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吉原指南 六

「やあ、丁度良い時間に来ましたな。」

下男に導かれていつもの部屋に通されて直ぐ、にっこりと人のよさそうな笑顔を浮かべた道三郎は、稽古を終えたばかりなのだろうか、手ぬぐいで首を伝う汗を拭きながら廊下をやってきた。

「汗だけちいと拭いてきます。申し訳ないが待っていてください。」

そう言った道三郎は、清次郎がひょいとかざした田楽の入った竹筒を見ると、「お」と声を上げんとして口を開け、喉の奥からごく遠慮がちな喜びを漏らしてその笑みを益々強める。威厳のある顔つきをしていても、それがひとたび緩めば案外屈託のない笑顔を浮かべる道三郎の顔に、清次郎は伊東よりも深い親しみを感じていた。


「やあ誰か」

そう呼んでやってきた下女に「あちらを頂いて温めておいてくれるか」と道三郎が告げると、清次郎はその早くもあかぎれをこさえそうな、つやっけのない下女の手に竹筒を託した。


高名な千葉道場の屈強な者達の先頭にあって、道三郎は穏やかで人当たりの良い青年だった。勿論ひとたび剣を取ればまるで手妻で誰かと入れ替わりでもしたのではないかと思うほどの俊敏な動きには目を疑わされる。

それでも平時には春の野山のようにのんびりとすごす、どこか似たような雰囲気を持つ二人は、何度か会ううちにすっかりと良い呑み仲間になったのだ。

しかし当初、あの本家本元の玄武館道場の主に会いに行くと伊東に言われたときには清次郎は随分恐縮したものだが、会ってみれば拍子抜けするほど「剣豪」とは程遠い柔らかな雰囲気と、思いやりのある人柄にすっかり魅せられてしまっていた。さすが大道場の道場主ともあれば、えらぶることもなく山がごとくどっしりと構えるものなのかと感心すらした。


清次郎が通されたこぢんまりとした六畳ばかりの部屋も、文机の脇には整然と書物が積み上げられ、塵一つないと見受けられるほどに掃き清められていて、部屋の主の人となりを映し出していた。


「恐れ入ります。狩野様、お酒は冷でしょうか、燗にいたしましょうか」

少しして先ほどの下女がうろたえ気味に清次郎に話しかける。こちらを見てはいるものの、合わせはしない目がたたみを見つめて左右へと迷う。

蜆のような小さくて可愛らしい目は澄んでいて、まだ幼さを覗かせていて、清次郎は思わず微笑んだ。

「そうだなあ、燗でお願いしようかな」

返事をした下女が立ち上がろうとした刹那、清次郎は思いついてそれを制止した。首をかしげて袖口で顔を隠す下女ににこにこと笑みを向けながら、来る途中で買い求めた飴を袂から取り出すと年に似合わず落ち着いた紺色の着物に覆われた丸い膝の前に置いた。

「少ないが、皆であがっておくれ」


女中は飴の入った包みに視線を落とすと、自然と顔を覆っていた袖を下ろして僅かに頬を緩めて見せたが、すぐにそれを打ち消して首を振る。真一文字に締められた唇の凛々しさは少年のようだった。

「いただけません」

「はて、飴は嫌いか」

しまった、と清次郎は表情を曇らせた。自分がそういうものに疎いことを十分わかっていた清次郎は、素直に今度は大福にしようかなどと考え込むところだった。

「そんなことは」

それを見て慌てて声をあげた下女は、はっとした様子でその掌で自分の口を塞ぐ。

自分のはしたなさにほのかに赤らめた頬が可愛らしくて、清次郎は声をあげて笑ってしまった。

「いいから、もし遠慮をしているのなら気にせずおあがりなさい」

手を出さぬために、膝の上にぽんと飴を包んだ紙を置かれた下女は、顔にほんのりと笑みをたたえてあかぎれの手に大切にその包みを収めた。

「有難う御座います」

深々とこぢんまりとした頭を下げる姿に参ってしまった清次郎は、気まずさを誤魔化しながら言葉を足す。

「何か、好きなものはあるかな」

しかし、顔を伏したままの下女は「いいえ」と小さくこたえてからさっと頭を下げると、逃げるように廊下をするすると滑って消えていった。


「いやはや、狩野殿は罪作りだ」

汗を拭き終え廊下を戻ってきた道三郎は、去っていく下女の背中を見つめ、赤みの少し退いた顔に僅かについたしずくを手ぬぐいで拭いながらちらりと清次郎に目をやる。

しかしその意図わからず、ただはて、と小首を傾げるだけの清次郎の向かいに腰を下ろした道三郎は、張り合いのなさに苦笑いを浮かべた。                                    


「いや、菓子の先生。すっかり女中たちのお待ちかねですな」

ふふふと笑う道三郎に漸く意味を飲み込んだ清次郎は、しゃれの効いた言葉を返せるわけもなく、ただただ照れ隠しで首の後ろをかいては誤魔化した。

色恋のからかいに清次郎はうとい。

誠実さと剣の腕もあったが、そんな垢抜けないところは、道三郎が清次郎を気に入った所以でもあった。


「清次郎と呼んでいただいてよろしいのだがなあ」

「いや、年長の方にそうは行きますまい」

温和に見えて、このように道三郎の芯は頑として動かない。

これがまた、清次郎が道三郎を慕う要因の一つだ。道三郎がこう言うであろうことは百も承知な清次郎は、それ以上押したりなどはしなかった。


「伊東くんはお元気ですか」

「はい、変わりなく。最近は遅くまで書物を読まれているようで中々こちらまで出向くことも出来ないようだけれど」

「ああ、あの人はそういうのが好きですからな。最近お上の方も世間も、夷敵だ開国だなんだと騒がしいようだし、一層熱が入っておるのでしょう」

「しかし、攘夷より先に飯を食わねば大蔵殿が倒れてしまわぬかが心配事です」

清次郎が浮かべた苦笑いに、道三郎は「ごもっとも」と方眉を上げて頷いた。


思わずそのままいつもの世間話になってしまいそうだったのを、清次郎ははっと気づいて引き止めた。

「今日はお願いがあって参ったのです。道三郎殿。」

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