第三話 「貴女の温もり」
ユーリ視点です。
生まれてからずっと、空ばかり見てきた。
青く澄んだ空や、星の瞬く空。
朝焼けに輝く空や、夕日に染まる空。
いろんな空を見てきた。
晴れの日も、曇りの日も。
雨の日も、雪の日も。
そして、黒煙のたなびく戦火の日も。
ぽっかりと時間が空いたとき、ふと気が付けば、わたしの目線は空へと向かう。
それはもう幼い時からの習慣だった。
自室のテラスから。
図書室の窓から。
中庭の東屋から。
そして、そう。それはお仕事の最中でもだった。
「――でも、こんな風に寝転がって見上げたのは、初めてかな」
コンスタンティーノの丘にある小さな公園で、わたしはそう小さく呟く。
背中に当たる芝生の感触は柔らかく、そのことからこの公園が手入れの行き届いた場所である事が窺える。おかげでわたしも彼女も怪我をする事は無かった。
「……うみゅ~」
もっとも、わたしの胸の上で目を回している彼女が、そこまで考えていたかは分からない。
『普段は思慮深くて、どちらかと言うと臆病な子なのに、何かの拍子に暴走してしまうおかしな子』とは、彼女のお姉さんであるイリスさんの言葉だ。
今振り返ってみても、たぶん衝動的にやってしまったんだろうと、そう容易に推測できるほど、あのときの彼女の行動は唐突なものだった。
あの時、突然わたしに抱きついてきた彼女。わたしを抱きしめたまま、楽しげに転がっていた彼女。
驚いた顔や、困った顔。はにかむ様に小さく笑った顔。出会ってからほんの数時間の間にいろんな顔を見せてくれたけど、あの時の顔は、一番彼女らしかったと思う。
青い空を見上げながら、わたしの心の中にとりとめなく浮かんでくるのは、そんな彼女の事ばかり。そうして気絶した彼女の温もりを胸の上で直に感じていると、不意に影がさす。
視線を僅かに動かせば、そこにはいつも側にいてくれる、青い髪の幼馴染の少女の顔。
「お怪我はありませんか、ユーリ様、アズマリア様」
胸の上の彼女が、わたしに抱きついてきてから、どれくらいの時が経ったのかはしらないが、こうして幼馴染が近づいてきた事を考えると、もう移動しなければならないのだろう。
「……」
無言のまま見上げるわたしの傍へと座ると、幼馴染はわたしの上に乗っかったままの彼女の頭を、自分の膝の上へと移し変える。その手にはあらかじめ嵌めていたであろう、白い手袋の形をした魔法具が装着されている。
さらり、さらり
優しくいたわる様に、幼馴染はそっと彼女の頭を撫でている。その行為の必要性は理解していても、急に大切なものを取られた気がして、少しだけムッとする。
そんなわたしに気が付いていたのだろう。普段の無表情な顔に、ちょっとだけ苦笑いを混ぜながら、幼馴染は告げてくる。
「……ご安心くださいユーリ様。アズマリア様の状態は安定しているご様子です。おそらくは今日一日の疲労もあって気を失っているのでしょう。"夢"は見ていないようでございます」
その言葉を聴いて、小さく安堵の息が漏れる。
彼女のこれからを思うと、"夢"はなるべく見ないほうがいい。ましてや彼女本人が、その意味に気付いていないのならば、なおさらそうわたしは思う。たとえそれが、どんなに残酷な事だとしてもだ。
幼馴染は彼女の服についた落ち葉を手早く払い落とすと、その体をそっと持ち上げベンチへと運んでしまう。
彼女の重みが消えてしまったことに、若干の寂しさを覚えながらも、わたしも自分で起き上がると、幼馴染の後に続いた。わたしの身なりを整えようとしてのことだろう。公園の目立たない所に待機していた侍女が近づこうとするのを、わたしは片手を挙げてやんわりと断る。
ベンチへと歩きながら、髪や服に着いた落ち葉などをさっと振り落とす。これくらいの事など、お仕事の最中には良く有ることなので気にもしない。
そんなわたしの行動に、幼馴染が無表情な仮面の奥から、咎める様な視線を送ってくる。確かに王女様らしからぬ仕草だろうけど、それは今更過ぎる指摘だろう。アヤ・ソフィアへの入学を控え、周りからは『それらしい行動を』と言われているけれど、わたしに言わせればそれこそ失笑ものの言い草だ。
"第一王女"らしい振る舞いは、必要なときだけでいい。
それが、わたしとお母様との約束だ。
そんな事を思いながらも、ゆっくりと気持ちを切り替えていく。
この丘の上にある公園から、遠く王宮の姿を眺めてしまったせいで、少し感傷的になってしまっていたようだ。そのことを漸く自覚する。お仕事のときと、そうでないときとの違いが曖昧になっている。いままでこんな事無かったのに、いつのまにか思考が感情に左右されてブレてしまっている。
わたしらしくもない。感情の制御など、お仕事を続ける内に、すっかり上達したと思っていたのに。
ベンチの上で眠る彼女の傍にしゃがみ込む。
まだ目が回っているのか、「う~ん、う~ん」と可愛らしい声を洩らし続けている。その姿を見詰めていると、自分の顔に自然と笑みが浮かぶのがわかった。
蜂蜜色の髪と、神秘的な琥珀色の瞳を持つ、わたしの初めてのお友達。
「……ねえマリアちゃん、貴女はどうして、あんな事をしたの?」
意識して、そう彼女の名を呼ぶ。
別に答えを期待してはいなかった。ただ、疑問に思ったのだ。
今日一日、わたしに対してどこかしら遠慮のあった彼女が、あんな大胆な事をするとは想像していなかった。
卑怯な事かもしれないけど、わたしは彼女の事をある程度知っている。それこそ、マリアちゃん本人が知らない事までも。
そのことに加えて、イリスさんから聞いた話も吟味した結果をもとに予想していた彼女の性格では、わたしと打ち解けるまでもう少し時間が掛かると思っていたのだ。それなのに、あの時彼女は―――
「――それはきっと、ユーリが寂しげな顔をしていたからではないでしょうか?」
思考の海に沈んでいたわたしは、幼馴染の声に顔を上げる。
「……そんな顔してた?」
幼馴染の青い瞳に向かって、そう問いかける。すると幼馴染は、いたずらっ子のような表情を浮かべて
「してましたよ。親に置いて行かれた子猫の様な顔を」
そうわたしに笑いかけてくれる。
幼馴染が、いえ、アリサがわたしにそんな顔を見せるのは、本当に久しぶりで。
「……そうかな?」
突然のことに、わたしはおっかなびっくりしながらも、アリサに再度そう問いかける。
「ええ、そうですよ。公園の入り口で控えていた私でも分かりましたもの。お隣に座っていらしたアズマリア様にはばっちり見えていた事でしょう」
そう言うと、アリサは可笑しげな顔をした。そんな顔も、ずいぶんと長い間見せたはくれなかったものだった。
「隣にいる王女様が、突然そんな顔をしているのです。その時のアズマリア様の狼狽ぶりといったらありませんでしたよ」
そう笑う幼馴染の声に、どうしてか恥ずかしさがこみ上げてくる。まるでさっきまでのマリアちゃんの様に、わたしの顔も真っ赤に染まったいることだろう。
本当におかしい。こんな風に気持ちが乱れる事なんて、今までなかったのに。
そんなわたしを笑って見詰めていたアリサは、急に優しげな顔になると。
「……ユーリがそんな顔をしているのが、アズマリア様にとっては堪らなくイヤだったのでしょうか。そんな貴女のためにどうしたらいいのかと悩んだ末の答えが、あの突飛な行動だったのでしょう。アズマリア様にとっては、それが友達を笑顔にさせられる、一番の方法だと思ったのかもしれません」
そう、彼女なりの答えを教えてくれた。
その答えに、ドクンと、心臓が大きな音を立てて跳ねる。
「友達を……笑顔に……?」
「ええ、ユーリに笑顔を取り戻るための、アズマリア様なりの励まし方だったのではないでしょうか」
私が勝手にそう思っているだけですけどね。そう言いながらも、でもアリサはどこかそう信じているように見えた。
「そっか……」
その気持ちをなんと表現すればいいのだろう。友達になりたいと言ったのはわたしの方からなのに、そう、とても恥ずかしくなってしまうではないか。
「ともだち」
マリアちゃんが、そう思ってくれている。
色々な理由があって"第一王女"のご学友に選ばれたのに、マリアちゃんは私の事を、友達だと、そう思ってくれたのだ。それだけでなく、落ち込んでいたわたしを励まそうとしてくれた。そのことがたまらなく嬉しい。
「……えへへ」
ちゃんと彼女の友達になれるのか、本音ではまだ不安があった。だけどアリアちゃんは、わたしに向かって証明してくれた。たとえそれがいきなり抱きついて、二人で芝生の上を転がるなんて、そんな突飛な発想のものであっても。彼女はきちんと応えてくれたのだ。
そのことに、涙が出そうなほど嬉しく思っているわたしがいる。
「ーーさて。いつまでもアズマリア様を、この様に屋外で置いておくわけには参りません。ユーリ様、そろそろ移動された方がよろしいかと」
感動に浸るわたしを静かに見守っていたアリサが、そう切り出してきた。目に浮かぶ涙をぬぐって顔を向けた先には、いつもの様に無表情な侍女の顔を貼り付けたアリサの姿。
職務に忠実であろうとする姿勢は、この数年間で見慣れたものだったが、今のわたしには寂しさを感じさせる。
それでもアリサの言う事ももっともな事だ。さりとて明日からの巡礼に必要な品々は、まだ買いそろっていない。ゆえにアヤ・ソフィアに戻るには早すぎるのだが、マリアちゃんの汚れた服も着替えさせてあげたい。そうすると一旦休める場所を探さねばならないが……。
「――わかりました。では、以前からイリスさんに紹介されていた『木洩れ日』というお店に向かいましょう」
そこならば問題なく受け入れてくれるだろう。店長のアニスさんという方にも挨拶をしておきたかったのでちょうどいい機会だ。そう考え行き先を告げるわたしに、アリサも同じ考えなのだろう。
「かしこまりました、ユーリ様」
そう答えると、マリアちゃんを背におぶると、わたしが歩き出すのを待つ。
アリサの背にマリアちゃんがしっかりとおぶさっているのを確認すると、イリスさんから聞いている『木洩れ日』の場所へ向けて歩を進めだす。
そうして暫く歩きながら、後ろに付いて来ているアリサに聞こえるように、わたしはそっと問いかける。
「ねえ、アリサ。 貴女はわたしの友達になってはくれないの?」
それは、この幼馴染に初めて会ったその日にしたのと、まったく同じ質問で。
そして、その答えは。
「……いいえ、私はユーリ様の近侍に過ぎませんので」
あの日のもとの、まったく変わらぬものだった。
"アリサ・エッジワース"
青い髪をした、もう一人のお姫様。
お母様を除けば、一番長くわたしと一緒にいてくれた幼馴染。
第一王女ユーリ・オルトティーヌの唯一の側近であり、そして、わたしの友達であるとを拒み続ける女の子。
彼女の立場は理解しているし、アリサがそう答えるのも分かっていた。
でも二人っきりだった生活に、これからはマリアちゃんも加わるのだ。今日だけでこれだけ沢山の出来事が起きたのだ。もしかしたら、十年越しに幼馴染と友情を結べる事だってあるかもしれない。
だからそう。マリアちゃんがしたように、わたしだって今までと違うことをしてもいいのかも知れないではないか。
「――ふふ」
その時には、初めての友達を盛大に巻き込んでみよう。
臆病なのか怖いもの知らずなのか、まだ良く掴みけれない友達だけど、マリアちゃんと一緒になら、この頑固者の幼馴染の首を立てに振らせることも出来るかもしれない。
コンスタンティーノの丘の石畳を下りながら、そんな未来を脳裏に思い浮かべる。
さっきまでいた公園から、二本の木が春の風に揺れる音が聞こえた気がした。
少し補足すると、主人公は前回ハイテンションになりすぎたせいで、緊張の糸が切れて気絶しています。