第六話 「そして眠りは訪れて」
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部屋の中はその時、濃いオレンジ色に染まっていた。
あれから私と彼女はお互いに、公園での出来事から私がベッドに寝かされるまでにあった事を教えあっていた。それから、主に私の体調の事とかで彼女から小さな叱責を頂戴した私は、今は紅茶の入ったカップを両手で包み込むように持ちながら、ベットの端にちょこんと腰掛けている。
彼女はというと、私とは逆に大きく開かれた窓の縁に寄り掛かるようにして立っている。窓に掛けられた白いカーテンが、外からの風に揺らめいている。彼女の黒い髪も一緒に煽られるものだから、そのたびに彼女は何度も手で押さえなおしている。
彼女が言うには、気絶したばかりの私の体に風を当てすぎるのは良くない事なのだそうだ。それでも窓を閉めないでいてくれるのは、夕暮れの風があまりにも気持ちよくって、そのまま開けていてほしいと私が彼女にお願いしたからだ。
窓から見える外の景色は、真っ赤に染まった夕焼け空の色一色で。その鮮烈な色彩に縁取られた彼女の顔は、濃い影になっていてはっきりとは見えずにいる。それでも私は彼女から視線を感じていたし、彼女もきっと私の視線を感じているのだろう。それは多分間違いの無い事のはずで。お互いに見詰め合っている事に気恥ずかしさと、胸が温かくなく気持ちを隠すように、私は手に持ったままの紅茶を口にする。
彼女が話してくれた事を思い起こす。私達が今居るこの場所の事。どういった経緯で私がここで眠っていたのか。そしてその間に、彼女が何をして待っていてくれたのか。
彼女が淹れてくれた、私だけの琥珀色。
だから紅茶に入れられたお砂糖の味が、とても懐かしいあの味であることも分かっていた。それでも実際に飲んでみると、なんていうか、心が満たされるような気持ちが湧き上がってくる。ほうっと軽く息を吐き、カップの中を眺める。それは夕暮れの光を反射して、キラキラと揺らめく琥珀色をした世界だ。
私はもう一度カップを持ち上げると、今度は鼻にかざしてすーと深呼吸するようにして紅茶の香りを吸い込む。残念ながらすでに冷たく冷め切っていたので、紅茶独特の甘い香りは無くなってしまっていた。でも私は気にする事なく、カップの残りをゆっくりと喉で味わっていく。
そうしてカップの中身を全部飲み終えると、彼女にお礼を言おうと思って顔を上げる。だけど肝心の彼女はというと、私と目が合うと恥ずかしげに顔を赤らめると、そのままクルリと体の向きを変えてしまった。その彼女らしからぬ慌てぶりに驚いた私は、そのまま声を掛けるタイミングを見失ってしまう。
小さく背を丸めてしまった彼女。その後姿を見つめながら、どうしようかと悩んでしまう。どんな言葉がいいのだろう。そう思うけど、気の利いた言葉なんて性に合わないし。
伝えたい事はたった一つ。
『……ありがとうね、■■■――
○ ○ ○
【暗転】
○ ○ ○
そして"私"は目を開く。
「っ!!」
唐突に。まるで、今まさに夢から覚めたかのように。
「――ハァ、――ハァ」
口から吐き出される呼吸が荒い。怖いくらいに胸の鼓動が、心臓がバクバクとしている。体はとても熱くって、なのに額から流れる汗はとても冷たく感じる。
目覚めた場所は薄暗い寝室。脇に置かれたランプから、小さな光が灯されている。
「――ハァ、ハァ」
五月蝿いくらい脈打つ心臓。流れ落ちる冷たい汗。そのどちらも止まらない。止まってくれない。
とにかく落ち着こうと大きく息を吸って呼吸を整えようとする。でも胸の動悸は早いままで、上手く呼吸がまとまらない。目覚めると同時に跳ね上がった姿勢のまま、ふらつく頭を左右にめぐらして、この新しい部屋を見渡していく。幾つもある窓はカーテンによって硬く閉じられている。余計な調度品の置かれていない内容は質素といえるけど、記憶にあるどの部屋とも違って見えた。
この部屋は、さっきまで居たはずの寝室とは違う。こじんまりとして温かみのあった、あの場所じゃない。
「……え、え?」
何度見てもそう思う。こんな場所を、私は、知らない。
冷や汗が頬を、背中を伝わっていく。小さな震えが、全身に広がっていく。
「 」
何か言わなくっちゃ。混乱した頭がそう命じるけれど、私の口からはどんな言葉の発せられることはなかった。口にすれば"今このとき"が現実のものになってしまう。根拠のない不安が胸を占め、訳の分からない恐怖心に押しつぶされるかのような感覚に陥る。
そもそも何を言う必要があるの?
この誰も居ない部屋の中で――
「……誰も……いない?」
頭の中に浮かんできたその考えに、背筋が瞬時に凍りつく。
見知らぬ部屋の中にたった一人。
それの意味するところって、なに?
「ゆ……め?」
考えたくない。考えたくないのに、言葉だけが私の意志とは関係なく、音になって口から漏れ出す。それを律儀に耳が拾ってきて、バカ正直に脳へと伝えてくる。
(……夢、だったの?)
そう思った途端、忘れたはずの"あの"違和感が全身を駆け巡っていく。
思い出したくも無い、忌々しき『前世』の亡霊。今の"私"を脅かす見えない悪魔。『前世』の記憶が頭をもたげて来るときと同じ感覚が体中を覆い、私は両手で胸を抱きしめる。
両の腕で押しつぶした柔らかな胸の膨らみ。確かに感じるその感触に、自分が紛れも無く女のある事への安堵と、不快感。あって当たり前という喜びと、苛立ち。
体の震えが大きくなる。肌という肌に鳥肌が立ち、奥歯がカチカチと音を立てる。
(夢だったなんて……そんなこと、ない……)
あるはず無い。絶対に違う。そう自分に言い聞かせても、体を覆う震えが止まらない。止まってくれない。
(……だってだって、ちゃんと覚えてるもん)
彼女に触れたときの温もり。
お互いに名前で呼び合ったときの気恥ずかしさ。
町の喧騒を一緒に歩いたときの緊張感。
全部、覚えている。夢だったなんて思えないくらいのリアルさで。
そうだ、あれが全部夢だったなんて、そんなわけがない。だって――
(だって……ちゃんと言えたんだ)
この世界に生まれて。家族以外の人がみんな怖くって。だからずっと一人で引きこもっていた"私"が、初めてちゃんと言えたんだ。
『お友達になってください』って――
泣きながらだけど、一生懸命笑顔になってあの子に向かって言ったんだ。なのにそれが全部夢だったなんて。
「そんなこと……ない」
あるはずない。そんなことあるはずない。あってたまるものか。
あの時感じた胸の温かさは、私の胸の中にまだ残っている。だから今日のことが夢だったなんて。そんなこと絶対に、ない。
ないはずなのに――
「……なんで、誰もいないの……?」
さっきまで隣に居た彼女の姿がない。その事実がたまらなく寂しくて、つらい。
「……ぐす」
掠れた声が小さくこぼれる。鼻からはぐずっという音が漏れてくる。見開いたままの視界はずっとぼやけたままで、目の端からはぽろぽろと涙の雫が落ちていく。彼女の笑顔を脳裏に浮かべる。あのオレンジ色に染まった部屋の中で、確かに手を握り合っていたはずなのに。
今の私は独りぼっち。
いつものように。いつかのように。
「……ぅっ」
これが全部夢だというのなら、いったいいつから夢だったのだろう。
記憶にある最後の瞬間から?それとももっと前?
公園で休んでいたとき?
お買い物のとき?
お昼ごはんをみんなで食べたとき?
それとも――彼女に初めて会ったその時さえも?
「っ!!」
嫌なのに。とてもとても嫌なのに、回り始めた思考の渦は加速し続ける。
「……ぁぁ……」
体の震えが止まらない。ちゃんと服を着ているはずのに、体が寒くて寒くて仕方がない。
震える手で頭を掻き毟る。触りなれたはずの蜂蜜色の長い髪。その髪をぐりゃぐちゃにかき乱す。密かに自慢だった艶やかなその質感に、だけど今は言いようのない違和感だけを覚えてしまう。
【オレはコンナかみじゃナかった】
心の中で誰かか言う。
即座に否定したいのに、それを否定するはずの言葉が分からない。
"私"が私ではなくなってしまう。そんな、たとえようのない不快感。そのあまりの気持ち悪さに、体の中から吐き気がこみ上げてくる。それでも暴走した頭は思考を続けていく。「やめて」という気持ちを無視して、先へ先へと突き進んでいく。
――ねえ、そもそも、わたしって、だれ?――
そんな根源的な疑問にまでたどり着いたとき、私の中でカチと、何かのスイッチが落ちる。
「ぁぁぁ……」
ぐちゃぐちゃになった何もかもが、出口を求めてむちゃくちゃに暴れだす。頭の中は真っ白に塗り固められ、不要と判断されたモノがそこから弾けだされる。
そうして私には分からない何かが繰り返される中、唐突に今日一日の出来事が走馬灯のように駆け巡っていく。肌に張り付いていた、銀の首飾りが静かに熱を帯びていく。
そして――
「イヤああああああああああああああああああああああっ!!!!」
私の口から、悲しいまでの悲鳴があふれ出す。
その叫び声が、頭の中一枚に響き渡るその刹那に
(――ゆうり)
友達となった女の子の名が、小さな泡のように意識に浮かんでくる。
圧倒的な恐怖と孤独に翻弄され、私の全てを覆い隠していく。それでも、闇の中に飲みかまれるその瞬間。大切な友達の名前を思い出せたことに、ほんの小さな安堵を感じる。
それと同時に急速に体中の力が抜けていく。眠りのもとへと運ばれていく。
そうしてベットへと倒れていきながら、急速に薄れる私の視界の端に、部屋の扉から飛び込む二人の人影が映った気がする。でもそれも、すぐに見えなくなる。全部黒く塗り替えられていく。
闇へと沈む意識の狭間に。
「マリアちゃんっ!!」
そう呼ぶ声が滑り込む。でもそれは、もしかしたら私の願望が作り出した幻聴だったのかもしれない。
そう思うと、なんだかとても悲しくて、とてもとても切なくって。そうして私は意識を手放した。