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【短編小説】骨

作者: 黒淵モコ



 どこまでも暗い夜だった。


 星の光が厚い雲に遮られ、人の影も、街の音も、宵闇の彼方へ消え去った夜だった。


 私は植田元町から、自宅のある星が丘に向かって歩いていた。すでにバスも走っておらず、またタクシーを呼ぶ金もない。歩いて帰るには、植田山を通り抜けるのが近道だ。

 大きな交差点を抜け、ポツン、ポツン、と灯りの灯る住宅街を通り過ぎる。そうやって寡黙に歩いていると、やがて、前方には闇に包まれた深い森が出現する。星が丘に戻るには、山を越えなければならない。

 今でこそ拓かれているが、昔はここも深い山だったらしい。

 そんな蒼々たる森の手前に、広い公園がある。緑豊かな空気に包まれたそこは、人々の憩いの場所だ。

 私はふらりと、吸い込まれるようにそこへ足を踏み入れた。

 辺りは静寂に包まれていた。がっくりとベンチに座り込み、大きく息を吐く。昼間は子どもたちのはしゃぎ声が飛び交うこの公園も、今は静寂に支配されている。


 もうこれ以上は一歩も動けない気がした。

 私の体は疲れきっていた。

 いつの間に忍び寄ってきた老いのせいだろうか。それとも、付き合いで飲まされた焼酎のせいだろうか。

 私は白髪の混じった頭を掻き毟った。野外灯の光が無残に垂れ下がった私の首に降り注いだ。

 辺りは暗黒だというのに、外灯だけは眠ることを知らないようだった。


 ふと何かの気配を感じた。

 それは急に私の元へやってきたようだった。否、本当はもっとずっと前から私に付き纏っていた予感であったかもしれない。


 だが、その正体はわからなかった。


 顔をもたげると、野外灯の傍に、大きな盤面の時計がぼんやりと立っている。

 それは普段は子ども達に帰る時間を告げるものだが、太陽もとうに沈んだ後ともなれば、ただ空しく時を刻むばかりである。


 この古ぼけた大時計の下に、優しい光に包まれた何かが立っていた。

 何かの影らしい。私は重い身体を引き摺って、その者の正体を確かめようとした。

 近づいてみると、その者は私よりだいぶ背の低かった。


 ――少女だろうか。


 私は目を凝らしてその影を眺めた。

 その時、思わずアッと声を上げた。

 それは骨だった。


 外灯に照らされ、ボウッと、幻想的に浮かび上がるその姿は、まさしく人の骨に違いなかった。


 私は大変驚いた。だが、その全身から眼を逸らすことはできなかった。


 何故だか恐怖心はなかった。

 この暗闇のせいで私の感情も麻痺してしまったのだろうか。それとも夢でも見ているのだろうか。

 骨は、大変ゆっくりとした動作で、小さな口を――一本も歯が欠けることなく生えそろった上顎と下顎を――開けた。


 そこには、がらんどうの真っ黒な空間があった。

 もし皮と肉があって、さらにその上に奇麗な色のルージュなどが引いてあれば、骨はいかにも美しく笑っているように見えたのだろう。


 だが、憐れな骨を飾るものは何一つなかった。

「わたしのことを知っていらっしゃいますか?」

 骨は私に聞いた。骨の『声』は透き通っていて、繊細だった。まるで夜の風が直接語りかけてくるようだった。

「ああ、知っているよ」

 骨の問いに、そう答えた。

 なぜ知っていると言ったのか。自分でもわからなかった。

「それは良かった」

 骨は、さらに口を少し開けた。

 私はその骨に対面して以来、心の内側に何か引っかかるものを感じていた。

 それは突如眼前に出現した不可思議な人骨に対する違和感というより、遠い昔に、無理やり仕舞い込んだはずの記憶が忽然と姿を現した感覚に似ていた。

 骨は、しばしば小学校の理科室などに置いてある人体の模型を髣髴とさせた。

 しかし骨は、模型というにはあまりにもリアルであったし、何より一辺の穢れもないほど白く清らかであった。


「お疲れなのですね」

「ああ、疲れているんだ」

 骨は私を労うように言った。

 骨の声のトーンは穏やかで優しかった。

「座っていいか?」

 私はそう声をかけた。骨はカタリと首を揺らした。それを見て、私はドサリと芝生へ座り込んだ。

 骨もそれに従い、両手を添え膝を閉じる様に静かに芝生へと座った。私たちは芝生の上に隣り合って座っていた。


 私は骨をまじまじと眺めた。骨の仕草は、かつてどこかで見た女のそれに似ていた。


 きっと骨は女なのだろう。


「君は何故ここにいるんだい?」

「……あなたがここへやって来たからです」

 骨の問いかけには、何か深い意味が隠されている気がした。

 その時、暗黒の空間のどこからか、青々しい翅を翻し、大きなオオミズアオが飛んできた。

 煌びやかな外灯に誘われたのだろう。オオミズアオはひらひらその、そのコバルトの羽根を翻し、私と骨の上を横切っていった。

 オオミズアオの儚げな影が骨に映し出されるようだった。


 無表情な大時計が静かに時を刻む下で、二人は隣同士に並んでいる。

 私の傍らで静かに座る骨は、幻のようでもあり、また、かつて愛した女のようでもあった。

闇の中に、憐れな女の白い姿がはっきりと浮んでいる。

 私は夢を見ているのだろうか。


「待っていたのか」

「ええ」

「僕のことを知っているのか」

「ええ、もちろん」

 骨はこくんと小さな頭蓋骨を揺らした。

「いつから?」

「ずっと前からよ……」

「君がそうなる前?」

 私は言い終えて、ハッとした。

 骨に対してひどく失礼な言い方に思えた。

 骨は何も言わなかった。

 私は無表情な骨の顔を覗きこんだ。

「怒ったの?」

「いいえ。……でも、無意味なことです」

 すると、骨はゆらりとその細く長く連なった腕を差し出した。

「触って下さいますか?」

 目の前に、白く折れそうな手の甲と指が浮かび上がった。

 私は黙ったまま、右手を伸ばした。私の手が骨の真珠色の手に重なった。

 すべすべとして艶のある手触りだ。

「かわいいね」

 私は息を吐いた。思いがけない言葉だった。

 私は自分の心の内側から滲みだしてくる温かい感情を感じていた。目の前にちょこんと屈みこむ骨の仕草も、言葉の調子も、実に柔和で可憐で魅惑的である。

 だが、彼女は骨だ。肉も皮も削げ落ちた、憐れな骨である。

「嬉しい」

 すると骨はため息をついた。

「嬉しいの?」

 私は不思議に思った。

「ええ、とっても」

 私は二つの重なった手の甲から、やがて骨の全身へと視線を移した。


 肋骨も背骨も骨盤も大腿骨も、すべて角がなく、柔らかかった。それが余計に、骨が女のものであるという私の確信を強めた。

 本来彼女の身体を隠すべきものは何もなかった。公園の外灯が、彼女の虚しい身体を照らし出している。


 骨は両腕を、自身の肋骨の前で組むようにした。私の舐めるような視線に気がついたのだろう。

 私は骨を憐れに思った。彼女に、女の恥じらいを隠すものは何もないのだ。

 私は、骨の顔の、本来は目があるはずの位置にある暗い穴をジッと眺めた。

 彼女も私のことを見ているようだった。私の瞳を探っているのだろうか。

 ごうごうと、夜風が公園を通り抜けていく。伸びた芝が風に揺れる。誰かの慟哭のように、悲しげに風がなく。


「君は……愛されたのかい?」

 私の言葉は闇の中へ消えていった。自分がどうしてこんなことを聞くのか自分でもわからなかった。

 骨は黙りこくったまま俯いた。

「わかりません。でも今は満足しています。こうしてあなたに逢えましたから」

彼女は、小さな骨盤を閉じるように、足を少し動かした。


 その仕草には、女の愛おしさと哀しさが滲み出していた。

「あなたにお聞きしたいんです。死について」

 骨は私に問うた。

「死? 死ぬってこと」

「そうです」

 彼女がそんなことを聞いてくるのには、訳がありそうだった。彼女がそのような姿になったことに関係するかもしれなかった。


「果てしなく遠くにいるつもりが、気がついたら近くまでやって来ている、そんなろくでなしの奴のことだよ。……いや、違うな。そうじゃない」

 私は唾を飲み込むと、自分の無精ひげのある顎を摩った。

「きっと初めから近くにいる……そうだな」

 私は、野外灯に照らされ芝生の上に長く伸びた互いの影を指差した。

「あの影のようなものだ」

 骨は黙って頷いた。私の意思をゆっくりとかみ締めるような素振りで。


 そして彼女は、淡々とした調子で言葉を続けた。

「では……生きることとはなんでしょうか。どういう意味があると思いますか」

「……長い寄り道のことさ。何の理由もないんだよ。気がついたら引き返せない。取り返しがつかなくなっているんだ。いつの間にかね。ただそれだけのことさ」

 私はすらすらと言葉を返した。それは私自身が普段から思っていることだった。私は徐に顔を上げた。

 そもそも今日この公園に立ち寄ったのだって、単なる気まぐれ、偶然のことであって、特別な理由なんてない。私の人生にしたってそう違いはない。


「人間とは罪悪でしょうか?」

 彼女は話し続けた。

「わからないな」

「わからないの?」

「誰も人間の犯す罪の正確な姿などはね、わからない。実態のないものは、無闇にさ、大きくなったり小さくなったりするんだから……ただそれだけのことだよ」

「あなたはどう思ってらっしゃるの?」

 骨は私を試すように言った。もし、骨に目玉があったのなら、さぞかし炯炯と光ったかもしれない。

 私は膝を抱えた姿勢のまま、大きくため息をついた。

「……自分のしたことの、結果は受け止めなきゃいけない」

 骨は安心したように、少しだけ小首を傾げる様にした。

 私は誰と話をしているんだろう。

 この一人の、女の魂をそのまま具現化したような美しい骨と向き合っていると、時間も空間も超越していくような錯覚を覚える。


 骨は厚く垂れ込めた雲がかかる暗黒の空を見上げた。私もそれに従った。この公園からは、空がよく見える。もし晴れていたら、さぞかし星のきらめきが美しかっただろう。もしこの公園に来なかったら、そんなことにも気がつかなかったかもしれない。


「宇宙とはなんでしょうか」

「難しいことを聞くんだね」

「うふふ」

「さあ、なんだろうね。僕にはわからない。きっと恐ろしく遠くて、果てしなくて……」

 ここから見える宇宙の姿は、厚い雲に遮られ、私たちの元へ届くことはなかった。

 骨は俯いてしなやかな両手の指を組んだり離したりした。それはきっとこの骨の癖なのだろう。

「人間は無意味なのかしら」

「そうじゃないよ。君、僕は思うのだが、女の中にこそ宇宙があると思うんだ。自身の体で無から有を、生命そのものを生み出せるのだから、それこそ宇宙そのものじゃないか」

「わたしもそう思います」

 骨は頷いた。カラカラと空しい音が鳴った。

「あなたは愛されたのですか」

「……いいや。愛されることはなかったね。ただ皆通り過ぎていっただけだよ。しかし、今となってはどうでもいいことだ」

 骨は華奢な身体を強張らせたようだった。

 両手を膝の上で重ねるようにすると、乾いた音が鳴った。骨は悲しそうな顔をした。

 いや、そう思わせているのは私の思考だ。

 悲しんでいるのは私なのだ。


「わたしはここにいてもよろしいですか」

「ああ、もちろんさ」

 私は、不思議とこの骨に愛着のようなものを感じていた。それは随分前にあった遠い感覚のように思えた。固く封印した懐かしさのようなものにも思えた。

 すると彼女も私の心を察したのか、擦り寄るようにその身体を私へ寄り添わせた。

 私はそれを受け入れた。

 今まで感じたことのないくらい優しい気持ちであった。


 彼女は一瞬私をジッと見つめ、すぐに折れてしまいそうなほど儚く華奢な両腕を私の肩へと回したのだった。

「これが……わたしの精一杯です」

 骨は俯いたまま呟いた。

「ああ」

 私は戸惑いを感じながらも、むなしい躯の身体をそっと抱きしめた。

 小さくしなやかな身体は愛しかった。

 きりり、と骨の軋む切ない音がした。

「わたしを愛して下さいますか」

 骨は私の耳元へ息を吹きかけるような調子でそっと囁いた。

 その声は実に艶っぽく、まるでそこに生きた女がいるような、生身の女を抱いているような感覚を私にもたらした。

 本来は、彼女はどんなに魅力的な女であったのだろうか。

 生きている時分には、彼岸花のように赤く可憐で、それでいて儚く悲しい色香の女だったのだろうか。

 しかし、彼女は骨だ。美しい姿とは正反対の哀しい骨である。

 女。それは幻だったのか。


「アアッ」


 骨は喘いだ。

 これまで聞いたどんな声よりも、私の脳髄を刺激し興奮させた。


 私は、さらに彼女の肩を強く抱いた。

「君を愛しているよ」


 私は言った。

 これまでにないほどはっきりとした調子で、私は告げた。

 どうしてだろう。

 どうして彼女を愛していると、私は言えるのだろう。私は……。

「嬉しい」

 骨は、そっと腕を放した。

 そして、スッと、私の目の前で立ち上がった。

「死ぬほど嬉しいわ」

 涙するように、そして喜びを全身で表現するように、骨は、ゆっくりと頷き両手を広げた。

 私の愛を、自身の人生を、この宇宙を、すべてを抱きとめるようだった。

 そして気がつけば、骨は徐々にその輪郭を失っていった。

 私の気持ちに反して、それは今にも崩れ落ちそうであった。

「待て、君は」

 私は慌てて哀しい骨の身体に手を伸ばした。

 しかし私の願いも空しく、華奢な姿の骨は夜明け前の霧のように見えなくなっていった。

「わたしはずっと……あなたの……」

 小さな声が聞こえた。

 しかしそれが最後だった。


 冷たく無常な夜風が、私の惨めな白髪交じりの髪を揺らした。

「待ってくれ! 頼む、行かないでくれ」


 すべてが遅すぎた。

 私は彼女を知っていたのだ。

 そう、ずっと以前から。彼女が生まれる、その以前から。


 今更になってようやく気がつくなんて。私は自分の愚かさに涙が出そうだった。

 公園にはもはや私の影しかいなった。ベンチも芝生も野外灯も元のままだった。何も変わってはいなかった。

 時計だけが、無常に時を刻んだ。


 私は目を瞑った。

 静かに彼女の姿を思い出した。 

 私の双眸の裏には確かに憐れな女の佇まいが刻まれていた。

 私は切なかった。

 生と死、罪、自分の人生、宇宙、そして女。すべてが辛く哀しかった。

               

 それから、どうにかして私は歩き出した。

 公園から出ると長い坂道である。家まで帰るにはこの峠を越えなければならない。

 相変わらず周囲は暗黒の最中であった。

 宵闇に包まれた家々はほんの極僅かな灯火を放つのみで、あとは監視するような電柱の葬列が遠くまで続いていた。

 ゴウゴウと風の音がした。

 私はただ歩いた。

 途中、雨が降り出してきた。

 大粒の雨だ。

 アスファルトを雨が伝い、私のすべてを洗い流してしまう。

 私の肉体も、精神も、罪も。


 私は涙を流した。かつてないほどの涙を流した。

 私の涙を大雨が拭った。ただその繰り返しであった。


 私は思い出していた。

 私を通り過ぎていった数々の女たち。私の中に、女の宿命に抗えぬ情念を灯していった女たち。

 私は終ぞ、その女たちを愛することはなかった。それは私の冷淡さゆえではなく、生まれついた劣等感の現われであった。私など、愛される価値がない、そう思っていたのだ。

 だが、一人だけ、私を真摯に愛した女がいた。

 華奢で色白の、可愛らしい女だった。

 私のすべてを包み込んでくれる女であった。


 私が二十五の頃である。

 私は生まれて初めて人を愛した。

 つまらない私のすべてをその女に与えたい、そう思ったのだ。

 やがて、女は子を宿した。

 私はうれしかった。

 自らの人生をかけて、その女とその小さな子を愛したいと願った。


 だが、叶わなかった。 

 子はこの世に生を受ける前に死んでしまった。

 流産したのである。


 私は名前をつけるか、と女に聞いた。女は拒否した。

 女の悲しみは果てしなく深く大きかった。

 今日骨と見上げた宇宙のようであった。

 私は泣いた。烈しく泣いた。


 終わりが見えぬほどに泣き暮れた。

 やがて女は私の元を離れた。


 骨は、生ではなく死だった。

 死んだまま、私のもとへやってきた。

 流れ落ちたはずの命が、時を経て私の気がつかぬ間に――私の後をしっかりと歩いていた。

 歩き続けていたのだ。


 私は涙を拭った。

 私は少しだけ、振り返った。


 彼女の死を、哀れを想った。

 辺りは暗いが道は開けている。


 坂を昇りきり大通りに出ると車が走る音が響き渡っていた。

 それは私の行く手を阻んだが――しばらくすると、青い灯火が光り私の歩く道を照らした。


 雨の中、私はしかと前を見、二度と振り返らなかった。



                   <了>


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