吉原指南 十
その姿をじっと見つめていた平助を横目に、喜市は仕度を続けた。侘助は落ちた茶碗を拾い上げ、風呂敷の餅を火鉢の網の上へと乗せる。
吹き抜ける朝の風が涼しすぎるせいか、ころあいを間違えたとみえる蜩が、近くでかなかなと鳴いていた。
「すまなかった」
清次郎を見送った姿と変わらぬままで、平助が呟く。しかし、余りにさりげなく口にした言葉に気づいたのは喜市のみで、侘助は中々暖かくならない火鉢を覗き込んで炭と睨めっこをしていた。
「ちび。」
聞こえぬ返事がもどかしいらしく平助が声をかけると、侘助はもうちっともさっきのことなど気にしてないといった風に目をきょとんとさせて振り返った。
「侘助だよ。」
不意に口を挟んだのは喜市だった。平助が振り返って見てもそれ以上喜市は何も言わず、仕度をする目も手もそのままずんずんと進んでいたが、意味を合点した平助は再び侘助の方に顔を向けると背筋を少しだけ伸ばした。
「すまなかったな、侘助。」
気まずそうに直ぐ口を結んで笑うこともしなかったが、侘助はそれさえも全く気に掛けていなかったようで、すぐさま頷くとさっさと火鉢に視線を戻した。
あまりにもあっさりとした返事だったせいか、平助はもう一言ばかり何か言いたげにしていたが、それは喜市が差し止めた。
「侘助、お前も平助に謝りな。」
促されると侘助は火鉢から顔を上げ、平助の突っ立つ方を向いて立ち上がると「すまなかった」と一言短く口にして頭を下げた。少し照れて目をそらした平助は、一つ頷くと小さく
「俺も悪かった。侘助。」
と再び口にした。
暫くして漸く焼けた餅を急いで口にすると、侘助は小さなざるの乗った天秤棒を担いで、二人よりも早く仕事へと出かけた。
「まだ出かけないのですか」
開いたばかりの木戸をくぐる侘助を見送り際に、平助が尋ねた。時刻は明け六つの鐘がすっかり鳴り終わった頃だった。
「明日からはもうちいと遅くても大丈夫だ。吉原には姉さん方が起きる頃につけばいい。
そうじゃないと物売りの声で起こしちまうからな。」
「じゃあ、何時に。」
平助の顔は妙に真面目だった。不思議に思わなかったわけではないが、喜市はそれでも馬鹿に真面目なもんだと思えば合点したので、それ以上気にはとめなかった。
「仕入れるのは吉原の奥の金杉って所だ。仕入れてそのまま引き返せばいいだけだから、一刻見れば十分だよ。」
「それでは、何時につくんだ。」
二度聞かれて、喜市はふと話を止めた。やはり先ほどと同じく真剣な顔を張り付かせたままの平助は、訝しげに窺う喜市の視線に気づくと、はっとわざとらしく顔を緩めて言葉をつなげた。
「いや、それならば道場にはいつごろに着くのかと不安になってしまって。
伊東道場は先日狩野殿と伺った一度きりしか行ったことがないもので。不案内が不安なんだ。」
苦いものを口の中でつぶしたまま笑うようなぎこちない笑顔に、喜市は内心「厄介なものを掴まされたかもしれない」と心にもやがかかっていくのを感じていた。
しかし、平助の企むものが何か、詳しい見当がつかないうちは断る術もなく、喜市はため息をつきつつ部屋へと踵を返した。
「四つより少し前につけばいい。五つ前にはここを出るからな。売るのもそうかかりゃしねえから日の高いうちに大門をくぐれるよ。安心しな。」
言った後で、喜市は不意に振り返って平助の表情を覗き見た。想像通りの浮かない顔に、喜市の不安は増すばかりだった。
五つの鐘が鳴り始め、空の籠をよっつ担いで漸く神田の長屋を出た二人は、なるべく道のわかりやすい大通りを選び、半刻ばかりで浅草の脇、大川の堤沿いに川上へと進んでいた。
既に平助の額には小さな玉の汗が浮いていたが、一方の喜市は少しばかりにじませる程度で涼やかな顔をしていたので、休むことを申し出ることも悔しいとみえ、息を荒げながらもついてきていた。
しかし吉原へそれる道を通り越し、金杉につくやいなや平助は農家の庭先にへたり込んでしまった。
白かった足の甲は、跳ね上げた石のせいだろう、小さな赤い疵をいくつも作っていた。
鼻緒を引っ掛けた指の又も随分と擦れている。それでも泣き言一つ言わずについてきた平助に、喜市は感心していた。