人間ってめんどくせえ
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巧さんは、怪我についてあれ以上のことを問い詰めてくることはしなかった。
帰り際、
「俺がこのこと言ったことは、内密に願います。あの人、俺が子どもの頃から怒ると怖いんで」
と、いたずらをしでかした子どもみたいな顔をした。
いつも宗旦狐に対する巧さんの口調は敵意剥き出しだけど、本心はやっぱり尊敬してるらしい。
それにしても、巧さん今日はよく喋る。
こんな人だったんだ。
「ありがとうございました。朝倉先生、幸せ者ですね。巧さんみたいに慕ってくれる人がいて」
「いいえ……俺は、ただあなたに……」
突然、巧さんは目を伏せて言い淀んだ。
「いえ、美月のことでいろいろとお世話になったので、その恩返しみたいなもんです。どうか、幸せになってください。ーー失礼します」
そう言って、巧さんは資料室を出て行った。
あたしはその背中を見送りながら、やっぱりシスコンだなあと呑気に苦笑した。
巧さんが帰ってから、宗旦狐に電話をかけた。
『はい、朝倉です』
授業中かなと思ったけど、割とすぐに出た。
そうか、今日平日だから、塾の授業は夕方からだ。
「あ……月川、です」
『なるみさんから連絡してくれるなんて、珍しいですね。どうかしましたか?』
「あの、今日、お仕事の後に会えませんか。話が、あるんです。会って、直接お話ししたいんですけど」
『わかりました。授業休んで、これから会いに行きますね』
と、宗旦狐はあっけらかんとこんなことを言った。
なんてわかりやすい喜び方だろう。
見えない尻尾振ってる宗旦狐の姿が、目に浮かぶよう。
「いや、休まなくていいです。あたしが、先生の家の方まで行くので。先生の家の最寄駅で待ち合わせでいいですか?」
『うちに来るんですか?』
急に、宗旦狐が訝しむような声を発した。
「だめ、ですか?」
『いえ、あの、別れ話とかではないですよね?』
「……はい」
多分。
『なんですかその間は!俺のなにがいけなかったんですか!?捨てないでください!俺、なるみさんに好かれるならなんでもします!体重だって増やしますから!』
「なんでそこで体重の話が出てくんですか!別れ話じゃないって言ってんじゃないですか!」
別に自分が肥えてるからって、男の人も肥えてる人が好きってわけじゃねえわ!
『……本当に、違うんですね?』
「違います」
多分。
きっと。
『わかりました。今日の授業は十八時に終わるので、十八時半に駅で待ち合わせでいいですか?』
「はい。待ってます。それじゃ……」
『なるみさん!』
と、電話の回線切ろうとした途端名前を叫ばれた。
「はい?」
『好きです』
「はいはい、それじゃ!」
あたしは、今度こそ回線を切った。
どんだけ不安になってんだよ!
別れ話をするつもりはなかった。
ただ、宗旦狐にちゃんと天真さんのことを話しておきたかった。
それに、宗旦狐に聞きたいこともある。
今後のことはそれを全て知ってから、決めよう。
「あー、人間ってめんどくせえ」
あたしは、そう呻き声を上げて机の上に顔を突っ伏した。