駆け落ちのすすめ
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「このこと、宗辰さんは?」
「話したことはありません。しかし、薄々察していると思います。ーーあなたには、理解できないかもしれません。ですが、伝統を守るためには、そうした犠牲も払わなければならないのです」
「そんな……そんな、人の犠牲の上に成り立つものが伝統だとでも仰るんですか。天真さんの様子がおかしくなるのも、当たり前じゃないですか!」
ーーあのまま……死んでればよかったのに。
天真さんが宗旦狐のことをそう言った意味が、今ならわかる。
天真さんはきっと、自分の存在意義を失いかけてるんだろう。
そして、もしかしたら、宗旦狐のことを恨んでる。
「ですから、私は天真のため、あなたにお願いをしに来たのです」
お願い?
斎玄さんは、真っ直ぐあたしを見つめていた。
「宗辰と、どこか遠くへ逃げてもらえませんか。金はこちらで負担します。関東地方を出ていただければ、どこでも構いません。とにかく、綾子の目が届かないところへ逃げて欲しいのです」
「……つまり、後継は、天真さんにさせたいと思っているんですね?」
斎玄さんは力強く頷いた。
「綾子はきっとそれを許しません。しかし、宗辰が離れれば、諦めもつくと思うのです」
そもそも、綾子さんは宗旦狐を後継にしてどうしたいんだろう。
宗旦狐を後継にしたところで、夫が愛人をつくったという事実は覆らないのに。
もし、あたしが綾子さんならーーいや、きっと、同じように思っただろう。
宗旦狐に愛人をつくられて、子どもまで為されたら、それだけで気が狂いそう。
あたしもきっと、宗旦狐との子に執着してしまう。
それは、嫉妬というよりーー正妻としてのプライド、だろうか。
そう考えると、綾子さんのことを完全に憎むことなんてできない。
「綾子さんともう一度、話をさせてください。お返事は、それからさせて頂きます」
そう答えると、斎玄さんは驚いたように目を丸くした。
「本当に、強い方なんですね。あんなことがあったのに、綾子と会ってくださるんですか」
「あたしも綾子さんと同じ女です。ですから、綾子さんの気持ちが全くわからないわけではないんです。斎玄さん、後継のことは、綾子さんと話されましたか?」
「いいえ。綾子は私の顔を見るとヒステリックになるので、家の中でも顔を合わせられないのです」
「それでも、一度綾子さんとはきちんと気持ちを伝え合った方がいいと思います。怒鳴り合いでもなんでも、ちゃんと綾子さんの気持ちも聞いてあげてください」
その方がすっきりすることもあるしさ。
あたしがこう言うと、斎玄さんは俯いて自虐的に笑う。
あたし、この自虐的な笑顔嫌いだ。
どうしても、実父を思い出してイライラする。
「あなたのようなお嬢さんに説教されるとは思いませんでした」
あたしだって、中年のおっさんにこんな説教するとは思ってなかったわ。
……でも、さすがにちょっと礼を欠いてたかな。
「……口が過ぎました。すみません」
「いいえ、あなたの仰りたいことはよくわかります。私は夫としても、父としても最低ですから」
そう言って、朝倉家当主はコーヒーを一口飲んだ。
自覚がある分、タチが悪い。
あたしはそう思いながらミルクティーを飲みきった。




