泉 鏡花「妖術」現代語勝手訳 六
六
早く降りればいいのだ、とばかり、斜めの方向に階段が見える。一帆も自分が恥ずかしくなって、もうこれ以上は待っていられなくなった。
しかし、端へ出るのさえ、未練が残り、金を騙し取られたのだ、と思いたくない負け惜しみも引き摺っており、角の所へも出ないでいた。なぜかがっかりと気落ちして、その横手から降りて、路をグルリと回るのも億劫でならないので、何とか、はじめてふらふらと前へ出て、元の本堂前の廻廊を回り、欄干に沿って歩く。しかし、さっきの来がけとはがらりと勢いが変わって、中折れ帽子の鍔も深くし、顔を伏せて欄干を伝うその様子は、我ながらたどたどしいものだった。
と、あの大提灯が目の前に、釣り鐘のようにぶら下がった気がした。ぎょっとして、ハッと正面へ間抜け面した顔を上げると、右横の前庭の片隅に、何と、季節外れの綺麗な錦木が一本植わった風情でもって、あの女が立っていた。辺りに人もなく、一人、蛇の目を半開きにして、真っ白な横顔と、濃く映る髪の生え際を鮮やかに見せ、美しく目で迎えて莞爾とした。
「たんと待たせて……」と、馴れ馴れしく言うのは、自分が遅くなったと言うのではなく、逆に待たされて恨んでいるとでも言いたげだ。
この女には言葉では敵わない。と、手を大きく広げて、ぐっと近づき、
「どこにしましょう」
「どちらでも、貴方のよろしいところで」
「じゃ、ついてきてください」
「いいですわ」
と、もう相合傘の支度をする様子で、片袖を胸に当てる。そうすると、その姿が柄よりもほっそりして見える。
女はすらりとして背が高い上に、高島田なので、一帆と並ぶと蛇の目傘の下、いい具合に一対となる。
で、大金に入った時には、舟崎は大胆にも、自分で傘を持っていた。
しかし、後から考えると、真打ちの女太夫に、長い柄の傘を恭しくさしかけた絵となっていて、舟崎の写りはよろしくない。
通されたのが小座敷で、先ほど言ったその四畳半である。廊下を横に曲がると、通い口が隠れたように引っ込んでいて、目立たないところにその一間がある。
風流な造りになっていて、天井は低く、畳も青々として、床の間の柱も立派なものだと思われた。壁に掛けられた籠には、豌豆のふっくりと咲いた真っ白な花が、蔓を短くして投げ込み風に活けてあり、それが窓からの光りで、明るく灯をともしたように見え、梅の花よりも一層ほんのりとして、部屋も暖かく感じる。
注文を聞いて、丸髷に結った女中が、しとやかに襖を閉めて行った後、舟崎はここに来るまでも汗ばんできたのに、またこうして部屋に籠もったものだから、火鉢を前にして羽織を脱いだ。
女はそれを取って、すらりと扱いて、綺麗に畳む。
「これは恐縮、いいえ、それには……」
「まあ、好きにさせてくださいな」
と、壁の隅の自分の傍へ、小膝を浮かして、さらりと置き、片手でハンカチを捌きながら、
「本当に、ちっと暖かすぎますわねぇ」
「私はのぼせているので、本当に堪りません」
「陽気のせいですね」
「いや、貴女がいるから」
「そんなことをおっしゃると、ほら、もっと傍へ」
と、火鉢をぐいと押してきて、
「そのかわり、働いて、ちょっと開けてさしあげましょう」
と、柔らかな物腰で捻った着流しの帯の、お太鼓の結び目より低いところに、ちょうど背後の壁を仕切って、細い潜り窓の障子がある。
カタリと引くと、直ぐ前に囲いの庭があり、敷松葉を綺麗に掃き終えた後らしく、蕗の葉が芽吹いた様な感じで、飛び石が五、六枚目に入る。
そして、柳の枝折戸に四ツ目垣。
と、その垣根の向こうを、首を伸ばして覗こうとする女の、鼻筋の通った横顔と斜違いに、月影に映った梅の枝のような大きな船の舳がぬっと見えた。
「まぁ、これはいいわねぇ」
と、嬉しそうに、女はなぜか仇気ない笑顔になった。
つづく。
次回最終話。