吉原指南 三
「さあ、早く汗を拭かなければ、藤堂殿」
その様子を見てか、さっきの険しい表情が嘘のように清次郎の顔はぐっと和らいでおり、一方の平助もとっくに強く出る気が失せていたらしく、おとなしくうなずくとその手ぬぐいをうけとり、首や額や胸元の汗を素早くぬぐい去った。
この時になって、空豆も漸く安堵したらしく、ろくに噛み砕いていなかった柿を噛み締めると
「ほお、旨い」
と、遠くの山彦のように間の抜けた声をあげた。
「とにかく、今日は大変助かり申した。どれ、お屋敷までお送りいたします。」
日の暮れるのも早かろうと清次郎が心配してそう告げると、平助の顔には途端に緊張が走る。
「いやいい。どうぞ、お気になされませんよう」
手ぬぐいを握る手に力を込めつつ、言葉を正して丁重に断り清次郎から目をそらす。
妙にこわばった顔に清次郎は首を傾げつつ少し思案すると、ああ、と掌にこぶしを突いてはにかみ
「これは失礼、袴と差しものはして行きますゆえ、ご心配なさらず」
と着流しの襟元を調えながら、袴を履きに部屋に入ろうとした。
しかし、平助はなお頑なに思えるほどに慌てて清次郎の袖をつかみ
「いや、一人で結構です」
と引き止める。清次郎はしばし眉を寄せて平助を見やっていたが、彼の顔が緩むことはなかった。
「いいじゃねえか、清次郎殿。いくら若くてもお武家の坊ちゃんだ。そうそう危ないことでもあるまいよ」
喜市が柿を食い終えて言えば、視線を逃したままでにふるふると上下に頭を振るだけだった。
「そうか、それならば気をつけて帰られよ。これからも侘助と遊んでやってくれな」
腑に落ちないという顔をしながらも、平助が使い終わった手ぬぐいを受け取ると、清次郎はそれでもって侘助の甘い汁でべとつく手を拭いてやった。
「それなら、また、参ります」
ちらりと目をやる平助に、侘助はくりくりとした目でこくりとうなずくと、張り合わせればまだぺたぺたと音がする手を洗いに、井戸端まで走っていった。
「でも明日から、侘助は浅利の振り売りだろう?」
柿を飲み込み甘さの余韻ににこにことしていた空豆が、気がついたように口を挟む。
「振り売り?」
「へえ、天秤棒担いでアサリを売りに行くんでさあ。喜市が花売りに吉原に行くもんでね」
空豆はそのなで肩に、担いだふりをしてみせた。
「吉原に?」
「へえ。一軒一軒花をね、売りに回るんでさ。羨ましい限りだね。」
聞き返した平助に、空豆はまたへえこらとにやつきながら話を続け、挙句どうでも良いことを付け加えた。
その言葉に平助の目が僅かに輝いたことを喜市が気に掛けたときであった。平助の頭が突然下へと振れた。
「藤堂殿、どうなされた」
平助のいきなりの態度に困惑した清次郎がその肩をつかんで引き起こしにかかるが、そのまん前に立っていた喜市は何がなんだかと、それを見ているばかりであった。
「頼みがある、私を共させてはくれないだろうか」
「へ?」
意味がわからず首を傾げる喜市を、顔だけ上げた平助が見つめ、言葉を続ける。
「私を、その、花の振り売りというやつに共させていただいたい」
一瞬呆気に取られたものの、同じように呆けている清次郎に気づいた喜市は。慌ててその場に片膝をつけてしゃがみ込んだ。
「藤堂様、お武家様はその様に易々と頭を下げるもんじゃありませんぜ」
喜市は平助よりも低い位置に頭を下げると、そのままそうたしなめた。
余りに素早い対応に、清次郎は平助の脇でその仕草に見入ってしまった。
「しかし、どうしても頼みたいのだ」
凛とした顔のままその場にしゃがむと、平助は喜市に懇願した。
「お武家殿、ならねえよ。さあ、おたちなすって。」
きっと睨むように目をやった喜市に、平助は思わず肩を跳ね上げそうになりながらも、頑として立ち上がろうとしなかった。
「藤堂殿」
見かねた清次郎が引き起こそうとしても、平助はその手を払って喜市と見合っていた。
ため息をつきつつ喜市が見上げてみれば、眉を八の字にした清次郎が助けを求めていた。その更に向こうでは、空豆が浮き出た汗を夕日に光らせながら喜市に向かって、平助を引き起こせと両手で指図をする。
「このままじゃちゃんとお話も出来ますまいよ。平伏しあって話し合うなんて、俺も柄じゃないんでね。とりあえず立ってくんなせえ。話はそれからじゃねえとききません」
そう言ってやっと平助の顔にためらいが生まれた。
すかさず喜市が強い視線を押し付けて
「さあ」
と促すと、平助はしぶしぶ立ち上がった。