泉 鏡花「妖術」現代語勝手訳 四
四
門の下で、後ろを振り返ってみた時、どこかの店に寄ったのか、傍に外れてしまったのか、仲見世の人通りは霞んだ雨にちらほらとしかなかったけれど、女の姿はなかった。
もうこれっきり会えないのではないか、とは思わなかったけれど、一帆は急に寂しくなった。
寂しくはあったが、妙に気持ちも切り替わってきて、しばらくは何もかも忘れて御堂の階段を……あの大提灯の下を小さく上って、厳かな廂を……欄干に添って廻廊を左へ曲がり、角の擬宝珠のところで立ち止まって、何やらホッと一息つき、雫が垂れるまでには濡れていないものの、じっとりと濡れた帽子を脱いで、額をハンカチで、ぐい、と拭った。
「素面だからな」
一帆は自分に言い聞かせるようにため息をついて、片方の頬に手をやって、ゴシゴシこすったまま、欄干に肘をついて、グルリと境内を見回した。
気の早いものは、もう番傘をたたんで、懐手をしながら高下駄で悠々と歩く者もいる。……そうかと思うと、今頃になって、一目散に駆け出す者もいる。こんな風に、人の心は様々で、あちこちに行くらしいが、さあ、これから奥は御堂の背後である。そこは世間の裏とでも言おうか、二人を隠す卑怯な相合傘なんかにも後れをとらない場所だぞと、肩をそびえさせるまでに一人気負い込むと、雨も霞んでひやひやと頬に触る。ポツリと一滴、雫が顔にかかるのは酔い覚めの水か。さあ、何が起こるか……と、ぞくぞくして期待に胸がときめく……。
が、見渡しても、どこにも女の姿はない。
「馬鹿な、それっきりか……、いや、そうなんだろう」
と、自らその思いをうっちゃる。
大提灯の付近に、はたはたと翼の音がして、紫の棟の陰の、天女が籠もっていそうな廂から、鳩が二、三羽つっと出て、ひらひらと、雲は暗いが、早くも晴れかかる銀杏の梢を矢大臣門の屋根へ飛んだ。
胸を反らして空模様をうかがう豆売りの婆さんの前を、控えめな足取りで、着物の裾細く、蛇目傘をちょっと前下がりに持ちながら、すらすらと歩く、撫で肩の細い女は……確かに。
スーッと傘をすぼめて、御手鉢へ寄った時は、着物の色が美しく湛えた水に映っているのではと、この離れた欄干から見える思いだった。
……折から、その道筋には、例の女ただ一人。
水色のハンカチをはらりと艶めかしく口にくわえた時、肩越しに振り仰いで、チラッと廻廊の方を見上げた。
臆面もなく、女を待っているかのようにそこに立っていたのが、きまりの悪い気がして、見られた拍子にふらりと動いて女には背を見せ、後ろ向きに横に廻る。と、そこには……。
パッパと田舎の親父が掌に煙草の火種を転がして、煙管の脂を取るのにズーズーと音を立てて吹いている。くく、とどこかで鳩の声。茜色の着物を着た姉さんたちが三、四人。鬱金色の着物の婆様に、菜の花畑色の嬶も交じって、口をアングリ開けていた。
が、そこにいた連中、「あっ!」とビックリ仰天してバラリと退くと、そこの横手の開き戸口から艶やかな女が、すうと姿を現した。
本堂に詣ったのが、一回りして、一帆の前に現れたのである。
すぼめた蛇目傘に手を隠して、
「お待ちになりました?」
言葉と一緒に、ほんのりと花の薫りが……。
「いいえ、ちっとも。……ゆっくりお詣りなさればいい」
「貴方こそ、先にいらっしゃって、待ってくださればよかったものを。こんな外にいらっしゃったら飛沫がかかって冷たいでしょうに」
さっさと先に行けとか、待っててくれとか言われても、どこで待てばいいのか、そんな約束は何もしていないが、こうなったらもう度胸が据わって、
「だって、雨をくぐって、一人でびしょびしょになって歩けますか」
「でも、その方がお好きなくせに……」
と言って、肩で自然に嬌態を作り、片手でちょいと帯を押さえた。帯留めが少し摺って、……薄いがふっくりとした胸を包む緋色の鹿の子絞りの下〆が、八つ口から溢れたように打ち合わせの繻子から覗いて見える。
その間に、キリリと挟んだのは、煙管筒? いや、そうではない。象牙骨の女扇を挿している。
今、手で押さえたのは、帯が緩んだのではなく、その扇子を一息深く、ぐっと挿し込んだらしかった。
つづく