薬剤師
街中でマサキさんを見かけたのは偶然だった。本屋でたまたま会ったのだ。そのときマサキさんが手に持っていたのは、筒井康隆の『旅のラゴス』だった。気づかないフリをして通り過ぎようかとも思ったが、なんとなくムッとする感情を抑えきれず、「旅にでも出るんですか」と声をかけてしまった。マサキさんは僕を見て驚いたようだった。そして手にした文庫本の背を見て、苦笑した。
「いや、そういうわけじゃない……久しぶりだな」
「ご無沙汰してます」
「ここにはよく来るのか」
「たまたまですよ。ゆっくり本を読んでる時間なんかないですからね……マサキさんと違って」
トゲのある口調だったかもしれない。僕は口にしてすぐに反省したが、謝ることはしなかった。自己嫌悪に陥った。どうして人というのはこんなにも狭量なのだろう。常識的に考えれば、仕事を辞めた人間に悪感情を持つことがよくないことだというのはわかる。でも、どうしてもそう思ってしまうのだ。残された方は、見捨てられたような気持ちになってしまうのだった。
「薬局は忙しいのか」
「ええ、大変ですよ。いろいろと制度は変わるし、会社はうるさいし……」
「そうか。相変わらずなんだな」
マサキさんは目を細める。あの頃と変わらない、優しい瞳だった。
「仕事はしてるんですか」
「いや、相変わらずの無職さ。もうおっさんだしな、どこも雇ってはくれんだろう」
「免許があるならいつでも戻れますよ」
「戻っても昔のようには働けないだろう。薬剤師に戻るつもりはないよ」
「もったいない気がしますがね」
マサキさんはうちの薬局の元薬局長だった。確か10年近く務めていたはずだ。それはチェーン薬局ではかなり異例なことだった。薬局薬剤師は異動が多い。薬局長であっても短いスパンでコロコロ変わるのが普通なのだ。よほど僻地とかでないかぎり、薬局長が固定されることは珍しい。
「今日は休みか」
「ええ、まあ」
「じゃあ飯でも食うか。近くにいい洋食屋があるんだ」
僕はマサキさんに連れられて、洋食屋に入った。昔はよくマサキさんにおごってもらったものだ。でも今日はさすがに違うだろう。無職の人におごってもらうわけにはいかない。僕だって一応薬剤師として働いて、それなりの給料をもらっているのだから。
マサキさんはオムライスを、僕はエビフライ定食を頼んだ。料理が運ばれてくるまで、少し気まずい時間があった。何を話していいかわからないのだ。でも黙っているのも苦痛なので、僕は口を開いた。
「管理薬剤師になったんですよ」
「ほう、それはすごいな」
管理薬剤師とは調剤薬局において店舗の管理をする役職であり、すべての調剤薬局は必ず管理薬剤師を置かなくてはならないと法令で定められている。いわば薬局の責任者であるが、これは会社が定める薬局長とはまた別である。薬局長とは単なる役職であって、設置は必須ではないのだ。別々の人間が務めることもあるし、兼任することもできる。マサキさんはかつて薬局長兼管理薬剤師だった。
「責任が増えて大変だな」
マサキさんは他人事のように言う。まあ、実際他人事なんだから仕方ないが。
「それに、今度は指導薬剤師の資格も取れって」
「なるほど、会社ってのは相変わらずだな」
指導薬剤師とは実務実習指導薬剤師のことで、店舗で薬学生の実務実習を受ける際にこの資格を持った薬剤師が必要になる。大学側から薬局に実習費用が支払われ、その大部分は会社の利益となる。そのために会社は社員にこの資格を取るよう強く求めてくるのだ。だがこの資格を取るためにはそれなりの経験年数が要件として必要だし、様々な研修なども受けなくてはならない。ワークショップに潜り込むためには薬剤師会などのコネも必要になるし、結構面倒なのだ。マサキさんも昔はこの資格を持っていて、何十人という学生の面倒を見ていたはずだった。
「会社は金の話ばっかりですよ」
「まあ、そりゃしょうがないだろう。儲けがなきゃおまえたちの給料も出ないわけだから」
「でも医療っていうのは……」
会話の途中で料理が運ばれてきた。僕は口にしかけた言葉を引っ込めた。しばらくは二人で黙々と料理を食べた。マサキさんのおすすめというだけあって、かなり美味い料理だった。シンプルだが、丁寧な仕事が感じられる。とても落ち着く味だった。
「ねえ、マサキさん」と僕は言った。
「ん?」
「なんで辞めたんです? まだ引退するような歳じゃないでしょう」
「もう40すぎてるんだぜ。引退してもよくないか?」
「60とかでもやってる人いるじゃないですか。定年後も嘱託で働いてる人もいますよ」
「まあ、そういうのも立派だとは思うんだが」
マサキさんはスプーンを皿の上に置いた。カラン、と音が鳴った。
「でも、おれにはおれの考え方があるんだ。長く続けることが必ずしもいいとはかぎらないだろう」
「どういうことです?」
「たとえばこれだよ」
マサキさんは先ほど本屋で買った筒井康隆の『旅のラゴス』を袋から出す。
「これは筒井康隆の最高傑作だ。筒井康隆は1965年くらいから2015年くらいまで、大体50年に渡って小説を発表してきた。これは1986年に出版されたものらしいな。つまりはここが作家としての彼のピークだったわけだ。人によって異論はあるだろうけど、おれはそう考えてる。つまり、どんな偉大な人間であっても、ピークというものは厳然と存在するってことだ」
「ピーク?」
「そう、格闘技とかだとわかりやすいよな。マイク・タイソンだとか、ヒョードルだとかさ、そういうとんでもなく強い人間だって、ピークを過ぎれば衰えていくし、最終的には負けることになる」
「マサキさんは40がピークだと?」
「そういうことだよ。筒井康隆がこの『旅のラゴス』を書いたのは50すぎとかだけど、おれみたいな凡人はいいとこ40だろう。50とかになったらもう身体が動かんよ」
「でも、衰えてもやることに意義があるんじゃないですか」
「それは本人の考え方次第だな。おれは働き始めの頃、仕事というのは自分のためにやるものだと思っていた。自分が生活していくためにやるもんだと思ってた。でもそういう考え方だとそのうち限界が来るんだ。自分なんて大したもんじゃないからな。だから自分のために頑張るなんてのは馬鹿らしくなってくるんだよ。そこでおれは気づいた。仕事っていうのは、他人のためにやるもんだってな」
「他人のため……」
「そう考えるともっと頑張れるようになった。患者とか、部下とか、そういうなんかよくわかんないけどおれを慕ってくれるやつらのために、できるかぎりのことをしてやろうって思うようになったんだ。だからおれはそのために知識を蓄え、技術を磨いた。何千種類もの薬の名前と効能を暗記して、粉や軟膏を手に持っただけで何gか判別できるようになった。常連の患者の処方を暗記して、処方箋を見ただけで前回との違いがわかるようになった。患者と少し話しただけで問題点が把握できるようになった。患者が医師に話せないでいること、彼らが本当に求めていることが手に取るようにわかった。でもな、こういうのは結局のところ、ただの技術にすぎない。そして技術というのは衰えるものだ。40をすぎて、おれは昔のように思い通りに動けないことに気づいた。判断力が鈍っていることに気づいた。それはその時点ではかすかな衰えだったかもしれない。でもそれはいずれ致命的なものになるんだ。そのことがおれにはわかったんだよ」
僕は何も言えなかった。それがマサキさんが仕事を辞めた原因だったのだろうか。他人のために行うものであるからこそ、技術が衰え続けるなかでそれを続けることはできなかったのだ。それは不誠実な行為だから。いつだったか、マサキさんは酔ってこんなことを言っていた。
「おれは誠実な人間じゃない。でも、誠実でありたいとは思っている」
それがマサキさんの人生の指針であったのだろう。人は生きる上で、何かを頼らなくてはならない。倒れそうなとき、すがるもの、寄りかかるものが必要になるのだ。誠実であろうとすること――それこそがマサキさんにとっての生きるよすがだったのだ。
食事を終え、僕はマサキさんと別れた。先ほどまでの話を反芻してみる。仕事は他人のため……か。僕にもそのように考えられるときが来るだろうか。わからなかった。僕はいまだ自分自身のためだけに仕事をしていた。それでいいと思っていた。でも、いつかはその考えにも限界が来るのかもしれない。人間にとって変化は避けられないものなのだから。
その日の訪れが待ち遠しいようでもあり、怖くもあった。




