殺し屋
乾いた響きが夜の闇にこだました。
男はまだ硝煙の立ち昇る銃を手慣れた様子で懐にしまい、くずおれた相手に背を向けた。脳天に風穴を空けられて絶命した相手のことはもう忘れかかっている。先週の食事の内容を正確に思い出せないのと同じように、数日も経てば自らが殺した男のことも綺麗に脳裏から消え去っているのだろう。
男にとってそれは日常的な風景の一部に過ぎない。役所の人間がろくに内容も見ていない書類に判を押すのと同じことだ。書類は大量にあるし、次から次へとやってくる。そのひとつひとつの内容を逐一覚えておくことはできない。
男は殺し屋であった。
もちろん最初からそうであったわけではない。だが、いつの間にかそうなってしまった。何か特別な理由があったわけではない。過去のことはもうぼんやりとしか思い出せないが、さして変わった幼少時代を過ごしたという記憶もない。残虐性を誰かに指摘されたこともないし、制御できない殺人衝動があるわけでもない。
男も昔はこう考えていた——自分は平凡な人生を送るだろうと。それでよかったし、そう望んでもいた。だが現実にはそうはならなかった。男は殺し屋になった。
男は歩き出した。死体はそのままである。気にすることはない。処理は誰かがしてくれる。そういう役目の人間がいるのだ。殺す人間がいて、それを片付ける人間がいる。それはひとつの作業なのだ。死体を作る人間と死体を処理する人間――作業は効率化のために分担される。それぞれに専門的な技能を持った人間があてがわれる。彼らはプロフェッショナルとしてそれぞれの業務を遂行する。そして世界は何事もなかったかのように回り続けるのだ。
夜道を歩きながら男はふと感傷にふける。
自分はこんなことを望んでいたわけではないと思う。
いつものことだ。
ひとつの仕事を終えたあとに、こんなことはするべきではなかったと思う。だがそれは食事を終えたあとにこんなに食べるんじゃなかったと思うのと同じことだ。後悔してももう遅い。自分はもう食べてしまっているのだ。
後悔と自己嫌悪。
いつものことだ。そして、誰にでもあることだ。
後悔は避けることができない。避けられるようなものはそもそも後悔とは呼ばない。人は後悔と折り合いをつけて生きていかなくてはならない。それだけのことだ。
男はいつも思う。
人は正しいことをしようと思っている。
もしくは正しいことをしたいと。
男はいつもそう考える。
だが結局は違うことをしてしまう。
正しくないことをしてしまう。
人を殺すのは正しくないことだろう――おそらく。なぜそれが正しくないのかと問われれば答えることはできないが。なぜ人を殺してはいけないのか。明解な答えなどどこにもない。ただ、そう感じるだけだ。きっと説明できるようなことではないのだろう。
男は考える。
正しいことと正しくないことの境界線はどこにあるのだろう。
そんなものはどこにもないのではないか。ここまでは正しくてここから先は正しくない――そんな物差しなど存在しないのではないだろうか。
男はそう考える。
いや、理解している。経験的に。体験的に。そう感じている。
説明はできないがそれはそういうものだと受け入れている。それが理解するということだ。頭でも体でもなく、魂で理解するということだ。
正と不正は分かたれているわけではない。善と悪は隔たっているわけではない。それらに境界はないのだ。ひとりの人間の心の中に純粋な善があるわけではない。純粋な悪があるわけでもない。それらは同時に存在しているのだ。
善の中に悪があり、悪の中に善がある。同じように正しいものの中に正しくないものがあり、正しくないものの中に正しいものがある。
男は考える。
人を殺そうという正しくない意志の中にも正しいものがある。恐怖に怯える相手の額に銃を突きつけ、実際にその引き金を引く瞬間にも、正しさは存在するのだ。だからこそ男は人を殺すのかもしれない。
感傷のうちにふと訪れたひとつの思考。
それが正しいかどうかは問題ではない。明日になればまた違う考え方が男のもとを訪れているかもしれない。だが、いまこのときだけは、それを慰めとすることができる。
男は正しいことをしようと思い、実際にそれをしたのだと。