Prologue(3/3)
遂にプロローグがお終いです
そこは夜でありながら、呼吸を忘れるほど明るかった。
輝く星の群れに照らされた空は、黒というよりも紺のビロードのように見える。
光の無い田舎では満天の星空を眺める事が出来ると言うが、おそらくは地球上のどこであっても、これほどの空は見られまい。
疑う事も無くそう思うほどに、見上げる空は澄んでいた。
対して足元では、風が草の海を波立てている。
穴を潜る前に感じていた夏の熱気は、この涼やかさの前に払われていた。
まるで清流で水浴びをするような爽やかさだ。
景色の美しさに忘れていた呼吸を思い出す。
文明の汚れを知らない空気を胸いっぱいに含もうと、鼻から思い切り空気を吸い込み
「……!? ぐっ!?」
あまりの息苦しさに吐き気がした。
乗り物酔いのように気分が悪くなっていく感覚。
呼吸の度にゼラチンを吸い込むような不快感は強くなっていき、気が付くと俺は膝をついて喘いでいた。
もしや、毒か!?
あり得ない話ではない。
俺達はここが何処かも確認しないままやってきた。
であるならば、大気が地球のものと同質であるとは限らない。
人体にとって有毒な成分で構成されているなら、ここは生命を拒む死の世界だ。
一旦元の場所に戻らなくてはと、通ってきた穴があるはずの背後を見る。
だが、穴はとっくに閉じてしまったのか、影も形もなくなっていた。
「ルイ! 落ち着いて! 口と鼻の周囲に障壁を作るから、そしたらゆっくりと深呼吸をするんだ!」
ホープが俺の顔を手で覆うと同時、不可視のマスクが口周りを覆うのを感じる。
すると、少し不快感が楽になった。
ホープの言葉に従い、慎重に空気を肺に取り込んでいく。
「ルイ、大丈夫かい?」
「ありがとう。おかげで助かった」
「どういたしまして。きっと、魔力に酔ったんだと思う。魔力って言うのは本来、人体にとって好ましいものじゃないからね」
二酸化炭素みたいなものだ、とホープは付け足す。
二酸化炭素は大気中に存在する猛毒だが、普段は濃度が低すぎるため人体に異常はもたらさない。
だが、濃度が上がると、それは途端に人体に害を与え始める。
それと同じで、俺はこの世界の濃密な魔力によって気分が悪化したのだと、ホープは結論付けた。
「よし、落ち着いたようだね。とりあえず、その障壁の操作権はルイに渡しておくから、ちゃんと維持しておくように」
「わかったよ」
不可視のマスクの所有者が自分に移るのを感じながら、短く返事をする。
障壁の維持のためにごく僅かに魔力を取り込み、口元付近へと流していく。
……よし、これなら直接魔力を吸い込むより大分マシだ。
「……にしても、これほどまでに濃密な魔力だとはね。さっきの石片を見つけた時の事を思い出すよ」
「ん? 何かあったのか?」
「うん。その時も、こんな風に濃い魔力で満ちていたんだよ。ほら、魔力だまりが出来ていたって言ったろ? その中で活動する時も、こうやってマスクを作って対処したんだ」
なるほど、ホープの的確な対処は似たような状況を既に経験していたからか。
「さて、それはそうとして。ここは一体どこなんだろうね」
「いや、神様の世界じゃないのかよ」
「あはは……。何でか直感でそう思っただけで、確証もなく飛び込んじゃったから」
「やっぱり考えなしだったのか!」
「うぐ……。軽率だったことは反省してます。でも、でもさ! こんな高濃度の魔力に満ちた場所って言うのもすごいと思わない? まるで、別の世界に来たみたいだ!」
異世界とはまた夢のある話だが、そうではないとも言い切れない。
何せ、短時間で気分を悪化させてしまう程の魔力など現実では考えられない。
少なくとも、この草原は俺たちの知る常識とはかけ離れている事くらいは理解できる。
「とにかく、付近を確認しよう。近くに村とかがあると良いんだけど……」
「そうだな。せめて食べ物くらいは確保しないと」
やはり、何の準備も無く飛び込んできたのは迂闊だったという話。
俺自身焦っていたとはいえ、何も持たずにホープに着いてきてしまったのだから何も言えないが、実はすごく不味い状況なのではなかろうか。
そもそも、ここに人間は存在するのだろうか。
何の用意も無ければすぐに体調を崩す程の魔力に満ちた、こんな場所に。
「おや、あれは……?」
二人して辺りを見回していると、気になるものを見つけたのか、ホープがそんな声を上げた。
彼の視線の先を追うと、そこには人影のような物がある。
夜の闇のせいでシルエットしか見えないが、星の光でかろうじて見えるそれは、確かに人の姿がこちらを見ているようだった。
「ルイ、人だ! 僕達は運がいい。どうやら、この辺りにも人はいるみたいだ! あの人に、この辺りの事について色々と教えてもらおう!」
「おい、ちょっと待てよ! そうやって軽率に動いて痛い目に遭った事、もう忘れたのか!」
「大丈夫だって! ほら、ルイも早く! 大体、何もせず突っ立ってるわけにはいかないだろ? 何かしら行動を起こさなくちゃ」
人影に向かって走っていくホープを慌てて呼び止めるが、無駄だった。
けど、確かに立ち尽くしていても時間の無駄だ。
あのホープの人懐っこさなら、初対面で敵意を向けられる事も無いだろう。
できれば、言葉が通じればいいなぁ、なんて呑気な事を考えながらホープの背中を追って草原を走っていく。
だが。
そんな楽観は、次の瞬間に跡形もなく消し飛ばされた。
影が腕を振るうと同時。
俺達と影の間に、赤く巨大な炎の柱が姿を現したからだ。
「なっ…………!?」
天よ焦げよとばかりに立ち昇る炎と、それにより吹き付ける熱風が容赦なく肌を焦がしていく。
ワケが分からない。
この炎が何を意図して放たれたのか、分からない。
分からないけど、迫る炎壁に直撃すれば命は無い事くらいは分かる。
「くっ……! ホープ!」
巻き込まれれば死ぬ。
そう即断すると、先を行っていたホープの手を掴んで横に跳ぶ。
炎はすんでのところで俺達を掠めていくと、背後の草原に容赦なく突き刺さり、周囲に高熱をばら撒いた。
なんだ、この威力は。
今、あいつは魔術を使ったのか……?
あんな威力の魔術を使って、平然としていられるのか……?
魔術というのは、発生させる現象が大規模になるほど体に通す魔力も大量に必要になる。
当然、感じる痛みだってそれに伴って増大するものなのだ。
だが、今の塔みたいな火炎を放っておきながら、あの男はいたって平然としている。
「あ、アンタいきなり何をするんだ!」
「そうです! ボク達はちょっとお話を伺いたかっただけで、貴方に害を与えるつもりは全く無かったのですよ!」
死にかけた事で気が動転している。
上擦った声のまま、たった今の行いを問い質す。
夜に見知らぬ男二人が走り寄ってくれば、確かに何事かと思うだろうが、それにしたって今のは過剰防衛だ。
あるいは言葉が通じなかったにせよ、近づく前に殺そうとするなんて。
「フン。対話だと? 下らん。貴様ら人間などと交わす言葉は無い」
あざけるような男の言葉
なお悪い事に。
ソイツは俺達の言葉を理解していて、その上で此方に攻撃を仕掛けていたらしい。
「そも、人間の言葉など信じられるか。害意は無い? だったら、俺達を害する事無く死んでいけ。物言わぬ灰になって初めて、俺はお前たちを信じてやるとも」
男の右腕に炎が灯る。
その光で、男の顔があらわになった。
ゾッとするほど冷たい視線が、こちらを射殺さんと睨んでいた。
風になびく、灰色のローブ
短く切りそろえられた銀髪。
猟犬を思わせる凛々しい顔立ちは、忠実かつ遊びの無い雰囲気を纏っている。
彼が持つすべての要素が、一切の慈悲なく。
――――お前たちを焼き殺す。
そう告げているようだった。
「ふ、ふざけるな! なんで俺達が殺されなきゃいけないって言うんだ! こうやってお互い言葉が分かるのなら、少しくらい話を聞いてくれたって……!」
「そうだよ! 大体、信用できないって言ったって今のはやり過ぎでしょ! ボク達は何もしてないじゃないか!」
「フン、どうせ獲物を一匹見つけたとでも思ったのだろう? だが、甘かったな。その節穴の目でも理解できるよう、俺の力を刻み付けてやる。その上で死んでいけ」
駄目だ、まるで話が通じない。
銀髪の男は再び炎を手に灯すと、それを槍のように放ってくる。
いや、槍は鋭い刺突を主とする武器。
その炎の凶悪さは、いっそ破城槌のような、阻む者を砕くためのそれだった。
「ぐっ――――!? 事象破却!!」
とっさにホープを庇って腕を突き出す。
腕に込めたのは強化ではなく、むしろその真逆。
触れた事象を崩壊させ、無に帰す事象の破却。
この掌には、あらゆる現象を解く消滅の力が宿っている。
だが、
「ぐ、うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅゥ!?」
経験した事も無い激痛が、体の中を跳ねまわった。
体内に直接熱湯を注がれたような痛みに視界が混濁する。
不意打ちのような衝撃に失いかけた意識をどうにか繋ぎ止める。
危うく解けかけた術式を持ち直すのと、炎の槍が着弾するのはほぼ同時だった。
「ぐがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
破裂する。
破裂する。
先ほどの比ではない痛みで、全身の肌が破れたと錯覚する。
ルイ・レジテンドという個体の認識を遥かに超える激痛。
知らず叫び出していたという事実すら、遠い世界の他人事のように感じる。
それほどの凄まじい苦痛の世界も、じきに終わりを迎えた。
「――――――ル、イ?」
自分の名を呼ぶ声で、白化した意識と視界を取り戻す。
眼前には、草原に容赦なく重機を賭けたような跡が残っており。
それは銀髪の男の前から俺のすぐ前まで伸びていた。
「――――――え?」
まさか、あれを防いだのか?
信じられないが、俺もホープも生きている以上事実なのだろう。
「チッ…………! まったく生き汚ない。潔く燃え尽きればよいものを」
いや、状況は変わっていない。
どうやったのかは知らないが、一発防いだところで、あの術者は健在なのだ。
ならば、何度でもあの炎を放つまでの事じゃないか。
それこそ、俺が力尽きるまで何度でも……!
冗談じゃない
あんな激痛をもう一度?
そんなの、とてもじゃないが正気で耐えられる訳がない。
「ぐっ……!? Gather and gather!」
背後から叫ぶような声が聞こえると同時、五つの刃が銀髪の男目掛けて飛んでいく。
ホープが作り出した水の剣――ホープも、あの男を放置してはならないと判断したらしい。
やられる前にやれと高速で射出された刃は、しかし
「下らん」
再び男が放った、強大な炎の壁によって容易く蒸発した。
「そん、な…………」
「流石は人間、最後の抵抗すら不愉快だったな。では、今度こそ終わりにするぞ。我が主に、余計な気苦労を負わせるわけにはいかんからな」
男の右手に炎が宿る。
その仕草を見て、堪らず怒りが噴き出した。
なんで俺達がこんな目に遭っている。
訳も分からぬまま殺されかけなくちゃいけない……。
なんで、こいつはホープの邪魔をするんだ……!
「死ね」
男の声と共に放たれたものは、天に遡る滝のようだった。
地から噴き出る炎の滝が天に向かって落ちている。
そんな炎の壁が、こちらに向けてものすごい勢いで迫って来る。
あれは、躱せない。
逃れるには広すぎるし、速すぎる。
背を向けた途端、俺達はこの草原に骨を晒す事になるだろう。
故に、俺に許された一手は真っ向切って受け止めるのみ。
先の激痛などどうでもいい。
そんな苦しみに身構えるなど、ホープを守り切ってからにすればいい。
第一、ここでホープを守れないのなら、俺は何のためにこの力を磨いて来たのか……!
右腕に消滅の術式を込める。
流れ込む、マグマみたいな大量の魔力。
受け止める右手には、暴力的なまでに乱れ舞う火炎。
体に感じる灼熱は、内外からルイ・レジテンドという存在を削りに来る。
下らない。
そんな激痛は、怒りを以て踏みつけろ。
今はとにかく、この炎の津波を突破するだけを考えろ…………!
「ぐ、ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
発狂しそうな熱さに耐える。
正気を焦がす灼熱地獄。
知らない。
アイツが何者かなんて知らない。
俺が苦しんでる理由なんかいらない。
俺はただ、
「ルイ!」
背後から聞こえるホープの声。
そう、ただこの声を守る為に立ち塞がるのみ。
気が狂う? そんなことは有り得無い。
この声を守る為なら、最後の一欠けが燃え尽きる時までこの炎を阻み続ける……!
分厚い壁、視界すべてを橙に染め上げていた炎が薄れる。
消滅を纏う掌が、炎の波を食い破って行く。
分厚い橙の城壁を打ち砕く、決意で編んだ消滅の破城鎚
それを思い切り打ちだして――――体の限界なんて知らないままに――――焼死の運命を踏破した。
薄れていく熱気。
炎の波は、俺達が通れるだけの隙間を残して通り過ぎ、やがて消えてしまう。
「貴様、いい加減に――――――」
銀髪の男の瞳に、これまで以上の殺意が灯る。
天空に向けて掲げられる手、そこから吹き出す大蛇のごとき炎の渦、その数合計六匹。
「ホープ! ここは俺が受け持つ! 俺を置いて早く逃げろ!」
振り返らずに、男を睨む。
ここから先は一匹だって通さない。
高揚した気分に引っ張られ、魔術の冴えは人生最高記録をマーク中。
あんな蛇ごとき、一握りで潰してやる!
先んじて疾走する炎蛇二匹に対し、両手に消滅を装填する。
体が砕け散りそうな痛みを感じながら、受け止めた蛇の頭を握りつぶす。
そうして、残る四匹を迎え討とうとして
自らに殺到する、牙を見た。
俺の消滅は、手を起点に行う魔術だ。
だと言うのに、前後左右から同時に襲い来る炎など処理出来ないし。
先に迎え討った炎蛇で術式を使い切ってしまい、再起動など間に合わない。
故に、詰み。
こうなってしまった以上、俺のみの力では死を受け入れるしかなく。
「え?」
風が吹いた。
否、そんな生易しいものではない。
この草原を大地ごと削りかねないほどの暴風が、瞬間的に巻き起こったのだ。
「何っ!?」
風はその軌道上にあった物を巻き込みながら、俺の眼前を薙ぎ払う。
容赦なく寸断され、蹴散らされ、かき消される炎蛇の群れ。
それを見て、炎を放った男も俺もあっけにとられている隙に。
「ほら、逃げるよ君たち! 舌噛むから口は閉じたままでいるように!」
鈴のような、少女らしい声を聴く。
直後、ふわりと体が浮く感覚を味わった。
「うわ!? な、何!?」
「くっ! 逃がすか!」
俺は何者かに小脇に抱えられている。
そう理解すると同時、目の端に、再び極大の炎が打ち出される瞬間を見た。
大木の幹をも凌駕しそうな業火は、真っ直ぐ俺達に迫ってくる。
「ふふん、残念だったねいじめっ子! 生憎だけど、このまま逃げさせてもらうよ!」
それを、事もなげに圧殺する大気の槌があった。
ズドン、と落されたダウンバーストが、真空の空間を作り上げる。
直後、バックドラフトによって巻き起こる爆風を利用して、俺達を抱えたまま、女は飛んだ。
三百メートルを一息で滑空する。
まるで人の形をしたジェットコースターばりの勢いで、少女は草原を駆け抜けた。