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吉原指南 九

翌朝、日が地の淵から漸く体を浮かせた頃、喜市の部屋の腰高障子がガタガタと揺れる。

朧に目が覚めてうとうととしていた侘助は瞼をこすりながら、風もないのに揺れる戸の隙間からこっそりと外をのぞいた。


「平助か」

「おう、侘助か。市場に行くんだろう。まだ旦那は寝てるかい」

障子を隔ててすっきりと晴れたほの暗い空を背負い、平助は掠れるような小さい声を出す。

「今、起こす」

侘助はそう言うと徐に夜着に包まる喜市の胸の上に跨り、足を浮かせてはのしかかる。

とたんに喜市は寝苦しそうに顔を歪め、まだ夢うつつなのか目を閉じたままばたばたと手で侘助を押しのけようとした。しかし侘助も心得ているようで、それをうまくひょいひょいとかわすと、今度は足をぶんぶんと振り回して喜市を揺さぶった。

それに漸く声をあげて悶えると、喜市は目をぱちりと開いて侘輔を睨んだ。


「お前はもっとましな起こし方が出来ねえのかよ。これじゃあ臍からはらわたが出ちまわあ」

文句を言い言い腹に乗った侘助を下ろしながら、喜市は障子の外の気配に気がついた。

「誰だい」


「平助だ」

侘助と平助の口から同時に出た言葉が、重なって喜市の耳に届く。

半ば眠った体をゆっくりと起こし障子を開ければ、そこには昨日の少年が妙に引き締まった顔でそこに立っていた。きっちりと着込まれた着物を見て、喜市はため息をつく。


「お武家殿、袴で振り売りなんざ聞いた事ありませんぜ。はいんな。」

喜市は体を部屋に引っ込めると、行李を探って股引きと着物を取り出した。

傍らでは侘助は少し欠けた火鉢を出して火を入れようとしている。八月も半ばが過ぎて朝晩はすっかり冷えるので、最近はこれが侘助の一日の初めの仕事になっていた。

「侘助、ついでにお武家様に餅を一つ温めてやってくんな。」


言いながら棚から布に包まれた餅を出すと、それを小さな手に預けた。

「お武家様、これに着替えてくんなさい。日がてっぺんに昇ればちったあ暑いだろうが、そんな足の青っちろいのは振り売りにはいないんでね。それと、失礼は重々承知だが、それを着たら貴方様はもう振り売りの見習いだ。言葉遣いも俺は相応にさせていただきますぜ。」

さあさあ、と平助を部屋に引き入れると、その胸元に手にした一式を押し付けた。


平助は雑に見える扱いに一度口をむうと屁の字に曲げたように見せたが、それも直ぐに引っ込めると早速着替えだした。

元々綺麗な顔立ちをした平助は、町奴の格好をすれば一層歌舞伎の売れっ子役者のようで、喜市が気を回した股引きもそれを引き立たせるものとなっていた。


「お武家様にそう着こなされちゃかなわないな」

ふふと笑いを漏らした喜市に、漸く平助も頬を緩める。

しかし、ぱちりと音を立てた炭に驚き、ひょいと飛び上がった侘助が平助が畳の上に置いた刀の上にしりもちを突いた瞬間だった。


「どけ!!」


と突然血相を変えた平助が声をあげた。思わず侘助も肩をすくめ慌てて腰を上げたが、そのために感覚をしくじってしまい、ふらついた拍子に箱膳にぶつかり、がたりと音を立ててから茶碗と一緒に土間の上に転げ落ちた。

喜市はというとまだしゃっきりと目覚めていなかったせいで、何が起きたのかが待ったく理解できていなかった。目を見開いてぼうっと平助を眺めるのみで、やっと刀を目に入れたと同時に、がらりと戸を引いて入ってきたのは清次郎だった。


「やあ、朝早くから騒がしいが、どうした」

清次郎はもうとっくに道場へ行く仕度を済ませていたようで、ぴしりと撫で付けられた野暮ったいほどに綺麗な髷と、のされてぱりりと音が響いてそうなほどの袴を身に着けていた。

長屋にはあんまりにも似合わぬもので、笑いそうになった喜市が口許を歪めたのをみて、清次郎は意味を履き違えたまま勝手にそれを深刻に捕らえて平助に目をやった。

清次郎にそうして見下ろされれば、平助もバツが悪そうに視線を横に逃がし、その脇ではじべたに座ったままの侘助がわけもわからぬままに清次郎を見上げる。


「何か不都合があったかな、藤堂殿。」

少し腰をかがめた清次郎が、覗き込んで聞く。視線をそらしたままの平助にたまりかねて喜市が

「清次郎殿」

と声をあげたが、それは清次郎がちらりと喜市にやった視線で制止されてしまった。


「藤堂殿」

しっかりと口に出された声に、とうとう平助は顔を向けると、少しだけ下唇を噛んだ後で答えた。


「ちびが私の刀の上に腰掛けたのです」

言ってまた、下唇を噛んで清次郎を見上げる。

理由を聞いた喜市は眉毛を引き上げて侘助と視線を交わすと、侘助はまだわからぬといった風に眉間に可愛らしいしわを作った。そんなことで、と喜市はため息を漏らしかけた。

が、しかし、清次郎が予想に反した言葉を口にする。


「なるほど、それはもっとも」

言って、じっくりと頷くと、清次郎は侘助を抱き上げた。

侘助の尻についた湿った砂が、清次郎の清潔な袖にこぼれる。

袖が汚れそうになるので、喜市は「おいおい」と声を上げかけてしまった。


「侘助、刀は私たちの身と同じなのだよ。血が通っているんだ。わかるかな。」

「わからん」

優しく言い含める清次郎を余所に、侘助があっさりと言い放ったのがおかしくて、喜市は慌てて口の中に笑い声をとどめた。


「そうだなあ、刀は体から離れちゃいるが、狸で言ったら尻尾みたいなもんだよ。

なければ格好がつかない。それに、少し凄いところがあってな。これはいざというときに人を守ることも出来る。」

一瞬、喜市はひやりとした。わざわざ清次郎が狸で例えるものだから、まさか侘助のことがばれやしないかと案じた。

それは過ぎた心配に終わったのだが、少し茶化したような清次郎の言い振りに、平助はまた顔をむすりとさせた。


侘助は抱き上げられたまま目を左右にぐるりとめぐらせると、ほう、と言わんばかりに目を少し大きくして、尻を押さえて頷いた。それをにこりとして迎えた清次郎は、平助のほうに視線をやる。

むくれた顔を少し解きながらも平助は下唇を再び噛んだ。


「さすが、武士のお子だ。近頃は刀を質に入れる侍も多いのだがね、これは武士の心だ。

武士が刀をかざして威張り散らす時代ではないが、いざというときに主や守るべき者のためにいつでも抜けるようにおくものだ。

藤堂殿のお怒り、ごもっとも」

先ほどまで優しく笑みをたたえていた顔は一変して、清次郎は頬を締めた後でゆっくりと口にした。

当の平助は、真っ向から褒められたことに照れたと見えて、頬をかく仕草で誤魔化していた。



「それでは、大変だろうが、また夕に。」

侘助を下ろすと清次郎はさっさと喜市達に背を向け、戸をくぐり際に

「平助殿、伊東道場までの道は平気か」

と聞き、平助が頷くとにこりと笑って自分の部屋へと戻っていった。

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