第五話 「朝の風景」
私の朝は早い。
早朝、館のメイドさん達が働きだす頃に目を覚ますと、館のそばにある丘を歩いて登る。朝もやに包まれた頂上に到着すると、領都の町を眺めつつ神殿が6時の鐘を鳴るのを静かに待つ。
やがてカラーンッカラーンッと、一日の始まりを告げる鐘の音が辺り一帯に響きだす。私の住んでいる館は、眼下の町から少し離れた所に建っている。そのため普段は町の喧騒だとか、そういった音は館までは全く響いては来ない。だから、彼らの生活を私と繋ぐものって、いつもは全然見えないんだけれど。
それでも、朝のこの時だけは違う。この時だけは、私の立つこの場所まで、鐘の音は届いてくれるのだ。
遠くの山すそから昇った太陽が、朝一番の光を大地に広げていく。朝もやに輝くシュタットフェルト領の光景を満足するまで目に焼き付けると、ゆっくりと後ろを振り向いて館へと戻ていく。それは天気の心配が無い日には、毎日欠かさずやってきた私の習慣なのだ。
しかしこの習慣もここではお預け。来たばかりで王都の地理はまだ詳しくないし、到着早々ぶっ倒れてしまったせいで、ロッテ姉さんに大人しくしているように言いつけられてもいる。私としては早期に屋敷の周辺を散策し、また朝の散歩を始めたいと思っているのだが、そういった事情もありなかなか外に出られないでいる。なにより私自身が忙しくてそれどころではないのだ。
はるばる王都にまでやってきた理由。
アヤ・ソフィア学術院付属学校。通称学園への入学試験と、王女殿下のご学友を決める選抜会の日が間近に迫っていた。
○ ○ ○
王都に到着して5日目。
その日の朝は私が王都に来て以来、初めて姉兄三人そろってのんびりと過ごしていた。
いつもの朝なら、ロッテ姉さんは軍部でのお仕事があるので朝食をさっさと食べて出発する事が多かったし、ケント兄さんはケント兄さんでどこぞの貴族主催の夜会に出席する事が多いので、朝は遅くまで休んでいるのだ。私も試験に向けて追い込み中だから、食事を手早くすますと勉強に打ち込む毎日だった。
しかし入学試験を明日に控え、この日を私は会場となるアヤ・ソフィアの下見を兼ねての休養日に当てていた。そのことを知った二人が、今日一日自分の仕事を休みにして私に付き合ってくれたのだ。
保護者に同伴されるほどお子様じゃないと抗議したい気持ちもあるにはあったんだけど、まったく知らない街に来たばかりで不安に感じていたのも事実でして。ここは大人しく二人の厚意に甘えようと思う。
それに姉さん達と一緒にお出かけできるのを、密かに楽しみにしてたのも本音だったりする。恥ずかしいから二人には絶対に言わないが。
そうしたわけで食事の後、出発までの時間を食堂で紅茶を飲みながらマッタリ過ごす。久しぶりに勉強机から離れてリラックスしたせいか、朝だというのに欠伸が出そうになる。入学試験を前に少々根を詰めすぎたか。うっかりすると目を瞑ってしまいそうだ。
眠気に抗いながらも、うつらうつらとしだした私に気付いているのかいないのか。ロッテ姉さんとケント兄さんは紅茶を片手にお互いの近況などを報告し合っている。そういえばこの二人も、互いに仕事があったからゆっくり語り合う機会が無かったもんな。
「軍は相変わらず魔物退治に忙しいの?」
そんな二人を眺めていると、ケント兄さんが新しい話題を振っていた。それを受けて姉さんが応える声に、私も耳をそばだてる。
「魔物相手の任務は相変わらずだな。『災厄』前とは比べ物にならんのだろうが、それでも常時部隊を稼動させておく必要があるくらいには奴らもやってくる」
"魔物"
私達の住む"この世界"には魔物と呼ばれるものたちがいる。それは動物に似た姿でありながら、動物とは決定的に違う黒き獣たちだ。
本で読んだ限りでは、彼らは30年ほど前に突然現れたそうだ。最初は少しずつ、だけど徐々に数を増やしていった魔物たちは、街や村々を襲っては人々に被害をあたえていたらしい。12年前の災厄の原因にもなったそうだけど、現女王である光の御子セイラ・オルトティーヌの活躍もあってその数は劇的に少なくなったんだって。
「発生の規模や頻度は?」
「――軍の出動件数は横ばいだな。王都の守備隊と地方を巡回している部隊とで対処可能な範囲に収まってるよ」
「そう、それじゃ魔物の被害の方はどうなっている?」
それでも魔物が全く居なくなったわけではない。
私が住んでいたシュタットフェルト領ではあまり見かけなかったけど、よその土地では毎年死者が出ている。今なお魔物とはそれくらい恐ろしい存在なのだ。
「今年はまだ農村や都市が襲撃された事案はないな。学術院製の魔法具で村々を繋いだ早期警戒線が上手く機能してくれているよ。大抵は現れてから間を置かずに掃討できている。冒険者連中もこちらとの連携には協力的だしな。現状被害は最小限に抑えられているだろう。……それでも犠牲者が全く無しとはいかないのが現実だ」
「なるほどね、僕らが把握している情報との差異はなしか……」
そう呟くケント兄さんに、矢継ぎ早の質問に応じていた姉さんが顔に苦笑いを浮かべる。
「なんだ、ケント。ずいぶんと領主の仕事ぶりが身に着いたようだな。まるで父上と話しているかのようだったぞ」
その言葉が嬉しかったのか、それまで真剣な表情だった兄さんの顔が緩んでいる。
「まあそれが僕の役割だからね。それにせっかく姉さんが国軍にいるんだ。この機会に気になることは全部聞き出しておかないとってね」
そう告げる兄さんに姉さんも嬉しそうだ。
「殊勝な心がけだ。だがな、生憎と私の所属は幕僚本部第四課。同僚達からは日陰者扱いの調達担当だ」
冗談めかしてそう笑う姉さん。そんな姉さんにまだ、聞いておきたい事があるとばかりに兄さんの質問が続く。
「それって将軍たちも相変わらずって事なの?」
その質問には同感だったのだろう。ロッテ姉さん大きくため息を付いて頷いていた。
「ああ、上の将軍連中も相変わらずだよ。まったくよほど暇なのだろう。戦働きの機会がないからと軍の内部で政治ごっこの毎日さ」
呆れたように軍の内情を語る姉さん。それは私にもよく愚痴っていた事だ。
「なんせ我が国には救世の英雄たる女王陛下がおられるからね。今は他国も戦を仕掛けようとは考えないよ」
応じる兄さんの視線にも、姉さんへの同情が感じとれる。
「……まあごっこ遊びで満足しているうちはほって置くさ。予算については監査の連中が手綱をしっかり握っているし、こちらもこちらで備えが有るしな。軍人としての責務を忘れた連中の腹を肥大化させるつもりは毛頭無いさ。それに陛下がご健在なうちは問題も起こるまい」
「僕としては魔物の事と国境さえ守ってくれれば十分ですけどね」
そう笑って紅茶を口にするケント兄さん。ロッテ姉さんも話の区切りが付いたのを感じたのだろう。カップに残る紅茶を飲み干すと私の方へと向き直った。
「ああ、私としたことがうっかりしていた。今日の主役たる『眠り姫』をほおって愚弟なんぞと話しこんでしまうとは」
そう言って大げさに天を仰ぐ我が愚姉さま。
「……『眠り姫』と呼ぶのは辞めてくださいとお願いしたはずなのですけど、ロッテお姉様?」
そう言ってジト目で睨み付けて見るものの、ロッテ姉さんはまったく効いたそぶりを見せません。それどころかニヤリと口の端を持ち上げる始末です。うう、嫌な予感がする……
「何を言っているんだいアズマリア。私がケントと話している間中、君がウトウトとしていた事に気付いていなかったと思っているのかい?」
まるで詩人の詠う『眠り姫』のようで可愛らしかったよ。案の定そう言ってからかうように笑うロッテ姉さん。ケント兄さんも紅茶を吹き溢しそうになったのか、慌てて口元を押さえている。
「なっ、なにを仰るんですか!! 私だってお二人のお話はきちんと聞いていましたわっ!!」
立ち上がり毅然と反論するが、とっさの事で顔が赤くなるのまでは抑えきれない。
「ふっふっふ。顔が赤くなっているぞアズマリア君。なにもそう恥ずかしがる事はないんだぞ。古来より寝る子は育つと言うしな」
そう言いながら私の胸元に視線を送るロッテ姉さん。その視線の意味に気付いてしまい、私の顔がさらに赤くなる。
「な・な・なんですかその意味ありげな視線はっ! ご自分が絶壁だからといって私に当たるのは止めていただきませんか!?」
年相応に膨らみだした胸元を両手で隠しながらも、そう言ってロッテ姉さんに反撃を試みる。ちなみに私が普段からよく眠ているからといって、その分胸が大きく育っているなんて事はないはずだ、うん。
「絶壁とはひどい喩えじゃないかアズマリア。私のは軍人として最適な大きさだと言うのだぞ。……そういう君こそ両手で隠す必要があるほどあるのかな?」
そう不適に笑うと、ロッテ姉さんは挑発するかのように私の胸を指差してくる。視界の隅では、イケメンの割りに純情なケント兄さんが顔を赤らめながら退室していくのが見えるが、そんなものは些事だ些事。聞き捨て成らないセリフをのたまう姉に対して、私は猛然と抗議の声を上げる。
「いいい言いましたねロッテ姉さんっ!! なんなんですか節穴なんですかその目は! よーく見てくださいしっかりと膨らみだしているじゃないですかもしかして目に入ってないんじゃないんですかっ!!」
先程とは一転して、今度は胸を反らして自らの膨らみをアピールしようと両手を振り下ろした所で、ニヤニヤ笑いの姉さんにからかわれていた事に頭に冷静さが戻ってくる。
「……くっ。くうぅぅっ」
良い様におちょくられた悔しさに歯軋りする。
普段はイリス姉さんのストッパーとして冷静沈着なロッテ姉さん。なのにどうしてか私一人っきりの時に相手にすると、こうして途端に質が悪くなる。経験上むきになって反論すればするほど泥沼にはまるのは分かっているので、傷口をこれ以上広げないためには反論しないのが正解なのだ。なのだけれど――
「ぅぅぅうう……」
そう分かっていても、それでもこみ上げてくるものを私は飲み込む事ができずにいた。こういう所が、まだまだ子供なんだと反省しきりな点なんだけど、それでも悔しいのは悔しいし、これはどうしようもない事なのだ。
だって女の子なんだもの仕方ないよね?
「お、おいちょっと待ちたまえアズマリア!?」
(ああ、後でまた自己嫌悪で落ち込むんだろうなー)
そう思いながらも走りだしたら止められない。
ええっい、死なば諸共っ!!
「うぅぅうあああああああああああああああああんんーー!!!!」
久しぶりに姉兄三人で出掛けようという、その日の朝。
実の姉にからかわれた悔しさで、私は盛大に泣きじゃくるのでした。
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