明日の世界
誰もがこんなはずではなかったと思いながら今日を生きている。
忸怩たる思いを抱え、不遇をかこちながら暮らしている。
周囲を見渡し、自身とそれを形作る世界があまりにも悲しい色彩に彩られていることに不安を覚える。そして明日こそはよりよい世界にしようと願いながらも、それを果たすことができずにいる。
私たちの世界は黎明ではなく、すでに薄暮に差しかかっているのかもしれない。
滾るような焦燥のなか、日々だけが無情にすぎていく。
何も語らない日常が、静かに私たちを圧し潰していく。
幼き頃に描いた夢や憧れは、いまはあの遠い日々と同じように、私たちから遥か隔たれている。
私たちはどこで間違えてしまったのだろう?
なぜ私たちはここにいるのだろう?
答えのない問いが積み重ねられていく。
いつかその重みに私たちの心が耐えきれなくなるまで、月のない夜に深々と降る雪のように、音もなくこの問いは降り積もるのだろう。
無数の疑問符たちが行き場をなくして、深閑たる心象世界をさまよっている。
私たちの心に拡がるのは渺々たる空白であり、無辺際の白い闇である。
思えば遠くへ来たものだ、と私たちは来し方を振り返る。
ある時期をすぎると過去がなんと甘美に映ることだろう。
先の見えた行く末よりも、蓋然性に充ちた来し方が愛おしく感じるのは生物としての自然な希求なのだろうか。
だが、甘い追憶に潜む毒に私たちは気づいていないわけではない。そうと知りながらも背徳的な悦びに、盲目的な空想に耽っているのだ。それはなんと悲しい人間の性なのだろう。
人はどうしてこんなにも悲しく形作られているのだろう。
その形象は極限まで悲しみを体現している――まるで造物主の深い悲しみをそのまま反映させたかのように。
私たちはみな悲しみから生まれたのだ。私たちの心の奥底には常に深い悲しみが流れていて、私たちはふとした瞬間にそれに触れてしまう。悲しみは外から来るのではない。すべて私たちの内にもともとあるものなのだ。
そのことを忘れてはいけない。
悲しみは私たちの影であり、私たち自身であるということ――それを受け入れることで、私たちは悲しみと共生することができる。悲しみに寄り添い、同化し、共に生きることができる。悲しみながらも希望を探し、人生を楽しむことができる。
切り離せない悲しみならば、寄り添って生きよう。
そう思えることができたなら、明日はきっとよりよい世界が待っている。




