真夏の死神
暑すぎる――
炎天下、僕は降り注ぐ日差しに耐えかねて、公園へと逃げ込んだ。木陰がやけに涼しそうに見えたのだ。樹木の名前はよくわからない。ブナとかクヌギとか、多分そういったものだと思う。幹はすごく太くて、僕が腕を回しても半分もたどりつかないだろう。
そんな巨大な樹木の下には、ひんやりとした木陰が広がっていた。
思った通り、とても涼しかった。
ふうう、と僕は深い息を吐いた。生き返る。しばらくはここで涼をとろう。そう思った僕の耳に、へへへ、という不快な声が響いた。見れば、大木のふもとに、小柄なおじさんが座り込んでいた。手には日本酒の一升瓶を握っている。顔は赤らみ、もうすでにかなり酔いが回っているようだった。浮浪者のような汚れた身なりをしていた。
おじさんは僕と目が合うと、だらしない笑みを浮かべた。
反射的に僕が眉をひそめると、おじさんは驚いたような顔をした。
「あんたさん……あっしが見えるんですかい?」
何を言っているのかわからなかったが、僕はとりあえず頷いた。見えるかって……そりゃ見えるだろう。そこにいるんだから。この酔っ払いは何を言っているのだ。
「そうですかいそうですかい……そりゃあご愁傷様」
おじさんはそう言って日本酒をあおった。ご愁傷様?
「どういう意味です?」
僕が尋ねると、おじさんはしまったとでもいうように顔を強張らせた。だが次の瞬間にはまただらしない顔に戻っていた。へへへ、と卑屈な笑みを浮かべる。
「なんでもありませんや……気にしないでくだせえ」
「いや、でも」
「へへへ……いけませんいけません。あんたさんみたいな立派なおひとが、あっしみたいなもんを気にかけちゃあ。放っておいてくださいよ」
そうしたいのは山々ではあったが、思わせぶりなことを言われてそのままにしておくのは気持ち悪かった。
「ご愁傷様っていうのは、確か、相手の不幸や災難に対して、深い悲しみや心中を察し、お悔やみの気持ちを表す言葉ですよね」
僕がそう言うと、おじさんは、はあ!と感嘆の声を上げた。
「博識ですなあ。あんたさん、ひょっとして学者さんですかい」
「そんなんじゃないですよ。ただの作家志望のフリーターです」
「はあ、何か作品を書いてらっしゃる」
「まだ何も……でも、もうじき書きあがりそうなんです」
だが最後で行き詰っている。
それを解消するために、散歩に出てきたのだ。
あたりを散策することで、何かが変わるような気がして。
「そうですかい……」
おじさんは僕を上目遣いで見てきた。そこには何やら憐憫の感情が見えた。彼は僕を憐れんでいるのだ。理由はわからないが、それは確かだった。説明はつかないが、僕は確かにそれを感じた。
「あんたさん、歳はいくつです」
「34ですよ」
34歳でフリーター。親からは嘆かれ、知り合いからは馬鹿にされ、数少ない友人たちはそのことに触れないようにしてくれている。わかってる。僕はろくでなしだ。夢を追いかけているといえば聞こえはいいが、実際は何も成し遂げられていない。ただひとつの作品すら、満足に仕上げられていないのだ。作家志望が聞いて呆れる。そんなことは僕にだってわかっているのだ。
だがおじさんの瞳は僕を憐れんではいても、小馬鹿にはしていなかった。
多くの知り合いが僕に向けてくるものとは違っていた。
「小説が好きなんですかい」
おじさんは僕に問いかけた。
ぽつりと放たれたその言葉は、ほとんど独り言のようでもあった。
「ええ」
僕は小説が好きだ。そこには人生がある。様々な人々の人生がそこで交錯し、ひとつの大きな物語を創り上げていく。それは無限の広がりなのだ。その広がりのなかに身を浸していたい。そこでもがいていたい。何かをつかみ、何かを築きたい。その欲求は誰よりも強い。
「差し支えなければ……話の筋を教えてもらいたいですなあ」
恥ずかしくはあったが、僕はいま書いている物語の筋をぽつりぽつりとおじさんに話した。
主人公は僕と同じ、34歳のフリーターだ。夢も同じ――作家になること。それも、ただの作家じゃない。大作家だ。世界にひとつしかない最高の物語を創ることを夢見ている。まだ何ひとつ物語を完成させていないのに、そんな大それた夢を持っている。僕と違うのは、それを応援してくれる彼女がいること。彼女は献身的に主人公を支える。でも主人公はそんな彼女を置いて旅に出る。物語が書けないのは自身に壮絶な体験がないからだ。そう思い込んだ主人公は世界を周り、様々な経験をする。だが一向に物語が書けない。そんな彼のもとに一通の手紙が届く。それは……
「なんなんですかい」
それは彼女の訃報。主人公は慌てて帰国するが、彼女の葬式はもう終わっていた。彼女の墓前で彼は泣き、後悔する。なぜもっと彼女のそばにいなかったのか。そこで主人公は初めて気づく。自分は彼女についての物語を書くべきだったのだと。
それが本来の筋。
だが僕はこの物語に疑問を抱いていた。
これだとあまりにも救いがなさすぎる。
「届いたのは……彼女からの手紙です」
僕は言う。そうだ。受け取るべきは訃報じゃない。
そんなものでいいはずがない。
「些細な日常をつづり、主人公の身を案じる彼女の優しさにあふれた手紙。それを読んで彼は気づくんです。自分が書くべきは、彼女への愛の物語だと。答えは最初からそこにあったのだと」
僕は何かに導かれるかのように、おじさんに向かって新たな物語の筋を話した。
話し終えた後、おじさんの目にはうっすら涙がにじんでいた。
「いい……話ですなあ」
「まだ書き終えてはないんですが」
「そうですかい……じゃあ、いまからお帰りになって、最後まで書いてくださいよ」
あっしはもう行きやす、とおじさんは言った。
そして立ち上がり、僕に背を向けた。
「おじさんはこれから何を?」
「何かやることがあったような気がしやすが……吞みすぎて忘れちまいましたよ」
へへへ、とおじさんは振り返って笑った。
でもそこに卑屈さはもうなかった。
それはまぶしい笑顔だった。
まるで命の輝きみたいに。
気づけば、おじさんの姿は消えていた。
木陰はひんやりとして、夏の暑さは影を潜めていた。うだるような熱はもうどこにもなかった。僕の頭もすっきりと冴えわたっているように思えた。いまなら話の続きが書けるかもしれない。そんな予感がした。
部屋に戻った僕は何かに憑りつかれたように執筆を開始した。
そして書き上げたのだ。どこまでも幸福な物語を。
それこそが僕の書きたかった物語だった。




