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楽園の終わり

「ねえ、すべてはもう終わってしまったのよ」と彼女は言った。「私たちは過去に生きることはできない。失われたものは、もう二度と元に戻ることはないの」


 私は彼女の言葉を聞くともなく聞いていた。それはただの言葉にすぎなかった。意味のない文字の羅列のように、それは私になんらの感慨も与えなかった。


「いつまで立ち尽くしていても、何も変わらないわ。終わってしまったことはもう終わってしまったことなの。つらいけれど、私たちはそれを受け入れて前に進まなくてはならない」


 彼女が親切心から言ってくれていることはわかっていた。だが、言葉とは結局のところ、受け取る側のものなのだ。どのような箴言であれ、真摯な言葉であれ、受け取る側に問題があれば、それは正しく伝わらないし、まっとうに作用することはないのだ。いまの私には彼女の言葉を正しく受け取るための何かが欠けていた。その何かは、ひとつの夢の終わりとともに、私の中から音もなく滑り落ちていってしまったのだ。私の耳には彼女の言葉が虚ろなこだまのようにしか響かない。それは意味をなさない乾いた残響となって、意識の闇の中に沈み込むように消えていく。


 ひとつの夢が終わった。

 ひとつの幻想が。


 それは私にとって何よりも大切なものだった。かけがえのないものだった。


「楽園は消えてしまったのよ」と彼女は言った。


 楽園――そう、そこは確かに楽園だった。そう呼ぶにふさわしい場所だった。私のつたない語彙ではそれ以外に適切な表現を持たない。そこにはすべてがあった。私にとってのすべてが。私はそこで充ち足りていて、他に何も欲しいとは思わなかった。あるいはそれは、他人から見れば、ほんのささやかなものであったかもしれない。だが私はそれでよかったのだ。私にはささやかな幸せがあればそれでよかった。そのささやかな光は私にとっての希望であり、未来であり、生きていくための標であった。それは他の何と引き換えにすることもできない、私のすべてであったのだ。


「あなただって気づいていたはずよ。こんなことがいつまでも続くはずはないって。いいときばかりがずっと続くなんて、そんなことがあるはずはないわ。あんなことはたまたまにすぎなかったのよ。いくつもの偶然が重なって、私たちは楽園の住人になった。そしていま、私たちは楽園を追われる。これは必然よ。悲しいけれど、仕方のないことなの」


 いつかは終わる楽園。予定調和の楽園喪失。だがそれでも、私は運命に抗いたかった。たとえ私たちがひとつの悲しみからまた別の悲しみへと飛び移ることを運命づけられた哀れな渡り鳥にすぎないとしても、幸福という名の止まり木に永遠にとどまることが可能であると思いたかった。だが現実にはその足場は脆く、私たちはほんのひととき羽を休めただけで、また次の悲しみを目指して飛び立たなくてはいけない。それはなんと悲しく救いのないことだろう。


「人生に救いがないなんて思わないでよね」


 私の胸のうちを見透かしたかのように彼女が呟いた。私は思わず彼女の瞳を見つめた。その瞳に宿る光は力強く、楽園を追われた人間のようではなかった。


「確かに、生きていればつらいことだってあるわ。というか、むしろつらいことばっかりよ。人生なんてそんなものよ。人生は悲しみの連続。ある程度生きていれば誰だってそんなことはわかってる。でもね、だからって人生に意味がないとか、生きててもしょうがないとか、そんな風に思わないで。私たちが些細なことで喜び合えるのは、まさにその悲しみがあるからじゃないの。人生に楽しいことしかなかったら、きっと私たちはそれを楽しいって思えないわ。悲しみがあるからこそ、喜びが映えるのよ」


 それはとても素晴らしいことだわ、と彼女は最後に付け加えた。それは私に告げるようでもあり、自分に言い聞かせるようでもあった。彼女もまた楽園を追われた人間であり、私と同じ悲しみをその身に受けているのだ。私ほど打ちのめされていないとしても、つらくないはずはなかった。


「ごめん」と私は言った。


「なぜあやまるの」


 私は答えなかった。その代わりに目を閉じて、天を仰いだ。私は自分が不適当な発言をしてしまったことに気づいていた。私は「ありがとう」と言うべきだったのだ。私が悲しみに打ちのめされているあいだ、彼女が気丈に振る舞ってくれていたことに対して。私は自らの不甲斐なさを詫びるよりも、彼女の優しさに謝意を表するべきだったのだ。


 私はいつも大切なところで間違えてしまう。彼女を失ってしまったことも、ある意味では当然の帰結と言えた。私のように不完全な人間が彼女と一緒にいられたのは、そこが楽園であったからに他ならない。楽園が崩壊したいま、私たちはそれぞれ別々の道を歩まねばならない。たとえお互いにそれを望んでいないにしても、そうしなくてはならないのだ。


 天を仰ぐ私の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは一筋にとどまらず、後から後から幾筋も流れ落ちて私の頬を濡らした。自らのうちに抑えていた悲しみが堰を切ったように溢れだした。こんなにも深く激しい悲しみが私のうちにあったことに驚きを禁じ得なかった。条理と不条理の狭間で心は千々に乱れ、何もかもがどうでもいいと思えた。こんなにも苦しいのならば、悲しいのならば、生きていてもしょうがないのではないかと思えた。


 だがそんな私を温かく包むものがあった。その柔らかな温もりは、私の悲しみに凍えた身体を温め、苦しみに乱れた心を静かに解きほぐしていった。彼女の温もりに包まれて、私は錯乱から立ち戻った。ひととき前の惑乱が嘘のようだった。穏やかな世界の中で、彼女の鼓動だけが聞こえた。その音に耳を澄ませていると、どんな悲しみも癒されていくようだった。


「私たちは別れなくてはいけない」と彼女は言った。


 私は頷いた。


「でもそれはひとときの別れ。いっときの別離。いまは互いに違う道を歩むけれど、またどこかでその道は再び交わるかもしれない。それを信じて、いまは別れましょう」


 私は再び頷いた。


 たとえ離れていても、心が繋がっていればそれでいい。彼女の温もりに包まれて、一瞬でもそう思えたことは私にとってひとつの希望となった。


 わずかでも希望があれば人は生きていける。私はこの希望を糧にこれからの人生を生きていく。そしていつか、彼女から手渡された温もりを再び彼女に返すことができたなら、それに勝る喜びはない。


 その日の訪れを信じ、私たちは別れた。

 楽園は終わった。でもそれは、確かにそこにあったのだ。



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