好きな小説について
「好きな小説について語りませんか」
堀さんからそんなことを言われたとき、僕は思わず目を丸くした。小説? 堀さんが? 僕が唖然としていると、堀さんはキョトンとした顔を向けてきた。どうかしましたか?とでも言わんばかりの顔である。こんなにも顔で語る人間が他にいるだろうか、というくらいうるさい顔である。普段の堀さんはどちらかと言えば無口なタイプだが、その分顔がひっきりなしにしゃべっているし、喚いている。これは僕の受け取り方の問題かもしれないが、誰に言っても共感は得られるので、きっとみんなの共通見解であるのだろう。
「小説……って言われてもさ」と僕は言う。「堀さん、小説読まないでしょ」
「読まないと思います?」
「え、読むの?」
「いや、読まないですよ」
「は?」
「え?」
どういうこと?
「読んだことはないんですけど、読んでみようかなとは思ってるんです」
はあ、と僕は言う。堀さんってもう35歳とかだよね。その歳まで小説を読まなかった人間が、これから読むようになるとは思えないけど。でもそういう決めつけはよくないか。人間には無限の可能性がなくはない。堀さんが一念発起してこれから作家になる可能性だってある。現状、堀さんの語彙力は壊滅的だけど、言葉を知っているから文章がかけるというわけでもないし。
「どうしてそんなことを思ったの」
「休みの日とか家でめちゃめちゃ暇なんですよね。おれ、ゲームとかしないじゃないですか」
いや、知らんけど。
「なんか金のかからない時間の潰し方があればなって思って。小説ってブックオフとかで100円とかでめちゃめちゃ売ってるじゃないですか。だから白石さんにいい小説があれば教えてもらおうと思って」
「なるほど」
だいぶ時間をロスしたような気がする。おすすめの小説があったら教えてください、で済む話をここまで時間を使って理解させようとする人間はなかなかいない。暇なときも自分としゃべってたらきっと時間は一瞬ですぎると思うよ。
「どういうのがいいの?」
「いや、そういうのは特にないです」
「って言われてもさ、とっかかりがないとこっちも困るよ」
「なんかめちゃめちゃ面白いやつがいいんですけど」
「ジャンルは?」
「ジャンルとかは特にないですね」
「ミステリーとかは?」
「ミステリーってなんですか?」
「推理小説みたいなやつだよ」
「あ、推理とかは苦手なんですよね」
でしょうね。
「SFとかはどう」
「SFってめちゃめちゃ難しそうじゃないですか?」
「まあ、そうか。『三体』なんか絶対読まないよね……『銀河英雄伝説』もおすすめだけど、登場人物の名前が堀さんには長すぎるかも」
「名前が長いのは無理ですね」
「村上春樹とかは?」
「なんか聞いたことありますね」
「おれのおすすめは『国境の南、太陽の西』だけど。『スプートニクの恋人』もいいね。長いけど『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も名作だ」
「うーん、なんかピンとこないですね」
「朝井リョウとかはどうかな? 『何者』は結構面白かった。『何様』は蛇足な感じするけどね。『正欲』とかも有名だよね」
「せいよく?」
単語に惹かれたのか、堀さんの目が輝く。
「正しい欲って書いて『正欲』なんだけど。でもおれはあんまり共感できなかったな。なんか水に性的興奮を覚える人たちが出てくるんだけど、だったら家で流してりゃいいじゃんって思っちゃったし」
「そういう変な趣味なのは勘弁っすね。おれはノーマルなんで」
「でも小説って大体アブノーマルなものを描くものだからね。同性愛とか、黒人差別とか、海外の作品だとそういうのが多いね。『頬に哀しみを刻め』とか……でもああいうのって思想が前面に出すぎて、全体の調和が取れてないように感じるんだよね。読んでて疲れるというか」
「疲れるのは嫌っすね」
「じゃあライトノベルとかになるのかな。といっても、おれは最近のやつは全然知らなくて、『魔術師オーフェンはぐれ旅』あたりで止まってるんだけどね。あの作者の作品は結構好きで、『エンジェル・ハウリング』とかも名作だったような気もするけど、内容はもう覚えてないな。他だと『ブギーポップは笑わない』とかも古いか。『ザンヤルマの剣士』はもう絶版になってるし」
「あんまり古いのはちょっと」
「じゃあ時代小説とかもダメかな。垣根涼介の『信長の原理』とか『光秀の定理』とかは面白かったけどな。パレートの法則やモンティホール問題なんかを絡めてるのが秀逸でね。同じ作者だと『午前三時のルースター』が一番好きだね。ストーリーやヒロインの造形は正直まったく現実味がないんだけど、最後の文章がとにかくいいんだ。そこだけでも読む価値はあるね」
「じゃあそこだけ読みます」
「いや、それはどうかな……」
「白石さんの一番好きな小説はなんですか?」
「一番はなんだろうな……冒頭の文章が名文すぎる『テロリストのパラソル』か、すべてが完璧な『容器者Xの献身』……あるいは小説の構造で『悪意』とか、文章力が限界突破してる『図書館の魔女』も捨てがたいし……最高の群像劇である『アルスラーン戦記』もいいよなあ。『黒い家』や『クリムゾンの迷宮』も読んだときは衝撃的だったし……」
「ちょっと多いっすね」
「いや、なかなか選べないのよ」
「なんか気軽に読めて、めちゃめちゃ面白いのがいいんすよ」
「そんなのないでしょ」
小説というのは読むのに結構エネルギーがいるのだ。「よし、読むぞ!」という心構えがなければなかなか読み進めることはできない。昔は徹夜して本を読むこともあった。京極夏彦やダン・ブラウンなどの長い小説を。『鉄鼠の檻』とか『天使と悪魔』なんかは寝るのも忘れて読みふけったものだ。でもいまはもう、そんなことはできない。歳を取ると活字を追うのがつらくなってくるのだ。
「やっぱり漫画じゃないか」と僕は提案する。
「何かいいのあります? 気軽に読めて、めちゃめちゃ面白いやつ」
「そりゃあるよ。『酒のほそ道』――これしかないね」
堀さんはスマホで調べ始める。
「ああ、なるほど。居酒屋系の短い話が集まってる感じですね」
「そう、どこからでも読めるしさ。おすすめだよ」
「でも、ひとつ問題があるんですよ」
「なんだろう」
「おれ、酒飲めないっす」
そうか。じゃあもう知らん。




