吉原指南 二
品のよさそうなその顔立ちと服の具合から、武家のご子息かと思ったのだけれども、それにしては付き人もいない、けれども腰には妙に威厳のあるこしらえの刀を一本差ししているわで何とも不思議であった。
「いやいや、お武家様にご迷惑をおかけしたようで。」
しかし大家も少年の品のよさそうな様からお武家だと悟ったのか、手を擦り合わせるようにして近づくと、へこへことその空豆頭を下げた。
「いや、元はと言えば私が目を離したのがいけなかった。まさか今日に限って家主に見つかろうとは。あそこの柿は絶品なのになあ」
意味の分からぬことを呟きながら、少年は侘助を清次郎の部屋の前で下ろした。
侘助は少し着物のしわを伸ばすと、何もなかったかのように八郎からの書付を懐か取り出して喜市に差し出した。書付のないもう片方の手には、つやつやと光った大きな柿がある。少年の言っていた柿とはこれのことだろうかと喜市はしゃがみこんで眺める。
「侘助お前、それはどうしたんだい」
「平助に教えてもらってとった」
「礼は言ったのか?」
書付を受け取りながら喜市が促すと、侘助はくるりと振り返りよろけて見せつつも、自分をおぶってきてくれた平助に向きなおる。
「ありがとうな」
いつものようにぶっきらぼうな口調で礼を述べると、手にしていた柿の実をごしごしと服で拭ってその輝きを感心したように眺めた。
いくら少年とは言えど武士に対してそんなぞんざいな挨拶をしたものだから、大家の空豆は傍らでびくびくと少年の顔色をうかがっている。内心都合のよい言い訳でもつけて逃げ出したいのだろうが、大家という立場上では店子の世話をしてくれた平助を放って逃げるわけにはいかず、清次郎と喜市に必死の目配せをしていた。
「申し訳ない、お武家様。侘助が世話になったみたいで」
大家が干からびる前にと、喜市が補うように口にすれば、平助はさして気にもならぬ様子で服のしわを引っ張りながら
「いや別に。俺がちびを良く見てなかったのがいけないんだよ」
とけろりと言って見せた。
喜市がほっとしたのもつかの間、一方の大家は気が済まなかったらしく、汗をかきながらへこへこと頭を下げて付け加えた。大家はお人よしのいい奴だったが、それが度を越すと小心ゆえに誰彼かまわずへつらってしまうのはどうにも悪いくせだった。
「いやしかし、お武家様に背負わせるだなどととんだ無礼を致しまして」
その大げさぶりは平助も気にかかったらしく、眉間のしわを寄せて煙たそうに空豆を見下ろすと
「いいと言っているだろう。見苦しいなあ。これだから年寄りは嫌なんだよ」
と吐き捨てるように言い捨てた。
きつい言い草に喜市は顔をしかめたが
「お武家殿、その言い草は捨て置けんませんな」
と口を割り込んだのは清次郎だった。
喜市は自分が口にしようとした言葉が清次郎から出てきたのにびっくりしたが、何よりそう咎めた清次郎の顔が珍しく険しいものだったことに驚いた。
いつもなら侘助の不躾を喜市が叱ろうとすれば、まあまあとなだめて優しく諭す清次郎である。思いがけない言葉に驚いていたのは大家も一緒だった。
「どんな家格のお武家であろうと、それが年長のものに言葉を荒げる理由にはならない。
生きて来た年月にはかなわないのだよ。それだけで敬うに値するのだ。」
「年長の町民ごときにへつらうのか。武士も落ちぶれたものだ。」
「へつらうんじゃない、敬うんだよ。」
口を尖らせて言い返す少年に、清次郎は毅然として答える。その脇では空豆が相変わらすの慌て顔で目をきょろきょろとさせていた。
「まあまあ、いいじゃねえか。わざわざ本所からこんな所まで重たい侘助を運んでくれたんだ。取り敢えずは礼を申さねば道理が通るまいよ。説教はそれからでもいいだろう。」
ぴりぴりとした二人を見比べては、湯だって卒倒してしまいそうに顔を赤くしている空豆を見かねた喜市は、ぱんぱんと二つ手を打つのを停戦の合図に、二人に笑いかけた。
しかし、平助の顔はむっつりと清次郎を睨みつけたままである。どうにも喜市が困り果てたその時だった。
「平助、食うか。」
いつの間にやら席をはずしていた侘助は、先まで拭いていた柿の実を四つに切り分けていて、その手に乗せて差し出していた。みずみずしいその実から溢れた水分が侘助の手の上で輝いている。
「侘助、一切れ足りねえよ」
妙に時が止まったような気まずい息苦しさに、喜市は口を開いたが、どうやら侘助はどうとも思っていないらしい。再びずいと手を差し出すといつもと同じように無愛想に
「俺は要らない」
と答えた。
「どうして。折角とったのに。うまかったろう?俺のとっておきなんだぞ。」
そうすかさずたずねたのは、平助、と呼ばれたその少年だった。すっかり清次郎からは視線を外して不思議そうな顔をしている。清次郎の方も、寄せた眉間を緩めて侘助に首を傾げていた。
「旨かった。」
「じゃあ、何で」
かぶせるように平助は聞く。
「旨かったから皆に食わせたい。これはもっと旨い。匂いが違う。」
侘助は、何で、と聞かれることの方が不思議なようで、首をかしげながら肘を伝った柿の実の汁をぺろりと舐めた。
「それに平助は俺にくれたから食っていない。」
「俺はいつも食ってるよ」
「でも、あの木の中でこれが一番旨いぞ。」
「食ってもないのにわかるものか」
「匂いが違う」
小気味良い拍子の問答が終わると、平助は納得がいかない様子で侘助を見つめていたままだっが、清次郎はその小さな手いっぱいに乗った柿の一つを手にすると、それをひょいと口に放り込んだ。
余りにためらいがなかったものだから、平助は少々呆気に取られながらその様子を眺めていた。
「いやあ、これは旨いな、確かに。今年一番かも知れぬよ。平助殿、侘助の鼻はようく利くんだ、間違いないよ。」
容赦ない甘さに笑顔を綻ばせる清次郎を横目に見て、平助は気まずそうな顔を見せつつも無造作に柿を拾い上げ、そろりと口に運んだ。
するとその味は侘助の言うとおりのものだったのだろう、目を大きくした平助は侘助を見ると
「凄いな、ちび。確かに一番美味い」
と声を漏らした。
侘助はそれににこりとするでもなく、ただ少し満足げにこっくりとうなづくと、隣にいた空豆にもその手を差し出し、柿を食うよう促した。
「こいつは侘助っていうんだ。いい名でしょう。そう呼んであげてくんなさい。」
言いながら喜市は侘助がつまんで差し出してくれた最後の一切れを食べた。
お、とその甘さに目を丸くしながら、喜市は侘助に上出来だとうなずいてみせる。
「いやあ、いいもらい物をしたものだ、かたじけない、お武家様」
「いや、俺のものじゃないしなあ。」
そう素直に感謝の言葉を向けられると、平助は決まりが悪そうにそうこぼして額をかいた。
初々しく感じるその額には、まだ乾ききらぬ汗が光っている。
「私は、狩野清次郎と申す。」
へっついの脇に置いてあった手ぬぐいを取り出して差し出す清次郎に、平助ははっとしたように僅かに背筋を伸ばし
「私は、藤堂平助と申します。」
と言って、花が風に吹かれるように、しなやかに頭を垂れた。