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吉原指南 一

安政五年、江戸は傳馬町の牢獄からさして遠くない亀井町の長屋でもつい先日コロリが俄かにはやった。

流行ったと言っても小さな裏長屋でほんの二人ばかりが罹患しただけなのだが、それがなんとも奇妙な具合にろくな手当てもなく直ぐに治ってしまったので、持ち主が医者だという話題が皮肉にも手伝い、長屋は最近、碁石無用と御医師無用とをかけて将棋長屋と呼ばれていた。


当のコロリにかかったうちの一人は棒手振りの喜市という若い男だった。

この男はとかく最近妙な事件に巻き込まれることが多く、現に喜市の部屋には妙な縁で運ばれた、見かけは十ばかりの子供であるが、化け狸の侘助が居候をしている。

喜市のコロリも治り、十日ばかりたったころだった。

長屋の周りもすっかりコロリの恐怖など忘れ去ってしまった様子で、暑さの名残の隙間に涼しい風が吹き始めていた。


「ああ、そうだ、清次郎殿。明日から侘助が降り売りに行くんだよ。

花売りの彦佐が足おっかいちまってね、人手が足りねえもんだから、昔花売りやってたよしみってやつで頼まれたのさ。

侘助にはその間俺の代わりだ。鑑札もいらねえし、寝入ってた分、悪いが稼ぎを手伝ってもらわなきゃな。」

「しばらくしのげる分はあるだろうに。」

「働きゃあどうにかなるんだ。折角働けるのに楽しようざなんて申し訳ねえよ。」

「それでは、侘助は浅利の降り売りを。なるほど、いい機会やもしれんな。花売りをしていたとは初耳だ。」

「ああ。まあね」


喜市は興味深げに聞く清次郎に、気のない返事で誤魔化した。

いかにも誠実な清次郎には、花売りをやっていたことや、なぜやめたかなど話したことがなかった。そんな様子に清次郎が首を傾げかけたときだった。


「あんまりもてちいまうもんでやめちゃったんだよなあ。帰りは桶が文で埋まるってなもんだ」

いきなり聞こえた声に驚いて振り向くと、開けっ放しの戸の外には長屋の大家が腕組みをして仁王立ちしていた。


空豆顔をした大家は、特に喜市にとっては、ここに来たときから岸本の代わりに良く世話をしてくれていた、父親代わりのような人物であった。

「へえ、そりゃあ初耳だ。もったいないな、御主ならそれで裕福になろうものを」

まっすぐな目を向けられると正直困る。


そりゃあ、花は売れに売れた。一緒に愛想を売らなきゃ女郎の機嫌を損ねて商売にならない。しかし、そうして買われた愛想に懸想され仕込まれる文のせいで、どれだけ心当たりのない男から喧嘩を仕掛けられたか分からない。

町人ならまだしも、お武家に刀を向けられたときはさすがに喜市もひやりとしたものだった。

身揚がりだからと、女郎の誘いに乗った床の最中に、袖にされた男に裸のまんま追いかけられたこともある。

それ以来、どうにも喜市は吉原に足が向かないのだ。


「うん、まあ、おしろいの匂いに酔っちまってね、気がすすまねえのさ。」

本当の理由を知っている大家は、戸の外でくつくつとこらえながらも笑っている。

「ふうん。なのに行くのか」

「花売りの親分には世話になったからな。彦佐の足がくっつくまでさ。で、大家殿は何用で」

早く話を打ち切りたいとばかりに、喜市はすぐに話を大家に振った。

大家はその用というものをすっかりと忘れていたようで、ふと考えた後、「おお」と目を丸くして手を打った。


「侘助がな、木から落ちた拍子に頭を打ってぶっ倒れてね」

「なんと」

大家が言い終わる前に、清次郎は一気に血相を変えて声を漏らした。

「たまさか伊庭のお坊ちゃんの家の近くだったみたいでね、そこに運ばれてすぐに気がついたらしいんだが、少し様子を見てから送るとよ」


傍らでいそいそと支度をする清次郎は、どうやら迎えにつもりであるらしい。

しかし、それを気まずそうに見つめると、大家は

「今から迎えに行っても入れ違いになるやもしれん。じきに着くだろうよ。

いやあ、実は知らせをもらってからお客が来ちまってねえ。話し込んでたら一刻もたってたってもんで。すまねえな」

と言ってごま塩頭をかいて笑った。そうしてわざとらしく長屋の木戸の方を背伸びして眺めては、まだかとばかりに首を傾げる。

清次郎が我慢できずに浮ついていた腰を上げると同時に、大家は声をあげた。


「おおおお、ほれ見ろ、きたぞきたぞ」

懐に入れていた手を出して、大家は子供がするように大きく手招きをしてこちらに導く。

喜市も、そして清次郎も手にしていた支度ものを放って、わらじを引っ掛けて戸口から身を出した。

木戸をくぐってきた侘助は、背負われているそこでぐっすりと眠っていて、果たして安否がいかがなものかが伺えず、二人の顔はまだ晴れなかった。


しかし、清次郎が「侘助」と声をかけると、その背中の上でゆっくりと背中を伸ばして、眠そうにもたげた瞼を擦って目を開いた。おかげで二人は漸くほっとして侘助を迎えたのだが、そこで妙なことに気づいた。


侘助を背負ってきたのは、ちょうど侘助の通ってる伊庭道場の八郎ほどだろうか、まだ子供と言うような顔立ちが隠しきれぬ、少年であった。

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