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光の方へ  作者: 常圓坊
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第5話 護摩の火と「サイの角」の教え

あの山寺に通い続けるうちに、私は和尚と親しくなっていた。知らないことだらけだった。そのお寺では、縁日に護摩祈祷を行っており、法話もされている。その、和尚さんは、静かな口調だが、言葉の一つひとつに力があった。ある日の夕暮れ、庫裡の縁側で和尚は言った。「石動さん、人生には『苦』もあるが、『変化』もある。変わらんと思うてる景色も、実は護摩の火のごとく、燃えておるのや」和尚は、護摩壇ごまだんの前で護摩木を丁寧に置いていった。真言の声が静かに響き、火がゆらゆらと揺れはじめる。「護摩の火は、心の迷いを焼き尽くし、願いを浄める。お前の心にも、必ず炎が灯る。見失うなよ」私はその護摩の火をじっと見つめた。焦げる匂いの中に、自分の心の闇が少しずつ溶けていくような気がした。ある晩、和尚は寺の本堂で法話を開いた。地域の人々が集まり、私はその輪の中にいた。「生きる意味は、外から与えられるもんやない。己が感じ、己が歩き、己が悟るもんや」和尚さんの声は、心に響いた。生きることは「答えを探す旅」ではなく、「問いを持ち続けること」あの言葉が蘇る。それから私は少しずつだが、日常に光を見出せるようになった。職場のしがらみや孤独は消えない。だが、護摩の炎が消えぬよう、私は心の火を絶やさずにいようと思った。「和尚さん、ありがとうございました」ある朝、私はそう呟いた。小さな寺の、静かな護摩の火の灯りが、私の未来を照らし始めていた。その朝、山里の寺は深い霧に包まれていた。本堂は、湿った木の匂いがしていた。雨が降った後の静けさが、山の寺にゆっくりと広がっていた。私は、いつもより早く座布団に座った。どこかざわつく心を鎮めたくて、護摩壇の炎が灯るのをじっと待っていた。ドォォォン……大太鼓が一打、空気を揺らした。続いて、法螺貝ほらがいの低い唸りが谷にこだました。ボォォォオ……ボォォ……本堂の奥から、和尚がゆっくりと入堂する。紫の袈裟が朝の光に照らされ、濃い香の香りがふわりと流れる。昴は、自然と背筋を正していた。なぜだろうこの寺に来るたび、何かに見つめられているような感覚になる。和尚は壇上に座し、目を閉じ、合掌。チチチン、チチチンと作法の音と読経が一体化するやがて、護摩壇の火がともされた。「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ……」真言の響きが、堂内の木の梁に吸い込まれていく。火はまだ小さく、炎は静かに揺れていた。昴は、その火をじっと見つめていた。薪がひとつ、ふたつ、護摩壇にくべられるたび、火は応えるように高く跳ねた。(あの炎……まるで、自分の中にある怒りや苦しみを焼いてくれているようだ)そう思った瞬間、不意に胸が詰まりそうになった。誰にも言えずに飲み込んできた悔しさ、虚しさ、心の奥に押し込めていた言葉たちが、煙となって昇っていくようだった。(自分は、なぜこんなにも、満たされないんだろう)昴の目に、うっすらと涙が滲んだ。火を見ているだけで、涙が出るなんて。「カァァァン……」けいの音が響き、火がさらに高く舞い上がった。香が強くなり、煙が天井へまっすぐに昇っていく。炎は生きていた。まるで心の中の何かに呼応するように。昴は、ただ見つめることしかできなかった。護摩はゆっくりと終わりに近づいていた。和尚が最後の真言を唱え、祈りが本堂を包む。火が静まり、煙だけがまだ細く上がっていた。堂内は静寂の中にあったやがて、和尚が静かに口を開いた。今度は、誰にともなく、けれど誰の心にも響く声で。「今日はな……ある友人の話を、みんなに聞いてほしいと思うんや」和尚の声は、火の余韻とともに穏やかに流れ始めた。昴は、その声に自然と引き込まれていった。「その友人は、お釈迦さまの足跡をたどるために、インドを旅した。雨季でな、地面はぬかるみ、空気は重く、湿気を含んだ土が足にまとわりついたという」「そこで、ある光景に出会ったそうや」「泥まみれのサイが一頭、角を中心にして寝転がり、ぐるぐるぐるぐる回り、地面を削り続けていた。その動きで、地面がすり鉢状になっておった。友人はガイドに訊ねた。『どうしてあのサイは、あんな風に回っているのか?』と」和尚の声が、静かに力を帯びていく。「ガイドはこう答えた。『あのサイは、あと数日で死にます。死が近づくと、こうして回るのです』」「『でも、それだけではないのです』と。『あの周りに並んでいるサイたちは、あのサイの“家族”です。あのサイは、今、自分の身体を使って、“水がめ”を作っているのです』」「水がめ……?」そう思った瞬間、和尚の真言が少しだけ止まり、ゆっくりとした声が重なった。「サイは、自らの死期を悟ると、最後の力を振り絞って地面を掘る。乾季に向けて、雨水が溜まる“命の器”を作るのや。それを見て、家族は学び、水を受け継ぐ。それが、サイの“死の準備”なんや。」「人間やったら、どうや?」「これはウチのもんや。他所者には使わせん!祖父の代からの土地や!と、争うことがようある」「けれどサイは、そうやない。必要な分だけ、水を分け与える。誰のためでもなく、“命のため”に水を遺す。」和尚は続けた。「お釈迦様は、こう言うた」『自らを灯とし、サイの角のごとく、ただ独り歩め』「この“独り”とは、孤独に沈めという意味ではない。他と群れずとも、己の道を恐れずに進めという教えや」「そしてその道の果てに、自分の命で、誰かを生かすことができるならそれが、尊い“終活”やないかと、わしは思う」「物を残すんやない。形を遺すんやない。心と祈りを、命の水として残す。それが、ほんまの意味での“灯火”やろうな」香煙が本堂の天井へ真っ直ぐ昇っていった。和尚は、最後にこう結んだ。「みんなも迷ってええ。ぐるぐる回ってもええ。でもな、その回る足跡が、誰かの命を救う“水がめ”になるそのことを、忘れたらあかんのや」“サイの角のように、ただ独り歩め”その歩みの先に、あなたの水を待っている命が、きっとある。

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