吉原指南 拾四
八重咲に教えてもらったとおりに稲本楼に行くと見世番が訝しげに二人を睨み付けた。
中見世の稲本楼の店構えは立派で、一端の町人風情が世話になることはまずない妓楼である。二階の窓をじいっと見つめる平助の背中を叩き、喜市は見世の中へと促した。
が、途端に見世番が「おい」と低く響く声で呼び止める。
二人が振り返れば、身の丈が五尺六寸はありそうながっしりとした見世番が立ち上がり、腕組みをしてこちらを睨みつけている。
思わずぎょっとして眼を見開いた平助とは対照的に、喜市は飄々と「源次に用があるんでい」と言うと気にせず足を進めた。平助は突然喜市に背中を押され、足がもつれかけた。
眉をひそめて喜市をみると、飄々とした表情の中で目だけは笑わずに、そして声を潜めて平助にこういった。
「平助、お前は振り返るんじゃねえよ」
「なぜ」
とっさに聞き返したが、喜市は返答せずに暖簾の奥へと平助を押し込んだ。
不意に訪れた客に、番台で大福帳を睨んでいた番頭が顔を上げ、顔をしかめて平助を見た後でその顔を喜市にぐるりと向ける。暫く首を傾げた後で漸く何かが腑に落ちたらしく、一気に顔を緩めて番台から出て向かってきた。
「喜市じゃないか、どうしたんだい久方ぶりだねえ」
喜市より十は年が上かと思われる番頭は、喜市の肩をばしばしと叩いては嬉しそうに笑った。一瞬口の端を引きつらせた喜市は、さっさと草履を脱いで手ぬぐいで軽く足を払うと平助を引き揚げ、その背に隠し「源次って奴に会いに来たんだよ」と一言番頭に告げた。
空気がぴりりと張ったのが、番頭の顔が見えない平助にもわかった。
番頭は再び首を傾げると、納得がいかない様子で後ろに隠れた平助を覗き込んだ。
おもむろに、喜市が平助の笠をぐっと下げる。
「おまえんとこには迷惑掛けねえよ。伊之助から案内されて、源次って髪結いを借りてえんだ。ちっとこいつが見られねえような頭になっちまってよ。他の髪結いが空いてねえのさ」
そう口早に告げる喜市の顔を番頭はじっと見つめ、顎を指で捻って少し考えていたが、喜市が拝むような素振りを見せるとしぶしぶ顎をしゃくって二階へ促した。
「お前さんがわけありってことは察したろうが、間夫じゃねえって説明しなくていいだけましだったよ。お前さんみたいな坊ちゃんがあの手のやつに顔を覚えられてもここじゃあろくなことはねえさ。面倒なんだよ。特にここの番頭は一層面倒だ。面倒に輪を掛けておせっかいだ。」
階段を上りながら、喜市は漸くいつものように口を開いた。
階段は揚がった座敷の奥から、今入ってきた入口のほうへ向かって上る妓楼特有の作りで、おかげで上がりかまちに腰掛けた番頭の上へとのぼっていたから、喜市の声は番頭目掛けてすっかりと筒抜けてしまい「誰が一層面倒だ花市が!」と真下からきせるで階段をつつかれた。
二階に上がると、中郎(妓郎で掃除など雑用をする男)たちが規則的で小気味よい足音を響かせながらせわしなく廊下に雑巾を掛けていた。独楽鼠のように駆け回るそれがまるで見えないかのように女達はあくびをこさえながらゆったりと歩き、または朋輩と立ち話にいそしんでいた。後ろからはおいかけっこをする禿たちがきゃあきゃあと声をあげながらかけてくる。
そんな中からちらちらと向けられる視線と笑い声に、平助は屋根の下で笠を被っている自分のいでたちを恥じて、益々深く笠を沈めたが、そのせいで突然立ち止まった喜市の背中にぶつかった。
「あはっ、花市どん」
平助が顔を上げて喜市の肩ごしに覗けば、中庭に面した格子に手をかけ、鬢の僅かに乱れた女郎がしなだれるように立っていた。
白粉が剥げた首が妙に生々しい女は、格子を伝ってこちらへと近づいた。
「久しいじゃありんせんか花市どん。」
気だるそうな体とは打って変わって弾んだ声をだした女は、にいっとわらって襟元を直した。
「へえ、小芝じゃねえか久しいな。どうだいあのどへたな三味線はましになったかい。」
「どへたとは随分じゃないか」
さっきまでのしなだれた仕草はどこへやら、小芝と呼ばれた女は頬を膨らせ、腰に手を当ててわざとらしく怒って見せた。
「わっちは今じゃあ明石っていう立派な座敷持ちさ。今も馴染みの居続けを見送ったばかりの売れっ妓なんだよ。三味なんざ今じゃお手の物さ。あんまり上手で聞かせてやるのも勿体のうてたまりんせん。」
憎まれ口は明らかに楽しそうで、突きつけられた喜市のほうもまんざらでもない様子でわらって見せた。
「では明石様。お会いできて丁度良かった。お前の小稲ねえさんの所に連れてっとくんな。随分来てないんでわからなくなっちまった。」
変わらずぞんざいな扱いの喜市に微笑んだ後で、明石はちらりと平助に目をやったことに気づいた喜市は、聞かれるよりも先に「弟子だよ」と短く答えた。途端に明石は「あはっ」と一つ大きな笑い声を上げた。響いた声で既にこちらなど気にしなくなっていた女郎たちの視線がまた集まったのが、平助にはたまらなかった。
「お弟子さん、喜市って奴はねえ、あの大見世の玉屋で女郎といい仲になっちまってねえ」
「明石殿、こっちは急いでるんだよ。小稲はどこだい。そこにいる源次って髪結いにあいてえんだよ」
自分の話を遮って、少しいらだったように喜市が声をあげたので、明石は目を丸くして拗ねたように口を尖らせた。
「今はわっちの小稲ねえさんじゃありんせんよ。今の小稲は二代目さ。わっちの朋輩がなりんした。」
少し眉をひそめ寂しそうに目をそらすと、明石はわざとらしく大きなあくびを打ち、再び気だるそうに格子に寄りかかると
「そこの突き当りを右に行きなんし。牡丹の絵が描いている襖が小稲の部屋さ」
と、今度はその姿に似合ったぶっきら棒な物言いをして、独楽鼠を邪魔そうに避けながら行ってしまった。
日に当たってくたびれてしまった花のような、艶やかでも痛々しいその後姿を平助は自然と目で追っていた。
「残念だな。朋輩に姉さんの名前取られちまったのが悔しいのさ。お侍さんで言う所の、やっとうの道場の跡を継ぐようなもんだからな。姉さんの名前を貰うってのはさ。さあほら、行くぞ」
そう言って直ぐ、喜市が離れる気配がして平助は慌てて追いかけた。
「なら、少しくらい優しくしてやってもよかろうに」
小走りに追いついて、平助は納得が行かぬと、眉間に皺を寄せて文句を言った。去り際の明石の姿があまりに頼りなかったことが不憫でたまらず、またそれを気にも留めない喜市に僅かに苛立ちをおぼえていた。
周りで聞こえる楽しげな女たちの笑い声や囁きあいが、余計に明石と喜市のやり取りを引き立たせた。
「平助。お前がここにどんないい夢を見たのかわかんねえが、ここの女には情をかけちゃなんねえよ。ああする女ほどここは強いのさ。」
背を向けたまま語る喜市の言葉は平助の腑に落ちなかったが、それでもその背中がさっさと遠のいてしまうので、言い返そうと思った言葉を喉の奥にとどめて追いかけた。