第六話 「知らないこと」
蜂蜜色のセミロングの髪を、手櫛で丁寧に梳かしながら、二房の三つ編みに整えると肩の前へと綺麗に垂らす。次に頭に手を当てて、撥ね出た髪を軽く手で押さえるようにして整えていく。前日リンスをよく馴染ませていたから、艶々になった髪は櫛を使わなくても自然な風合いになっている事だろう。
毎日している事なので鏡を見て確かめたりはしないけど、これでいつもの髪型になったはずです。
今日の私の出で立ちは、朝の騒ぎの後に改めて着替えた白いブラウスに暗緑色のチェック柄のロングスカートというもの。ボタンを全て留め終えると、首を巡らしておかしなところが無いかをチェック。……うん、問題なしだ。
そこまで確認が終わると、胸に手を当て深呼吸。小さく上下するブラウスの生地越しに、お守りがちゃんとそこにあるのが伝わってくる。寝るときも肌身離さず身に付けている銀製の首飾りは、今は亡き母さんの手製の品だ。優秀な魔法士だったという母さんが、私に残してくれた宝物。それは今日も私の胸元に納まっている。
最後に昔から愛用しているフード付きの灰白色のローブを羽織れば準備完了、いつでも出撃可能になりました。
腰にぶら下げているポーチの位置を直しながら、姉さん達の待つ玄関へ向かって駆け足で向かおうとして急停止。
危ない危ない、淑女らしく優雅に歩いて向かわなければ。
『引きこもり姫』はもう卒業したのだから、これからは侯爵家の娘としてふさわしい行動を心がけないとね。
私はやれば出来る女の子。
私はやれば出来る女の子。
……よし、大丈夫。行ってこよう。
○ ○ ○
私達の住むオールト王国の都であるこの街は、人口30万を擁するこの世界有数の大都市だ。
歴史的には古い時代の王都は現在の規模よりもずっと小さくて、今の王宮とそれを囲む城壁の中の旧市街で構成されていた街だったそうだ。
やがて王国が発展していくと、王都にも多くの人が集まって来るようになった。そうして新しくきた人たちは、昔の王都に隣接するように庶民の町を形成していくようになった。
これが他の都市だったら、このまま旧市街と庶民街とが混沌とした形で合わさって一つの都市として一括りされてしてしまいがちなのだろうけど、ここオールト王国の都の場合は他とは違う経緯を辿っている。
今から数える事5代前の女王陛下であるリシテア様の御世の頃、女王自らが主導して大胆な再開発が行われたからだ。その結果、これだけの人口を擁する規模にも拘らず美しくも計画的な街並みの都市へと生まれ変わったのだ。
(その功績を讃えて、この街は当時の女王の名前から王都リシテアと呼ばれるようになった、と)
乗り合わせた路面軌道車の車窓から王都の町並みを眺めつつ、私は昨日復習した歴史の内容を思い出していた。
(――リシテア様って先見の明があったんだろうな。実際に見てみると本当よくわかるよ)
領地の館で勉強してきたものを実際に目の当たりにして少々興奮してしまう。これが知ることの醍醐味というやつでしょうか。
……まあ、それくらいリシテア様の行った再開発計画というのは、今の私達から見ても桁違いに思える規模のものなのだ。
彼女はまず手始めに、その当時の王都と庶民街とをすっぽりと囲う巨大な城壁を築かせた。
それだけなら他の都市も同じだけど、ここリシテア市の場合その広さが途轍もなく大きい。
なにせ今の王宮があるユリウスの丘だけでなく、当時はロー河を挟んで別の都市だったコンスタンティーノの丘まですっぽりと囲うほどの壁を作らせたのだ。
もし鳥になって王都の街を見下ろすことが出来たなら、建物がひしめく市街地を真ん丸な形の城壁が取り囲んでいるのが見えるだろう。
その城壁も相当に堅固なものを作らせている。
さらに古い町並みを大胆に区画整理し、住民達の居住地を指定するなどの事業を行い王都の風景をがらりと変えたのだ。
しかしその時のリシテア様は、その新都建設をかなり強引に押し進めていったらしい。歴史書によると
当時は非難ごうごうだったとか。
(でもまあ、そのおかげで現代の私達は大助かりですけどねー)
広々とした通りに地区ごとに特色のある街並み。上下水道も整備された王都の住環境は、都市の規模を考えると驚くほど清潔で住みやすい。
将来の王都の発展を見越した十分な開発余地に、町全体で統一された都市計画。今の発展した王都の姿を見れば、彼の女王の施策は決して間違いではなかったと断言されている。
なによりも
「その時作った城壁が魔物相手の戦いで大活躍ですからねー」
黒い魔物の災厄がはびこっていた時代。王都へと押し寄せてきた黒い魔物達の進入を、何度も食い止め続けてくれた城壁に、それを築いた女王リシテアの功績に、この街の市民達は深い感謝を捧げているんだって。
そんな事をつらつらと考えていると――
「ん? 魔物相手にどうしたって、アズ?」
ケント兄さんが不思議そうにそう聞いてきた。
(……おおっと)
咄嗟に口元に手をやるが、うん、まあ手遅れでした。
「はっはっは。考え事が口から漏れる癖は相変わらずか、アズマリア」
そう笑って仰るロッテ姉さん。私としては反論しようもありません。
私が小さいときからの癖なんだけど、頭の中でまとめていた事をつい口にしてしまうのだ。それを隣に座るケント兄さんとロッテ姉さんにばっちりと聞かれていました。
「……気を付けているんですけどね。意識しててもついポロリと」
そう言って苦笑いを浮かべる私。もう朝のように恥ずかしがったりはしないのだ。
路面軌道車の車内っていう公共の場に居るわけだし、そのあたりのエチケットを心得ている姉さん達も、それ以上はからかってこなかった。
「まあ癖ってそんなものだよね。僕も父上にはよく注意されてたもんな」
「だがこれから学園で集団生活を送るのだ。人前で恥ずかしい思いをせぬよう、十分に気を引き締めて置きたまえよ、アズマリア」
姉さんの言葉に神妙にうなずく。
今までのように家族で居るときなら問題ないだろうが、これからは違う。これから先の私は、会う人にまずシュタットフェルト侯爵家の人間として見られるのだ。私の恥は家族の恥。
そんな事を真剣に考えていた私の頭に、大きな手が乗っかると同時にグリグリと撫で回される。誰だと視線を上げてみれば、犯人のケント兄さんがカラカラ笑って居やがりました。
「まあまあ、今朝のような可愛らしい姿を見れば誰だってアズの虜になるさ。そうすればちょっとした癖ぐらい笑って許してくれるよ」
だから気楽にね。そう言って優しげに目を細める兄さん。今は背にいる姉さんもきっと同じ顔なのだろう。何も言っては来ないけど、雰囲気からなんとなく分かった。
「……」
兄さんの手に抵抗せず、為すがままの私。
二人のその気遣いは、十分すぎるほど伝わってくる。
今朝の件にしたってそう。普段は冷静な姉さんが、今朝に限ってはああも大げさにからかって来たのだって、私の緊張をほぐそうとしてくれたんだと思う。
事実あれだけ大泣きしたのに、泣き止んでみれば気分スッキリ。子供っぽい行動だったなと自己嫌悪することもなく、実に晴れ晴れとした気持ちになったのだ。
(……まいっちゃうよね)
この二人には分かっていたのだ。今の私は自分が思っているほど、心に余裕を持ててはいないと。
初めてした馬車での旅。
初めて歩く大きな街。
初めて通う学校。
そして、初めて出来るかもしれない――ともだち。
いろんな「初めて」を目の前にして、予想以上に緊張していたんだって事に、ようやく気づけたのが今朝の顛末。
(まだまだ私って子供なんだなー)
『前世』の記憶のせいで大人じみた考えが身に付いていたけど、中身はまだまだお子様だ。
(考えてみれば社会経験ゼロですしね、私って)
思えば私にとっては知らないことの方がたくさんある。馬車での旅もそうだったし、王都の街にしたってそう。本で勉強しただけでは、この街の美しさや住み易さなどきっと分からなかっただろう。領地の館を出て初めて知ることが出来たことなのだ。
そんな私が姉さん達と対等になろうとしたって最初から無理だったのだ。そして、その弱点を補うためにここへ来たのだと思い直す。
王都で。学園で。
知らないことを知っていることに変えていって、もっともっと成長する事こそが、今の私の使命なのだ。
(だからまあ、今は子供扱いも甘んじて受け入れましょう)
グリグリをやめない兄さんにジト目を向けながらも、私は寛大な心でそれを許す。
それにしてもイリス姉さんが言ってた通り
「……涙は女の武器になるって本当だったんですね」
そのおかげでロッテ姉さんに一矢報いる事ができた。図らずも朝の一軒で、イリス姉さんが常々教えてくれた事は真実だったと実証されたのだ。私の知らないことをたくさん知っているイリス姉さんはやっぱり凄い。
(ふふふ、これで知ってることがまた一つ増えましたね)
さっそくの成長に笑いが止まらないぜ。心の中にイリス姉さんのドヤ顔を浮かべながらそう思っていると、いつの間にか兄さんの手がピタリと止まっていた。
「?」
不思議に思ってみて見ると、何故か硬直しているケント兄さんの顔。訳が分からず兄さんの手を乗せながら首をひねっていると、後ろからこれ見よがしなため息の音。
振り返ってみれば、何故か目頭を押さえているロッテ姉さん。なんだなんだ?と思っていると
「……また声に出てたぞ、アズマリア」
呆れ気味にそう教えてくれました。
……とりあえずこの癖は早急に何とかしよう。
○ ○ ○
アヤ・ソフィア学術院のあるコンスタンティーノの丘近くの停車場で軌道車を降りる。
石畳に引かれたレールの上を、木製の四角い客車が馬で引かれることなく走っていく。馬車とは違う異質なその姿。その不思議な乗り物は、石畳に敷かれたレールと呼ばれる二本の鉄の線に車輪を載っけて、その上を客車が滑るように進んでいくのだ。そのとき使われる動力は馬や人の足ではなくて、なんと魔力を使っているんだって。この十年くらいの間に王都の街に整備された、学術院発の巨大な魔法具の乗り物なのだ。その事は本や新聞で読んで知ってはいたけど、実物を見るてもやはり不思議だ。
もっとも
(『路面電車』って言うんだっけ?)
『前世』の記憶の中に似たようなのがあるのを知っていたから、それほど驚きはしなかったのだが。
そうして走り去る軌道車を見送っていると、復活したケント兄さんが不思議げに尋ねてきた。
「そういえばアズって軌道車は初めて乗ったのに、あまり驚かなかったね」
私の『女の涙』発言には硬直していたくせに、こういう所だけは鋭いケント兄さん。次期当主としては頼もしいけど、若干妹に対して空気が読めてない。
「……まあイリス姉さんからの手紙で散々聞かされてましたからね。想像通りすぎて逆に驚けませんでした」
さすがに似ているのを知っているとは答えられない。それにイリス姉さんが手紙で詳しく教えてくれたのも嘘ではないし。
「ああ、姉上からの手紙でか。私にも良くおっしゃってらしたからな。『魔法で動く馬車ってここにしかないから、アズが王都にきたら一緒に乗って案内してあげるの』だと。アズマリアの驚く顔が今から楽しみだと笑ってらしたぞ」
私の説明に納得気味にうなづくロッテ姉さん。その隣で何か気付いたのだろう、同情的な視線を送ってくるケント兄さん。
……うん、分かってる。ちゃんと驚く顔の練習をしておかなくちゃね。
兄と妹が互いに頷き合っているのを見て姉さんも気付いたようだが、あえて言っては来なかった。
何ともいえない空気になっちゃった雰囲気を変えようと、私はずっと気になっていた事を聞いてみた。
「そういえば私の入学式までイリス姉さんが会いに来ないって本当なんですか?」
王都に来た初日に倒れたものだから、てっきり飛んでくると思っていた我らがイリス姉さん。しかしケント兄さんによると、私が学園に入学するまで会いに来ないと言っているらしい。
「……ああその話か」
そういって左耳に手をやるロッテ姉さん。この癖が出たという事は何かあるのだろう。同じ王都にいながら会いに来てくださらないイリス姉さん。そのことが不思議だったし、ちょっぴしだけ寂しくもあった。なので無言で続きを促す私に、ロッテ姉さんは珍しく言いにくそうにしながらも話してくれた。
「……はぁ。なんでも姉上が仰るにはな。ご自身でしばらくアズ断ちをしているそうなんだ」
(アズ断ち?)
「……なんですかそのアズ断ちってのは?」
願掛けじゃあるまいし。
「うん、まあその。姉上から口止めされている事なのだがな……」
そうしてなおも話そうとしないロッテ姉さん。そんな姉さんに助け舟を出したんだろう。ケント兄さんが苦笑いと共に話しに加わってくる。
「まあまあ、そう硬くならないでよロッテ姉。 あのねアズ、簡単に言うとイリス姉さんなりの妹離れなんだよ」
そう言って教えてくれたところによると、「アズ断ち」とはこんな意味らしい。
私が王女殿下のご学友の話を受け入れた事を聞いて、イリス姉さんはそれはもう飛び上がらんばかりに喜んだそうだ。その喜びようといったら、嬉しさのあまりに『眠り姫』の名を大々的に広めてしまうくらいに凄かったらしい。
(……)
まあ『眠り姫』の話は置いておいて。
私が長年続けてきた引きこもり生活を捨て、単身アヤ・ソフィアに入学する事を我が事のように喜んでくれたイリス姉さん。私の住む部屋の模様替えや、必要な家具や洋服の購入計画。二人で回る王都の観光コースの下見など。それはもう精力的に働いていたのだとか。
そんなイリス姉さんのウキウキした姿を見て、ある日ロッテ姉さんがポツリとこう呟いたそうだ。
『ほどほどにしておかないと、アズマリアが王都に来てからする事が全部無くなってしまうよ』と。
「そうしたら急に姉上の動きが止まってしまわれてな。しばらくそのままじっと動かればくなってしまったのだよ」
その時の様子をロッテ姉さんはそう証言する。
その只ならぬ様子に、さすがに心配したロッテ姉さんがイリス姉さんに詰め寄ろうとしたところ、イリス姉さんは突然泣き出してしまったんだって。思わずギョッとしたロッテ姉さんに対して、イリス姉さんはこう言ったらしい。
「『ああ私はなんて事をしようとしていたのかしら。あの子が自分の足で歩こうとしているのに、その芽を摘むようなまねばかりをして』と言って嘆きだされてな。それまで用意していた家具やら内装やらを、全て取っ払おうとされだしたんだよ」
どうやら私が王都に来るまでの間に、何でもかんでも事前に全て準備してあげるのでは、妹にとって良いことではない事と思ったらしい。
さすがに必要な物はちゃんと用意しとかないといけないからと、ロッテ姉さんが必死に説得してくれたおかげもあって、イリス姉さんもすぐに落ち着かれたそうなのだが、そうすると今度は暫くじっとして何か考え込んでいる様子だったらしい。
そうして見つけた答えが「アズ断ち」なのだそうだ。
「ご自分が妹の傍にいれば、余計な手出しをしてしまう。それではこれから成長していくアズマリアに対して悪い影響を与えてしまう事になるかもしれない。そうならないためにも、自分からしばらく距離を置いておこういうお気持ちなんだろう」
そういって話を締めくくると、手元のテーブルに置かれた紅茶を口にするロッテ姉さん。
長い話になりそうだからと、コンスタンティーノの丘へと上る道沿いにある手近な喫茶店に入ったのは正解だったらしい。予想以上に重たい話に私の方もぐったりしてしまった。
隣に静かに座るその姿を見るかぎり、ケント兄さんもこの騒動を知っていたのだろう。ロッテ姉さんを労う顔をしている。
相変わらずというか、私のことになると暴走してしまうイリス姉さん。姉さんが言わんとしている事はまあ分かるのだが、それでも行動が極端すぎやしませんか。私のためを思ってくれてるのは、素直に嬉しい事なんだけど。
(でも、そのせいで会えないのはなぁ……)
せっかく今は同じ王都の中にいるというのに、そんな理由で会えないんだなんて。そんなんじゃ気づかいに感謝する気持ちよりも、直接イリス姉さんに会えない寂しさのほうがずっと大きくなるしゃないか。そういった不満を誤魔化そう、ブスーとした顔をしたまま紅茶を飲んでみたけど、ちっとも上手くはいかなかった。
そんな私の不貞腐れた様子を見ていたロッテ姉さんが、何かを決心したかのように静かに語りはじめる。それはまるで、今までずっと隠していたことを、私に話しかけるような雰囲気を漂わせながら――。
「……少しだけ聞いてはくれないかい、アズマリア。これはな、君が生まれて間もない頃の話なんだが、その時母上とイリスお姉様・・・はな、お二人だけの約束を交わしているんだ」
そう言うと、ロッテ姉さんは一呼吸を置く。
「それはな。もし母上がアズマリアを残して自分が死んでしまったとしても、イリスお姉様・・・が母上の代わりとなって君の事を立派に育てるという約束だったんだ。
……母上が亡くなってからはずっとイリスお姉様( ・・・)がアズマリアの母親代わりだったからな、今回の事でいろいろと思う事があるのだろう」
だから姉上を責めてくれるなよ。そう言って私の頭を一つ撫でるロッテ姉さん。
(……バカ)
そう言われると、何も言い返せないじゃないか。
私たち姉兄の生みの親であり、私が生まれてすぐに死んでしまった母さんの事を、私はほとんど覚えていない。
数少ない知っていることといえば、私と同じ蜂蜜色の髪をしていた事と、私のお守りにと銀の首飾りを作ってくれた事。
そして私にアズマリアという名前を付けてくれた事だけだ。
母さんがどんな願いを込めて、この名前を付けてくれたのか私は知らない。どんな思いを込めて私に首飾りを残してくれたのかもわからない。
それどころか、母さんがどんな顔をしているかすら、私は知らないのだ。
リリーナ・シュタットフェルト
現シュタットフェルト侯爵の妻であり、国軍でも十指に入るほどの卓越した能力を持つ優秀な魔法士だった女性。
しかし彼女の絵姿を、私は領地の館で見ることは無かった。愛妻家だった父さんが、死んだ妻の事を思い出すのは辛いからと、その全てを書斎の奥へと仕舞いこんでいるからだ。
幼い頃の私はその事を寂しいと、悲しいと思った事があまり無かった。その頃の私の意識の殆どは『彼』が占めたままでいて。だからそう、物心付くまでの私は『前世』の自分こそが本当の自分だと思い込んでいたのだ。幼い頃のそんな歪な私にとって、リリーナ母さんの事は『赤の他人』にしか思えなかったのだ。
それが間違いだと。とても、とても大きな間違いなんだと気付いた時には、もう、泣きたいほどに全てが遅かった。
実の母親の事を『赤の他人』と思っているような親不孝者が、今更リリーナ母さんについてなにを聞くことが出来るというのか。そんな罪悪感から母さんの事を避けていた私にとって、イリス姉さんの存在は育ての親以上のものだった。
(……確かイリス姉さんでしたね。この首飾りに込められたおまじないを教えてくれたのは)
胸元に掛かる銀の首飾りをなぞりながら、そのとき聞いたおまじないを思い出す。
『アズはね、なーにも怖がる事はないんだよ。もし怖いって思うような事がアズに身に迫ってきてもね、ぜーたいに大丈夫なんだらか。だってね、アズのお母さんが作ってくれたこの首飾りがね、怖い事からずっとずっとアズの事を守ってくれるから。ずっとずっーとだよ』
(だからこの首飾りを離してはいけない。この首飾りは私が母さんの子供だという事を証明してくれる、魔法の首飾りなのだから)
私がリリーナ・シュタットフェルトの娘である証。私がアズマリア・シュタットフェルトである証。私が『前世』の『彼』ではないのだという事を証明してくれるもの。母さんが私のために残してくれた、たった一つの魔法の首飾り。
そして、その大切さを教えてくれたイリス姉さん。母さんが死んだ後も、私を守り育てていくと約束したという、一番大好きな私の姉さん。
「……母さんとイリス姉さんが、そんな約束をしていたなんて知りませんでした」
そう呟く私に、ロッテ姉さんもケント兄さんも優しげな顔を向けるだけで、何も言ってはきませんでした。
アヤ・ソフィア学術院へと続く坂道からの喧騒が響く午後の喫茶店。多くの人で賑わうそのお店の中にあって、私たちの席の周りにだけ静かな時間が流れていました。
6/20 本文の一部を改訂
2016/7/14 改稿