネッサは、納得できたことに肩の力を抜く。王の不穏な呟きは届かず、そのまま深呼吸を一度。今になって気づいたが、王妃か王女か、今まで嗅いだことのない香水の匂いが呼吸と共に胸に広がった。
これだけの香りにも気づかないほど、自分はずっと緊張していたのだ。自身の気持ちがある程度落ち着いたことに気づいたバネッサは、ひとつひとつ噛み砕きながら頭の中を整理していく。
「さて、バネッサ・プロメルス。聖女としての大役を任せた貴殿に感謝の印として、ご家族への謝礼金を用意している。安心して聖女の役目を果たすといい」
ぶっちゃけて言うと、大金を用意してやったのだから逆らうな、である。
そもそも、伝説の裏側とやらを聞かされた時点で、バネッサは自分にはどうすることもできないことを理解していた。ただの平民、悔しいが事実だ。断っても逃げても、王族の権力の前では最悪、一家まとめて断罪されてしまうだろう。
「ありがとうございます。不安ですが、頑張ります」
聖女引き受けます、頑張りますと頭を下げたバネッサに王族たちはくすくすと嗤っている。平民は金で簡単に動いてくれる、と馬鹿にした嘲笑だ。
「では、聖女契約として書面に起こして頂けますか?」
「うん?」
しかし、頭を上げたバネッサの要求に、今度は首を傾げている。同じように、自分はなにか間違ったことを言っているかとバネッサは首を傾げた。
「え……? これは、契約ということですよね……? 王族の方々は聖女様を必要としていて、私は万が一にも聖女様ではありませんが、引き受ける代わりに謝礼金を受け取る。双方が承諾した事項を証文に起こす。たとえトマトひとつでも金銭が発生した場合、私の両親や知り合いの農家や商家の人たちは書面に起こしてきました。これは、平民の常識であって王族の方々には失礼に値するのですか?」
けして馬鹿にしているわけではない。バネッサはこれまでの人生で培った知識に基づき純粋に問いかけている。
それに気づいた王の口の端がひくひくと戦慄いた。
「あぁ、もちろん、書面に起こそう」
「わぁ、良かった! やっぱり王族の方々もこうして書面に起こすんですね!」
それまで緊張していたバネッサの、年相応の無邪気な笑み。小賢しい悪人共が使う揺さぶりなどではない、無知なる少女ゆえの純心。
メイドに声をかけ書類を用意させると、簡素な文面を記した王はそれでも笑みを浮かべたままサインした。だが、この王に謝礼金を払う心積もりなど端からなかった。剣士の元に厄介払いしたあとで、破り捨ててしまえばいい。
自らがサインした書類をバネッサに見せる。内容を目にしたあと、納得してからサインを続ける少女を馬鹿な貧乏平民だと見ていた。
サインを終えたバネッサが、王を、王族たちを見る。
「私、感動しました……! 実家の手伝いをするのですが、農作物の売り買いで渋る人も多いんです。渋る人は十分な吟味を重ねて、結果的に双方満足する商談を結ぶのですが……たまに、最初から快く買ってくれる方もいます。そういう方は大抵悪知恵を働かせていたり……あぁ、お得意様は別ですけど。ですから、私とても感動しました。こうして快く契約してくれるお相手が王様だからですよね、始めから信頼できるなんて私、とっても感動しました! こういうこともあるんですね、勉強になります!」
と、これまた無邪気にそんなことを言うものだから、王族はぎこちなく笑う他ない。すごい、すごいと褒め称えられれば嫌な気もしなくなってきて、ハハハ、おほほと高笑いまでしてしまうが、王だけは顔を青ざめていた。
国々の密約、今や敬意を失った聖女を送り出す儀礼は各国にとって負担でしかない。
そうそう産まれるわけもない聖女と同等の価値ある王女を送り出していた過去もあるが、そんなことを馬鹿正直にするわけもなく。カルディア大国、国王も同じように自らの損にはならない平民の中から適当にバネッサを選び、聖女の役目を押し付けた。そんな相手に謝礼金を渡すつもりなど毛頭なく、書面に起こしたところで破り捨ててしまえば問題はなかった。はずだった。
だが、悪意ではなく素直に『平民がすることを王族はしないのか?』と問われてしまえば、それに応えるしかない。もしも破棄すれば、平民がすることをしない王、ということになる。
プライドだ。金と権力で頭がいっぱいの、人々は知ることのない愚王のプライドが平民以下だと自分を認めることを許さない。
バネッサはバネッサで、面倒事を押し付けるために聖女だと告げてきた王たちの嘲笑に疑っていたが、契約としてサインした相手が一国の王であれば、人柄ではなく肩書で絶大な信頼を自分の中に落とし込むことができることに、それはそれは心から感動していた。
幼い頃から、手塩にかけて育てた農作物を売る両親の姿を見てきた。
自分だけが少しでも得をしようと悪知恵を働かせ契約を持ち出す人間をバネッサは知っていたし、人は人を簡単に騙そうとすることも知っている。
だが相手が王であれば、人としてちょっとどうかと思うが、それが些末に感じられるほど、商談の場に限り信頼できることに驚いた。この世には自分が知らないことがまだまだあるのだと、学びとして素直に感動している。
「で、では、契約に基づき貴殿には明日、聖女として剣士の元に送り出す」
「はい! 王族の方々の契約を、信頼を裏切らぬよう、役目に努めます!」
ドゴォッ! と王の鳩尾あたりに純心バネッサの追撃が放たれる!
崇められ、自尊心をくすぐられる他の王族の笑みの中で、もうさっさと追い出してしまおうと心に決める王だけは疲労を浮かべていたが、悟られぬよう必死に笑ってもみせる。
嘲笑ではなく花々しい王族の笑みを見て満足げなバネッサは、目の前にいる高貴な方々を『やっぱり王族っていう肩書はすごいのね』などと認識を改めながら微笑み返していた。