吉原指南 五
「それはそうと、昼見世前だから四つより前に行かなきゃなんねえが、例えば剣のお師匠さんなんかには怒られないでしょうかね。道場ってのは朝早いんじゃないのかい」
不意に空豆が顔を上げて明るくして見せた一方で、平助は途端に顔を曇らせる。やはり堂々と言えない後ろ暗い思いがあるのかとため息をつく喜市を他所に、清次郎は弟でも思いやるような穏やかなまなざしをむけた。
微笑ましい光景だと緩んだ喜市の心に、すっと悪い予感が横切り、またそれは残念なことに的中してしまった。
「藤堂殿はどちらの道場で」
「玄武館道場です。北辰一刀流の。」
渋い顔をさせたまま力なげにいう平助とは対照的に、清次郎の顔は明るくなったように見えた。悪い予感が確実なものとなりつつあるのを、喜市は、そして空豆は実感して同時にため息をつく。
しかしそんなことなど全く気づかない様子で、浮つき気味の声の清次郎は続ける。
「それならば余計に都合が良い。深川に、伊東道場と言う私がお世話になっている道場があるのですが、その分の稽古をそちらで付けられるように計らいましょう。ただし、半月だけ。」
話がすすむにつれ期待に胸を膨らませる平助に対して、さも名案だというような晴れやかな顔できっぱりと言い切る清次郎であったが、そこに喜市が口を挟む。
「しかし、清次郎殿。玄武館って言ったら俺だって知ってる大道場だ。そこのお師さんが町人の真似事なんざ許すかね。ましてや他の道場で稽古だなんて。」
半ば突っかかるように口にする喜市の意図も汲まず、清次郎は落ち着き払って笑みまで湛えて答える。
「玄武館であれば返っていいかもしれない。あそこは志さえあれば誰にでも門戸を開く懐の深い道場だ。無下に駄目だとは言わないだろう。それに、俺から道三郎殿の方に、少しお預かりをしたいと口ぞえしておこう。」
「先生を知ってるのか」
喜市が言葉を返す前に清次郎の言葉に反応して飛びついたのは平助だった。
思いがけない言葉を聞いたためか、言葉の使い方も忘れて声をあげていた。
「千葉先生のご子息と知り合いなのかい、狩野殿」
大家も思わず萎縮した体を忘れて口を挟む。清次郎はその空豆の驚きに首をかしげながら「はい」とうなづいた。
千葉道三郎は江戸の四大道場に数えられる玄武館の現在の主であり、北辰一刀流を開いた千葉周作の三男であった。その名は武家のみにとどまらず、町屋の人々にも知られていた。
清次郎が稽古をつけている深川の伊東道場はその北辰一刀流の道場であるのだ。
「大蔵殿と玄武館に伺った際にお話して以来、たまに酒をご馳走になったりするのだよ。」
目を見開いて体をついかぶりつくように前に傾けている平助に、清次郎は笑って答える。
なるほどだから随分酒の匂いを漂わせて帰ることも多くなったのかと合点しつつも、喜市は清次郎がそのような高名な人物と知り合いだと言うことに空豆と同様に驚いていた。
当の清次郎はそんな驚きのわけに気づくこともなく、平助が北辰一刀流だという偶然に嬉しそうに頬を緩めていた。
翌日、午前の稽古を終えた後、頃合を見計らった清次郎は玄武館へと早速足を運んだ。
空はすっかりと高く、大川を渡す永代橋に差し掛かれば、少しばかり体を冷やすような風が更々と肌の上を撫で、帰りがけに湯屋に寄った清次郎には至極心地が良かった。
こんな時には田楽を肴に燗で一杯も悪くないな、などと考えていると、橋の袂で丁度良く田楽の屋台に出くわし、清次郎はふらりと立ち寄ってそれを買い求めた。
竹筒に田楽を押し込んでいる間、店主と屋台の客は不思議そうな顔をして妙に浮かれた二本ざしの清次郎を眺めていたが、清次郎はそんなことにかまう様子もなく、手に入れた好物を満足そうに眺めながら再び玄武館へと歩を進める。
玄武館は清次郎達の住む亀井町からそう遠くはなく、それ故に清次郎は度々こうして肴を持参して年の近い道三郎と酒を交わすのだ。
だから、千葉道場の門前に立つとすぐさま門番を請け負う男は
「道三郎様ですね」
と、凛々しい顔のまま清次郎を取り次いでくれた。