C1P6『琴線』
「ーー名前?」
「そう」
糸音の聞き返しに対して、転校生は間髪入れずに肯定する。
ここで糸音は自身の失敗を自覚する。それは興味の薄さから、朝の転校生の自己紹介を話半分に聞いていたせいで、『転校生の名前』という、今最も重要になるであろう情報を聞き逃した事だ。
「……あー、非常に申し訳ないが名前は聞けていなかった。僕は朝に弱くて、ボーっとしていた」
「……そう、それならそれでいいけど」
「??」
気のせいだろうか、転校生はほっとしたような様子だったが、寂しげな表情も垣間見えた。
普通ならここで名前を聞いておくのが無難だが、転校生は『名前を言う』ことに苦手意識を感じているようだった。そこに気付いてしまったがために、名前を聞くのを躊躇ってしまった。
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――本日の全講義、終了。
結局、先程の会話から、放課後まで転校生との会話は無かった。昼食も一人で、食堂以外のどこかに移動して食べていたんだろうし、糸音も自分から人に話し掛けるタイプではないため、相手からのコンタクトを待つしかなかった。
「ーーねえ、有村君」
「何だ?」
感じる必要のない気まずさを感じ、荷物をまとめて帰ろうと思っていた矢先、転校生に呼び止められた。
糸音も少しだけ早く返事してしまった。まるで話し掛けて欲しかったように思われてしまうかもしれないが、途中になっていた『名前』の話が気になるのは事実だ。
「さっきの話の続きがしたいんだけど、ちょっと他の人には聞かれたくないの。だから誰も居なさそうな所で話したい。……この大学でそういう場所、どこか知ってる?」
「うーん、そうだな……空き教室だらけになっている棟はある。だが、大学の講師もたまに見回っているみたいだし、整備されていないから入るのは危ないと思うぞ」
「そっか、でも話しておきたいの。私は先に行って座れるように準備しておくから、十分後くらいに来てくれる?」
「……分かった」
そう言い残して、転校生は教室を出て行ってしまった。
『他の人には聞かれたくない話の続き』と言っていたが、人に『名前』を明かすのにそこまでのリスクがあるのだろうか。勿論、世の中には色々な事情があるのだろうが、どうやら軽い気持ちで聞ける話ではなさそうだ。
糸音は一分おきに、グミを一粒一粒噛んでいき、十分経つのを待った。時計を意識している内は時間の進みが遅く感じる。
やっと、ちょうど十分経ったので、糸音も教室を出る。周りの生徒も帰宅やらサークル活動やらで出て行ったため、殆ど残っていなかった。糸音は玄関先に向かいたいところを抑えて、周りに自分を見る目が無いか確認する。誰にも見られていないことを確かめた上、普段足を踏み入れない暗い階段の方へ向かった。
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糸音は暗い階段を登り、空き棟に入っていく。
この大学にはいくつかの棟がある。普段糸音たちのような学生が講義を受ける教室がある棟、体育館や学生用の宿泊寮がある棟が主に使われているが、この空き棟は、過去に講義用に教室を置いていたが使われなくなったという、言うなれば『廃校の一部』だ。
そんなオカルト話の標的にされそうな場所に、何故転校生から呼び出されてしまったのか。確かに教えたのは糸音だが、この空き棟の話を聞いた時点で踏み止まるのが普通ではないのか。講師や用務員に見つかったら、学生が封鎖場所に入っている時点で怪しまれてしまう。そんなリスクよりも『名前』の話を優先するとは、余程ーー彼女にとって重要な話なのだろう。
まあ、糸音も好奇心に釣られて、リスクを考慮せずにこんな場所に来てしまっている訳だが。
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空き棟の廊下を奥まで進み、糸音は行き止まりの壁沿いにある教室の前で立ち止まる。教室のドアには小窓があり、中には転校生がちょこんと椅子に座っていた。黒板の方を向いているのでこちらから表情は見えない。逆に言えば、転校生からも小窓から糸音が覗いている事は分からないと思われる。
転校生の座っている向かいには、もう一つ空いている椅子が置かれている。それはおそらく、糸音に座らせる椅子だ。本来生徒の席に一つずつ置かれる机は全て教室の壁側にまとめて除けられている。
さて、今日出会ったばかりの転校生から『名前』を明かされるのに、どんな重要な話がされるのだろうか。糸音は講師との面談のような緊張感を少し覚えつつも、意を決して教室に入った。
「……。」
糸音が教室に入った途端、転校生は驚く訳でもなく、無言で、開く音のしたドアの方向にゆっくりと体の向きを変えた。
そして体の向きを変えたのと同じく、ゆっくりと口を開く。
「……よく来てくれたね、有村くん」
「ああ、お待たせした」
「全然待ってない、私が来たちょうど10分後に入ってきて、むしろ怖いぐらい」
「やめてくれよ、時計を見ながら待ってたらこうなっただけだ」
軽く会話をした限り、重苦しい雰囲気ではなさそうだ。糸音も重い雰囲気の中で飄々と話せるほど器用ではないので助かった。
「立ったままもあれだし、座って?」
「……ああ、ありがとう」
糸音は転校生の向かいに置いてある椅子に座る。これで本格的に転校生と向き合う形になってしまった。
改めて、転校生の容姿を見る。長い黒髪の結び目にリボンを付けており、赤と黒を基調としたガーリーな洋服を着ている。顔や体型を見ると小さく、幼げを感じる。本人が朝に『皆が変だって言う』というのも偏見がある人間なら言いそうだと納得してしまう。
「……それで、話というのは?」
「ーーうん、私の『名前』を聞いて欲しいの」
「ああ、勿論だ。教えてくれ」
転校生は、瞳と唇をキュッと閉ざして逡巡するような表情を一瞬見せてから、瞳の後にゆっくり口を開く。
「私の名前、はーー『召』」
「……そうなのか。あまり聞かないから、珍しい名前かもしれないな」
朝に話した時から基本的に無表情だったのに、このタイミングに限っては心配そうな表情をしながら名前を明かした転校生に、糸音は一瞬で名前を咀嚼した後に、素直な感想で応えた。
「そ、それだけ……?」
「ああ。他に何を言ったらいいんだ」
「いや、変な名前でしょう」
「珍しいとは思ったけど、別に変だとは思わない。君が周囲から言われたという、その見た目も」
「そう、なんだ……」
おそらくこの召という転校生は、過去に容姿と名前において、怪訝な反応をされたのだろう。そのせいで、動かせぬコンプレックスを抱えてきたのかもしれない。だからこそ、糸音は偏見で個人を判別するような、周囲の風潮に流されたくはない。あらゆるものの印象は、自分の目と耳ーー頭だけで決めるべきだと思う。自分で決めた訳ではない印象は、信じ込める程に正しいと言えるのか。
「あり、がとう……。『変じゃない』って言われたの初めて」
「本当か。偏見ってのは怖いな」
「うん……でも変に見られるのが当たり前だったから」
「いずれ、そんな当たり前が無くなると良いんだが。ーー後話したい事はあるか?」
「ううん、これだけ。聞いてくれてありがとう」
「どういたしまして。困ったら話してくれ」
そう言って、糸音は立ち上がって座っていた椅子を机に上げる。召と名乗った転校生も続いて立ち、糸音に倣って椅子を上げた。
糸音が先にドアを開けて教室を出て、空き棟の出口の方向に歩き始める。後ろから、ドアを閉める音がした。転校生も教室を出たのだろう。
「ーーやっぱり、期待して良かった。貴方になら、良いよね」
後ろから転校生が何か呟いたので振り返ると、転校生の姿が暈け、奥から次第に廊下の床がひび割れていく。糸音に向かって、風圧が迫っていた。




