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NHKのおじさんの話

 それはある冬の昼下がりのこと。

 外は寒いが、室内は空調がよくきいており、快適な温度に保たれている。


 穏やかな午後だった。

 時間はゆっくりと、しかしどこか物憂げに過ぎていく。


 僕はポットを温め、紅茶を淹れようとしている。


 ふとした拍子にインターホンが鳴る。

 わずかに遅れて、申し訳なさそうに戸を叩く音がする。


 僕は玄関のドアを開けてやる。

 そこには、いくぶんくたびれたおじさんが、どこか寂しそうに立っている。


 おじさんが口を開こうとする――けれど、僕はそれを制して「外は寒いでしょう。どうぞお入りください」と言う。おじさんは驚いたように目を見張る。僕はやさしくうなずく。「さあ、遠慮はいりません」


 おじさんはしずしずと部屋に入る。玄関で靴を脱ぐ。ずいぶんと汚れて、すり減った靴だ。おじさんの苦労が垣間見える。でも僕は何も言わない。僕はただ無言でソファに座るように勧める。おじさんは遠慮深そうにソファに腰を下ろす。やわらかい、と独り言のようにつぶやく。そしてため息をもらす。


「ダージリンでいいですか」と僕は訊く。「もしアッサムがよければそちらにしますが」


「いや、そんな……」とおじさんは言う。「わたしはNHKの――」


 僕はそれをみなまで言わせない。「疲れてるんでしょう。紅茶を飲んだ方がいい――ダージリンはお嫌いですか?」


「そんな、滅相もない。もちろんダージリンは好きですよ」おじさんは恐縮しきったように言う。「じゃあ、悪いですが、一杯だけもらえますか」


 僕はうなずく。


 僕は紅茶を淹れる。ティーバッグではない、上等のダージリンだ。むせかえるような芳香が鼻腔の奥を刺激する。その匂いは居間のおじさんのもとにもとどく。おじさんの口から、深い息がもれるのが聞こえる。


 僕は微笑みとともに紅茶のカップをおじさんに手渡す。カップを受け取るおじさんの手は少し震えている。


「これはもしかしてマイセンですか」とおじさんが問う。


 ええ、と僕はうなずく。「祖母から譲り受けたんです。よくわかりましたね」


「小さい頃、うちにもあったんです。私の父親は大きな鉄工所を経営していました――私がずっと小さいときの話です。母親がこういうものを集めるのが好きだったんです」おじさんは懐かしそうに目を細める。


「マドレーヌはいかがです? 紅茶によく合いますよ」僕は洋菓子の箱をおじさんに差し出す。


「いただきます……」おじさんは大事そうにマドレーヌをひとつ取り出し、食べるのがもったいないとでもいうように、しばらくのあいだ眺めていた。その目にはうっすらと涙がにじんでいる。


「まだいくらでもありますから」と僕は言い、マドレーヌをひとつ口にする。それが合図でもあったかのように、おじさんは手にした洋菓子を、いとおしそうに口に押し込んだ。


 その瞬間、おじさんの目から大粒の涙がこぼれた。「うまい……本当に、うまい……」と呻くようにつぶやく。


「お仕事は大変でしょう」と僕は言う。


 ええ、ええ、とおじさんは袖で涙をぬぐいながら答える。「でも、誰かがやらなくちゃいけないんです。誰かが。必要なことなんです」


「わかりますよ」


「必要なことなんです」おじさんはもう一度、自分に言い聞かせるかのようにそうつぶやいた。「誰かがやらなきゃいけないんです――だって、必要なことなんですから」


「その通りです」


 おじさんは何度も涙をぬぐいながら、一心にダージリンを喉に流し込み、マドレーヌを胃に収めていた。


 どれだけの時間が経っただろう――数時間かもしれないし、あるいは数分間だったのかもしれなかった。おじさんはふと夢から醒めたように、僕に向かって言った。「少し、長居をしすぎたようです。もう行かなくては」


 僕はうなずいた。そしておじさんを玄関先まで送ってやった。おじさんは名残惜しそうにじっと僕の顔を見ていたが、やがて意を決したように、深く一礼した。「ご馳走になりました」


 僕は返事の代わりに微笑んで見せた。そんなことは全然構わないんですよ、とでもいうように。おじさんの目にはまた涙が浮かんでいた。


「お世話になりました。本当に。わずかなあいだでしたが――」


 いいんです、と僕は言った。僕がそうしたかったんです。どうかお気になさらないでください。


 ありがとうございます、とおじさんはまた、前よりもいっそう頭を深くして言った。


「あなたが立派な方だからですよ」と僕は言った。「僕があなたにやさしくしたのは、あなたがやさしくされるだけの価値を持った人間だからです。他に理由はありません。さあ、頭を上げて、胸を張ってください。そうすれば、あなたは誰よりも立派になれるんですから」


 おじさんは頭を上げ、ぎこちなく微笑んだ。そして、申し訳なさそうに、わずかながら胸を張った。僕はうなずいた。


 おじさんは最後にこう言った。


「もう、こちらにお邪魔することはないでしょう――それが私にできる唯一の恩返しですから」


 その言葉の通り、僕はそれ以降おじさんの姿を見ることはなかった。



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