ただただ楽しかっただけのとき
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「美月、ちょっとお手洗い行ってきます」
あたしが話し終えると、美月ちゃんは席を外した。
足音が遠ざかるのを確認してから、桜花さんがあたしに顔を寄せて小声で聞いてくる。
「兄貴から、昔の話聞いたの?」
「さなえさんのことですね。聞きました」
「そう」
桜花さんは、悲しげに目を伏せた。
「……さなえは、いい子だったわ。本当に、いい子だった」
桜花さんも、さなえさんとは親しかったらしい。
肘をつき、遠い目をしてこんなことを言った。
「あんなことがあってから、東城家とは兄貴の婚約解消後からますます疎遠になったわ。パパが、東城家に莫大な金を握らせて縁を切ったらしいの。だから、さなえの話は家族とはできなくなっちゃった。でもね、子どもの頃、兄貴とわたしとさなえの三人で遊んだことをときどき思い出すの。ーーなんにも知らなくてよかった、ただただ楽しかっただけのときを」
あたしは、なんて返事をしたらいいのかわからなかった。
きっと桜花さんも、宗旦狐と同じようにさなえさんを背負ってる。
……桜花さんには、ちゃんと気持ちを理解してくれる人がそばにいるんだろうか。
「わたしは、兄貴の選択が間違ってたとは思わない。でも……もっと早く、選択してあげてたらとは思うのよ。今更、こんなこと言っても、さなえは戻ってこないんだけどね。ーーあらやだ、ごめんなさい。こんなこと、なるみんに話すことじゃなかったわあ」
「いえ、いいんです。あたしも、一緒に背負うって約束したんで。お話ししてくださって、ありがとうございます。あたしでよかったら、いつでも聞かせてください」
それで、桜花さんが楽になれるなら。
それに、あたしもちゃんと知っておくべきだと思うし。
「なるみん……あなた、いい女だわ」
と、桜花さんの手が伸びてあたしの頰に触れる。
それとほぼ同時に、資料室の扉が開いた。