暁
聖典教会の一画にある修練場から、床を蹴る音が響き渡る。
ラドは一人、早朝から肉体訓練行っていた。
先日のウェーガとの戦いで己の非力さを痛感したラドは、能力がない分皆の足を引っ張るわけにはいかないと、こうして時間を作って鍛錬に打ち込んでいたのだった。
素早く拳を突き出すと共に、息を擬音のように吐き出す。
「しっ………!」
始めてから一時間以上経過しているが、休む事無く鍛錬を続けているが為に全身汗だらけで、額は勿論服も汗が滲んでいた。
「あれ、ラド?」
突如、修練場の入口から覚えのある少女の声が聞こえてくる。振り返ると、ウルが不思議そうな目でラドを見ていた。
「ウル!?ど、どうして………?」
「時間の空いてる時は、よくここで鍛錬してるから………。ラドもなの?」
普段は小柄な体格に合わないポンチョとフリルのスカートを穿いているウルだが、今日は運動用の薄手のシャツに長ズボンを着用している。
その所為かいつもより、より女性らしい体のラインがくっきりと見て取れた。
「う、うん。恥ずかしいところを見られちゃったかな。」
ウルはラドの近くに歩み寄ると、手持ちのタオルでラドの額の汗を拭いた。
「そんな事ないよ。でもラド、無理はしないでって言ったのに………。」
珍しくウルの表情が若干曇る。余程心配だと言うことなのだろう。
「ごめん………でも、皆の足は引っ張りたくないんだ。」
自身の力不足が皆の足枷となり、結果として命を落とす危険性が極めて高くなる。
団体で行動する以上、それだけは何としても避けなければならない。
「そうだ、ウル。僕と組手してもらえないかな?」
「………自分で言うのも気が引けるけど、私そこそこ強いよ?」
ウルの能力については承知しているが、運動方面に関しては全くの未知数であった。
その強さを確かめると共に、今の自分の力がどこまで通用するのか試してみるいい機会であると思った。
「うん、だからこそお願いするよ。どうかな?」
ウルは少し考えるような間を空けた後に「分かった。」と小さく返事をしてタオルを床に置く。お互いに少し離れ、深呼吸をしてから構える。
しばしの静寂が訪れ、緊迫した空気が二人を包み込む。その間も、ウルは微動だにしない。
その集中力は凄まじく、目の前の標的を、まるで獲物を仕留める虎のような視線で見据えている。
鋭い紅色の眼光に、ラドに緊張が走る。いくら練習の組手とは言え、本気でかからないと怪我どころですまないだろうと感じさせた。
「………いくよ!」
先に仕掛けたのはラドだった。
素早く地面を蹴って、ウルに詰め寄ろうとする………が、いつ移動したのだろうか、気付けば既にウルの姿はそこになかった。
「後ろ。」
声と共にラドの体は宙を舞い、あおむけの状態で地面に叩きつけられた。
すぐさま体勢を立て直そうと試みるが、ラドの目の前には、ウルの拳が寸止めされていた。
「………私の勝ち。」
一瞬だった。何が起こっているのかさえ把握出来ないまま、敗北を喫していた。
「ラド、手加減した?」
「いてて………そんな訳ないじゃないか。本気だったよ。」
「でも、さっきのラド殺気がまるでなかった。」
先程ウルから感じていたのは殺気であった事を理解した。
「私が相手だからって気を緩めたら駄目だよ。それこそ、その油断が命取りになるから………。」
ウルの言う事は尤もだった。どんな相手であれ、戦う以上決して気を緩めてはならない………ラドは、自身の覚悟の甘さを感じた。
「ごめん、ウル。もう少し付き合ってもらってもいいかな?」
「ん、いいよ。」
美しい漆黒の髪をかきあげつつ、優しい手を差し伸べてくれる。
ゆっくり引き上げてもらって体を起こし、再び距離を取る。
今、自分の目の前にいるのはウルではない………敵。そう心に認識させて、全身を研ぎ澄ます。
「………ッ!!」
覚悟を決め、再び先に仕掛ける。
今度は敵の姿を見失うようなミスは犯さない。的に向けて力一杯右手の拳を突き出す。
だがそう易々と当たる訳はなく、敵はそれを左手で受け流して、右脚を脇腹目掛けて放ってくる。
すぐさま半歩後退して、片足だけになった足元に狙いを定める。
しかしその手は既に読まれていたらしく、敵はそのままの勢いで斜めに体を回転させて宙に舞い、再度右脚を放ってくる。
虚を衝かれたラドは、かろうじて両手を交差させてそれを受け止めるが、敵はその隙を見逃さない。
素早く脚を引っ込めると同時に、矢継ぎ早に左、右、左、右と風を切るように拳を突き出してくる。
そのキレのある一撃一撃を受けるのが精一杯になっているラドに対して、敵はさらなる追い討ちをかける。
拳を突き出すふりをして直前で引っ込め、意識が向いていない足を払った。
「………っあ!!」
敵の策略にまんまと嵌められ、バランスを崩す。押しの一撃でラドの体が地面に叩きつけられると、目の前には拳が寸止めされていた。
「………私の勝ち。」
「ウルは、本当に強いね………。やっぱり、僕じゃ相手にすらならないや。」
ウルの強さは、ラドの想像をはるかに超えていた。これで能力まで使われていたら、とても太刀打ちできないだろう。
しかし、助けたいと思う少女に助けられているようでは話にならない。
もっと強くならなければ………そう、ひしひしと感じていた。
「ウル、もう一回だ。もう一回頼むよ。」
「ラド………体は大丈夫?」
容赦なく床に叩きつけられた所為か、背中が痛む。だが、今はそれ以上に戦いの感覚を体に覚えさせたかった。
「僕は平気さ。ウルこそ、大丈夫かい?」
無言で頷き、手を差し伸べてくれる。その優しい手に引かれるように、組手を再開した。
「これで、二十二回目。」
勝敗を数えていたウルがぽつりと呟く。あれから三十分近く組手を続けたが、結局ラドは一度もウルに膝をつかせる事ができなかった。
何度も床に叩きつけられ、体中が悲鳴を上げている。
「はあっ、はあっ、はあっ………ウル、本当に強いね………。」
「毎日鍛えてるから………。」
ラドのように息こそ上がってはいなかったが、その額にはじんわりと汗が滲んでいた。
あおむけで大の字になりながら修練場の隅にある時計を見る。七時三十分。お開きにするにはちょうど良い時間であった。
乱れた呼吸を整えて、痛みを刺激しないようゆっくりと体を起こす。
「今日は僕はこの辺で切り上げるけど、ウルはどうするんだい?」
「私は、もう少しだけ。」
「そっか、分かった。ウル、相手してくれてありがとう。またね。」
入口付近でウルに別れの挨拶をしつつ、手を振ってから修練場を後にする。
ラドの気配が完全に消えたのを確認してから、ウルは能力を解放した。
修練場横のシャワールームで汗を流し正装に着替えたラドは、聖典教会内にある食堂へ来ていた。
食堂は教会に所属している人間であれば誰でも利用でき、多種多様なメニューを格安で食べられる為、人気が高い。
そんな二百人ほどを収容可能な大食堂を切り盛りしているのは、料理長のバン・グレモス。
見上げるばかりの巨躯と、濃ゆい髭面に似合わないとても気さくな人柄で、食堂の利用者が多いのもバンの人間性あってのことだった。
ラドは財布の中身を確認して、カウンターに注文しに行く。
「おはようございます、バンさん。」
声に気付いた巨躯の男、バンは振り返ってにっこりと笑顔を見せた。
「おお、ラドっちじゃねえかぁ!配給食の受け取り以外でここに来るたぁ珍しいな!どうした、自炊が面倒にでもなったのか?」
「いえ、そうではないんですが、これから朝食はここで食べようかと思いまして。」
「おぉそうかそうか!そりゃ重畳だ!それよりも、聞いたぜぇラドっち。」
「ん、何をですか?」
バンは不敵な笑みを浮かべ、カウンター越しにラドに近づく。
「お前さん彼女できたんだって?」
突然の告白に思わず吹き出してしまう。
「バ、ババババンさん!ど、どこでそんな事を!?」
「ノークの奴が嬉しそうに言ってたぜ。いやぁ~ついにラドっちにも春が来たかい!」
先日のカフェでの誤解は解いたつもりだったが、どうやらノークはまだ勘違いをしているらしい。
その件は後々諫める事として、まずはバンから誤解を解かなければならない。
「バンさん、それは誤解です!ウルは………ウルは僕の………!」
「ウルって子なのか!そうかそうか、可愛い名前の子じゃねぇか!!」
バンはもはや聞く耳を持っていない様子であり、弁解は無理そうだった。他の人間には絶対に口外しないと言う約束を取り付け、その場を収める他なかった。
心労したラドをよそに、バンは豪快に笑って注文を聞いてくる。適当に軽めの物を頼んだが、その内容にバンは不服そうだった。
「おいおいラドっち!若い男がそんだけで足りるわきゃあねえだろう!もっと食いな!」
「え。あ、あの………バンさん。」
ラドの声が耳に入らないのか、バンは様々な食べ物をトレイに山のように積み上げていく。
「いいっていいって、遠慮するな!こいつは俺からのサービスだ!」
「あ、ありがとうございます………。」
見るだけで胃が痛くなるぐらい積まれた食べ物に満足気なバンに、ラドは終始苦笑いするしかなかった。
「これ、全部食べないといけないのか………。」
珍しく独り言を言いつつ席を探していると、奥に見知った顔の二人が食事をしていた。
「んふふ~♪やっぱり食堂のご飯は美味しいなぁ~。」
「………ほんと、朝からよく食べるね君は。」
「セリスさん、ジンさん。おはようございます。」
セリスはラド同様、これでもかと言わんばかりの食べ物をトレイに乗せていたのに対して、ジンはトーストにミルクティーだけと、実に対称的であった。
「おっ、ラド君おはよー!」
「おはよう、ラド………って驚いた。君も、かなりの大食漢なんだね。」
ジンの視線は、ラドのトレイに注がれていた。やはり、誤解されるであろうと思っていた。
「違いますよ。これはバンさんのサービスです。」
「随分と派手なサービスだね。セリスが頼んだ量とそう変わらないんじゃないかな?」
「って、セリスさんはそれ全部自分で頼んだんですか………。」
「うん、そうだよー。」
セリスは、ジンが呆れた顔をするのも納得できるほどの大食漢であった。
「まあその所為か、バンさんからはいたく気に入られてるみたいだけどね。………ところでラド。君はこの後何か予定はあるのかい?」
「ええ、配給部門のお仕事が。」
その返答にジンは目を丸くした。それもそのはず、ラドは既に大司祭の命を受けて執行部門に転属しているからだ。
「一体それはどう言う事なんだい?」
「大司祭様にお願いしたんです。有事の際にはもちろん執行部門員として活動しますが、普段は配給部門の仕事をさせてもらいたい………って。」
「………よっぽど配給部門に思い入れがあるみたいだね。」
ラドが聖典教会に所属して間もない頃、能力がないことを知られて、当時配属していた部門の人間から嫌がらせを受けていたのだが、その時たまたま現場に居合わしたクリオとロッズが、身を挺して助けてくれたのが最初の出会いであった。
二人は、ラドに能力がないことを知ってもなお気味悪がることなく接してくれ、配給部門への転属を進めてくれた。部門リーダーのノークもそう言ったことには拘らないタイプの人間であった為、すぐに打ち解けられた。
その出会いがきっかけで、今現在まで交友関係が続いている。
「………配給部門の皆さんは、僕に居場所を与えてくれたんです。とても温かい、大切な居場所を。」
ラドの返答から滲み出る深い思いを感じ取ったジンは、嬉しそうに口元を緩ませた。
「そうか。それは大切にしないといけないね。」
「はい………!」
「ふふっ、さあ朝食を食べよう。冷めたらせっかくの味が台無しだからね。」
ジンの礼を合図に、ラドは朝食にありついた。






