泉 鏡花「妖術」現代語勝手訳 三
三
もう、女はいない……。
その現実に、正直気落ちしてしまった。
ストンと溝へ落ちたような気持ちで電車を降りると、大粒ではないが、包み込むように細かく降りしきる雨である。中折れ帽はその雨を弾く元気もなく、もうどうでもいいような気になってきた。
濡れそぼった帽子の鼠色の鍔をぐったりとさせながら、意地を張るように、吾妻橋の方も、本願寺の方も振り返らず、最初からここに来るのが目的だったのだと言わんばかりに真っ直ぐ広小路を突っ切って、仁王門が真正面に見えるところまで足を運んだ。
仲見世の敷石は、雨に濡れても、所々白くむらむらと斑になって、まるで雨の色で花簪や箱狭子(…箱形の紙入れ)や輪数珠などが敷石に落ちた形に見え、まるで多くの人で混雑しているかのようだ。そんな仲見世から御堂の方へ傍目も振らず足を伸ばす。
その辺の豆屋で、パチパチと豆を焼く匂いが雨を蒸して顔を暖かく包む。
その時だった。広小路で電車の口から吐き出された乗客は、あたかもさぁーっと漁師が打った網の裾のように、一度混雑の波に消えていったのだが、やがて向きの変わった仲見世へ、再び手元を絞ってすらすらと手繰り寄せられた感じでもって、さっきの女が現れた。肩を落とし、雪かと思うほどの白く細い襟足を見せ、紺の蛇目傘を柳のような嫋やかな身体に引っかけて、艶っぽくさしながら、駒下駄の音軽く、着物の褄をはらはらとさせて、一寸急ぎ足でやって来た。
と思うと、女は左側から躊躇わず、真ん中へすっと寄ってきて、一帆と肩を並べたのである。
なよやかな手を半ば露わにして、そこにひらりと友禅の袖を搦めて紺の蛇目傘を差し掛けながら、
「貴方、濡れますわ」
と言う。瞳が動いて莞爾。その女、着物から漂う香木の薫りが陽炎のような糠雨にしっとりと籠もって、傘が透き通ってしまうのでは、と思えるほど、近くで見ればなお一層美しい。
一帆の濡れた額は気持ちのいい汗になって
「いいえ、構わない、私は」
と言ったが、これは決して素っ気ない気持ちで言ったのではない。
「だって、お着物が……」
「何、外套を着ていますから」
別に知り合いでもない女に、言葉を交わすのをおかしいとも思わないで、こうして二言三言、話しているうちにも、つい傘を差し掛けられたままで、五、六歩歩き始めていた。女がかざす傘の中に一緒にいると、片方の手に綺麗な花の枝を携えているような感覚があり、意識しすぎるのか、そちら側の袖が何だか重いような心持ちであった。
「人が見ます」
一帆はそう言うが、どうしてどうして、人が見るどころか、注目されるように、人々が行き交う中を二人、急ぎ足で、美しいしぶきを立てて、仲見世前を逆らい、御堂へ続く道を上っていくのである。
また、誰かが見ないにしても、本堂からは門を筒抜けて、一直線にずっと見通せるのだから、お宮さまでないのがせめてものことで、もしも鏡があれば、二人の姿はありありと映ることになるだろう。
「ご迷惑?」
気持ちを察したように小声で言うのが、これまた色っぽく、少し蛇目傘を傾けたせいで、目隠しが取れたよう。一帆は気持ちまで少し明るくなって、
「迷惑どころじゃ……。しかし、穏やかではありません。独り者が随分通りますよ」
と、やっとのことで苦笑したのだが、
「それじゃ、別っこに……」と言うなり、女は拗ねた風にするりと一帆から離れた。
と思うと、袖を斜めにして、ちょっと隠れる仕草をしつつ、傘と共に一帆の方へほっそりした背を見せて、そこにあった絵双紙屋の店を覗めた。けばけばしく彩られた種々(いろいろ)の千代紙が滲むように雨に縺れて、中でも紅色が映えて、女の瞼をほんのりと染めたのである。
今度は一帆の方が女の側に寄るようにして、
「どちらにいらっしゃるのです?」
「私?……」
と、傘の柄に左手を添えたが、それが重いものを持った時のように身体が撓った。
「どこへでも」
その言葉は聞き流して、返答はせず、一帆はゆっくりと歩き出したが、少しの風にも雨がふわふわと浮き立つ中に、一帆の足もどうやらふらふらしているようである。
つづく