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ホリさんと羊の心臓

「失礼……ひょっとして、ホリさんでは?」


 そう問われたのは夜の帰り道のことだった。駅前の繁華街で、時刻は21時を回っていたが、人通りは多く、飲み屋の明かりは皓々と灯っていて、近くではストリートミュージシャンが下手くそなギターをかき鳴らしながらどこかで聞いたような歌を唄っていた。


「私に言ったのですか?」


 私は問い返した。相手は歳の頃は50歳前後だろうか、これといって特筆すべきところのない小柄な男性だった。ためらいがちに頷く男に私は、残念ですが、と告げた。「人違いですよ」


 その言葉を聞くと男は目に見えて肩を落とした。


「そうですか……」


 目を伏せて立ち尽くす男に私は訊いた。


「そのホリさんという人は私に似ているのですか?」

「ええ、とても」


 男は遠慮がちに私を見つめて言った。


「見れば見るほどよく似ている。30年前のままです」


「失礼?」聞き違いかと思った。「いまなんと? 30年前ですって?」


「ええ、30年前のことです。私はちょうどこの場所でホリさんにお会いしたのです」


 男の名前は川口と言った。30年前、川口は19歳だった。工業高校を卒業し、とある機械部品会社に勤めて1年が過ぎたところだった。そのころの私の仕事は、と川口は言った。「羊の心臓を作ることだったんです」


 ――羊の心臓?


 ええ、と川口は頷く。


 といっても、大したものじゃありません。オモチャみたいなものです。実際にオモチャなんです……羊のぬいぐるみのオモチャです。ボタンを押すと間抜けな声で『めえ』とか啼くんです。子供だましですよ。うちの会社は大手の玩具メーカーの下請けをやっていまして、よくそういったものを扱っていたんです


 ――はあ、つまり、その……声を出す仕組みを作っていたと。


 いえ、それが違うんです。私が作っていたのは何の仕掛けもない、ただのアルミのかたまりです。機械でプレスしただけの心臓らしきもの。といっても羊の心臓なんて見たこともないですから、ずいぶんと適当に作りました。試作品を上司に見せたら、ああ、それでいいんじゃないかということで、それで型を作りました。そして大量にできあがった心臓を羊に埋め込む作業が始まりました。


 虚しい作業でしたね。ただの部品、いや、部品ですらない、だってそれは別に必要のないものだったんですから。必要なのは『めえ』という声を出す機械で、私の作った心臓はなくたって別に誰も困りはしないものだったんです。私はそのなくてもいい心臓を毎日羊に詰め込んでいました。単純な作業です。何も考えなくていい。でもそうすると、だんだん自分が何をやっているのかもわからなくなってくるんです。くだらない心臓を何百個と詰め込んだあとにふと我に返る瞬間があるんです。自分はいったい何をやっているんだろう、と。


 そんな日々を過ごすうちに、いつしか私は自分の生きる意味みたいなことを考えるようになりました。自分はいったい何のために生きているんだろう、と。大袈裟かもしれませんが、当時は若かったので真剣に悩みました。自分は死ぬまでこんなことを続けていくんだろうかと。先のことを考えると暗澹たる気持ちになりました。自分は学もないし、何か際立った才能があるわけでもない。ただ諾々と上から言われることに従って、日々を潰すように生きているだけです。そんな男に輝かしい将来が待っているとは思えなかったんです。


 自分の仕事にも将来にも絶望していた私は、ある日帰りにひとりで酒を飲みました。普段はほとんど酒なんて飲まないんですがね、その日は痛飲しました。とにかくべろんべろんに酔っ払った。何もかもを忘れたかったんです。たとえ一時的にでもね。どうやって店を出たのかも覚えていません。気づいたら私はこの場所にいました。そして目の前にはあなたにとてもよく似た男性が立っていたんです。そうです、その人がホリさんです。


 彼はじっと私を見つめていました。とても澄んだ眼でした。気に入らないくらい綺麗な眼でしたね。私は何かを言ったと思います。何を見てるんだ、酔っ払いが珍しいのか、と。べろんべろんに酔っ払ってふらふらしながら彼に絡んだんです。彼はしばらく何も言わずにじっと私の眼を覗き込んでいました。吸い込まれそうな、という表現がぴったりくる眼でしたね。なんだか時間も止まっているように思えました。


「大丈夫ですよ」


 不意に彼が口を開きました。


「何も迷うことはありません」


 その言葉は私の胸の中へすうっと入っていきました。私の中で何かが目覚めたような感触がありました。気づいたら頭はすっきりと冴えわたっていて、酔いはすっかり引いていました。私は自分が救われたことを知りました。そのたった一瞬の間に、私はこれから先何十年生きても体験することのできない何かを彼から与えられたことを理解したんです。私は彼にお礼を言おうとしました。でも感動のあまり声が出ませんでした。本物の感動に出会ったとき、人は言葉を失うのです。


 そうこうしているうちに、彼はきびすを返し、その場を立ち去ろうとしました。私は慌てて呼びかけました。


「すいません、あの、せめてお名前を――」


 彼は一度だけ振り返って、こう言いました。


「ホリといいます。でも、忘れてください――」


 ――でも、忘れなかった。


 当然です。恩人の名前をなんで忘れるものですか。あれから私は変わりました。自分の仕事に誇りを持てるようになったのです。自分のやっていることはくだらないことなんかじゃないと思えるようになりました。いいだろう、羊の心臓でも鼠の睾丸でも作ってやろうじゃないかと。奮起しましたね。バリバリと働きました。大切なのは行為自体ではなく、そこに含まれる自分の心の持ちようだということがわかったんです。ホリさんは私にそのことを教えてくれたんです。


 川口は遠い目をしてそんなことを語った。ホリさんについて語る彼の表情は恍惚としていた。それは過去において幸福であり、現在も変わらずに幸福である人間だけが浮かべることができる表情だった。彼はホリさんという人物によって幸福な人生を与えられたのだ。


「結局、あれから一度も私はホリさんにお会いすることはありませんでした」と川口は言った。「いつかお会いしてあのときのお礼を言いたい。ずっとそう思っていたのですが……せめて、あの人に瓜二つのあなたに、代わりにお礼を言わせていただけないでしょうか?」


 私はしばし逡巡して、その申し出を断った。


「いえ、私にはその資格がないでしょう。ただあなたの恩人に似ているというだけで、あなたの30年分の感謝の気持ちを受け取るわけにはいきません。それはあまりにも不当でしょう」


 それに、と私は思った。おそらく川口にとって、ホリさんへの感謝の気持ちを持ち続けることこそが彼の生きる糧になっているはずだという確信があった。何の関係もない私にそれをわずかでも奪うことはできなかった。川口は私を呼び止め長話をしてしまったことを詫びて夜の街へと消えていった。ひとり残された私は遠ざかっていく彼の背中を見つめながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 人は誰かを救えるのかもしれない、と思った。言葉によって。あるいは他の何かによって。それは可能なのかもしれない。そしてあるものは、あの川口のように、救われたという思いを、その感謝の気持ちを30年という長い歳月、変わることなく持ち続けるのかもしれない。人が人を救ったという事実よりもそのことのほうがよっぽど素晴らしいと私は思った。


 形のあるものは言うに及ばず、形のないものでさえも、いつかはその姿を変えてしまう。だがそれでも長い歳月を生き延びるものがある。そこには確かな理由があり、確かな感動がある。そのことを実感し、私は歩き出した。私によく似ているというホリさんという男に少しだけ感謝しながら私は家路についた。久しく忘れていた温かな気持ちを携えて。



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