そんなこと、させない
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「俺が、大学に進学して一ヶ月後くらいでした。自宅で、首を吊って死んだそうです。近くには、『ごめんなさい』とだけ書かれたメモがあったと聞きました。ーー俺はきっと、間違ってたんだと思います。もっと、彼女の気持ちを理解してやればよかった。幼馴染だったのに、なにもわかってやれていませんでした」
宗旦狐は、歯を食いしばって静かに泣いていた。
あの日、大旦那が言ってた「娘も殺す気か」って言葉。
あれは、さなえさんのことを言ってたんだ。
宗旦狐を愛していたけど愛されず、自ら命を絶ったさなえさん。
大旦那はそのさなえさんと、美月ちゃんを照らし合わせてたのかもしれない。
だからあんな必死に、美月ちゃんを宗旦狐から遠ざけてたんだ。
「俺は、さなえの葬儀にすら出られませんでした。さなえの両親は俺が婚約を破棄したとき、既に朝倉家と縁を切っていたんです。俺の顔も見たくなかったでしょうね。ーーそれからは、さなえが望んだとおりになろうと思いました。さなえはもうこの世にはいませんから、せめて、さなえが望んだとおり、心から愛せる人を探そうと思ったんです」
宗旦狐は、涙を浮かべながら、自嘲気味に笑った。
「いろんな女性と付き合いました。両手では数え切れないほど。でも、どの女性と付き合っても、さなえの影は消えませんでした。さなえのために誰かを愛そうとする俺は、初めから誰も愛すことなんてできやしなかったんです。ーーいや、そもそも、さなえのためでもない。誰かを愛そうとすることは、さなえのことを理解してやれなかったことへの、贖罪だったんです」
自分の心を慰めるため、さなえさんの望むように人を愛そうとした宗旦狐。
もし、それが本当なら、あたしはーー
「教えてください。先生があたしに好きだって言ってくれたのは、さなえさんへの贖罪、だったんですか。大河原先生から庇ってくれたときも、火事の中から助けてくれたときも、全部、贖罪だったんですか」
宗旦狐は、しばらく黙って宙を眺めていた。
でもやがて、その目を閉じて口を開く。
「いいえ。たぶん、俺は本気でなるみさんが好きでした。ーーでも、好きになればなるほど、さなえの影は濃くなります。さなえを殺した俺は、人を好きになる資格なんてなかったんです」
「ーーそれは、違うと思います」
あたしは、宗旦狐の手を取って宗旦狐を真っ直ぐ見つめた。
「だって、おかしいじゃないですか。自分の道を選んだだけで、人を好きになる資格がなくなるなんて。ーーそれに、さなえさんはきっと、先生が誰かを愛することなんて望んでなんかいなかったはずです。そうじゃなきゃ、自殺なんてするはずがないじゃないですか。さなえさんは、先生に愛されたかったんです。誰でもない、先生だけに愛されたかったんです。だから、先生のこれまでの贖罪は、全部無駄です。ーーさなえさんは、もうこの世にはいません。先生はこれから、誰かを好きにならなくても、死ぬまでずっと、さなえさんを背負って生きていくしかないんです」
ーーまるで、夏目漱石のこころの先生だ。
こころの先生は、自殺した親友のKの十字架を背負って死んだように生き、そして自らもKから奪うくらい愛した妻を遺して死んだ。
そうか。
大旦那の、宗旦狐が一人になったら死んでしまうのではないかという、漠然とした危機感は、ここにあるのかもしれない。
いつか、宗旦狐がさなえさんを追って死ぬかもしれないことを案じてたんだ。
でも、そんなこと、させない。
絶対。
「ーーあたしにも、背負わせてくれませんか」
あたしがこう言うと、宗旦狐は赤くなった目を見開いた。